纏向古墳群の被葬者たちを、主に『古事記』を基に推定してみましょう。
纏向石塚古墳:師木県主波延(ハエ)
纏向矢塚古墳:河俣毘売(綏靖天皇の后)
纏向勝山古墳:阿久斗比売(安寧天皇の后)卑弥呼?
東田大塚古墳:賦登麻和訶比売(フトマワカヒメ、懿徳天皇の后)台与?
ホケノ山古墳:十市県主の祖大目
箸墓古墳:細比売(孝霊天皇の后)
大目は『日本書紀』本文では磯城県主となっています。
箸墓の被葬者は『日本書紀』では百襲姫(モモソヒメ)になっていますが「百襲」はホソとも読み「細」に通じます。細比売はクハシヒメとも読み、ハシ墓に通じます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
纏向石塚古墳:師木県主波延(ハエ)
纏向矢塚古墳:河俣毘売(綏靖天皇の后)
纏向勝山古墳:阿久斗比売(安寧天皇の后)卑弥呼?
東田大塚古墳:賦登麻和訶比売(フトマワカヒメ、懿徳天皇の后)台与?
ホケノ山古墳:十市県主の祖大目
箸墓古墳:細比売(孝霊天皇の后)
大目は『日本書紀』本文では磯城県主となっています。
箸墓の被葬者は『日本書紀』では百襲姫(モモソヒメ)になっていますが「百襲」はホソとも読み「細」に通じます。細比売はクハシヒメとも読み、ハシ墓に通じます。
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コメント
コメント一覧 (48)
capelaurig
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すぐさま知らせが東京に飛び、協議に入った。その間、増上寺が徳川家の菩提寺であるので、その末寺の塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、なかなか東京からの知らせがこない。東京では和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていたのである。しかし和宮の遺言「将軍のお側《そば》に」とのお言葉が取り上げられ、九月十三日、増上寺での本葬となった。御遺骸は芝の増上寺に眠る夫君、徳川十四代将軍家茂公の隣に葬られた。御法名は「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」と申し上げる。
天狗党●華頂宮博経《ひろつね》親王は徳川家茂と孝明天皇の猶子。
capelaurig
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吉田義昭・及川和哉編著『図説盛岡四百年下巻〔Ⅱ〕』(郷土文化研究会、平成四年)にまったく同じ写真が掲載されており、この洋装姿の女性は旧南部藩に関係した女性であることがわかった。さらに、大久保利謙(恒駐 大久保利通の孫)-監修『旧皇族・華族秘蔵アルバム 日本の肖像第一巻』の「盛岡・南部家」の四十一頁左下の三人の集合写真に同じ顔の同一人物を発見した。この洋装姿の女性は、盛岡藩第十五代・南部利恭《としゆき》(最後の盛岡藩主)の姉、南部郁子という女性だったのである。彼女は後に華頂宮博経《ひろつね》親王妃になっている。
この華頂宮博経親王妃・郁子の写真も、東京の清水東谷の写真館で撮影されていた。従来、和宮として紹介されてきた写真は、大垂髪姿も洋装姿もそれぞれ和宮ではないものの、同じ写真師・清水東谷の写真館で撮影されていた。
capelaurig
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capelaurig
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capelaurig
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「まず、柳澤明子は明治三五年(一九〇二)五六歳で亡くなっているわけだから、当たり前だが当然、この間に撮影された写真ということになる。次にこの写真を撮影した写真師・清水東谷について調べてみると、清水東谷は明治三七年(一九〇四)に亡くなっているので、これは問題ないけれど、実際は明治十五年(一八八二)に清水東谷は養子の鈴木東谷に家業を譲っており、しかも鈴木東谷は横浜の太田町十一番地で開業していることから、問題の写真は明治十五年(一八八二)以前に清水東谷が東京で撮影した可能性が高い。
柳澤明子の夫・柳澤保申が明治十七年(一八八四)に伯爵となり、明治十八年(一八八五)三月には久能山東照宮宮司となっていることを考慮すれば、ざっくり明治十五年(一八八二)頃に撮影された写真という事が考えられる。
(柳澤保申は明治二六年(一八九三)十月二日、郡山旧邸内で死去。享年四八歳。)
明治十五年(一八八二)といえば、柳澤明子三六歳の時ということになる。この写真が柳澤明子三六歳の時の写真というのは、そういう年齢の女性の写真として納得できる。
capelaurig
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柳澤家は譜代でありながら、松平性の名乗りを許されていました。甲府から大和郡山への移封に際しても減俸されることもなく、将軍の寵臣であったが没落せず、従四位下の官位と領地を保持したまま幕末まで存続した大名家です。江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名柳澤吉保《よしやす》をはじめ、将軍の寵臣の係累でありながら柳澤家が没落しなかった。
柳澤明子には、皇女和宮との重要な共通点がありました。和宮の生年月日は弘化三年閏《うるう》五月十日(一八四六年七月三日)、柳澤明子は一八四六年生まれ、和宮と同じ生年で、ともに貴族の出自で皇室の文化と一体となることができ、自然に振る舞える。和宮の替玉にはまさにふさわしいわけです。柳沢保申(やすのぶ)は明子の旦那ですが。保申は一条家の娘、明子を和宮の代役に一時的にも仕立て上げた功績なのかわかりませんが、明治十七年には伯爵になり、明治十八年には徳川家康を祭る東照宮の宮司になっている。一条家・徳川家の秘密を守るために必要なことだったのでしょう。
capelaurig
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空海(774-835)は唐で密教を学び、日本で初めて庶民に教えを広めた。正法が行われない末法思想(他力本願)が終わり、1052年平等院鳳凰堂(阿弥陀仏)が建立、浄土思想は彼岸(あの世)で成仏する。みろく思想はこの世で浄土を作る。聖師は弥勒を至仁至愛とし、弥々革むる力とした。
聖師は1871年(1870年、落胤を隠す為)生まれ、1948年昇天
明治維新は1868年、1945年終戦
聖師は明治維新を王政復古でなく神政復古にすべきだったと語っている。
1945年12月30日付朝日新聞には、民主主義でも神に変りはない、都合のよい神社を偶像化し官幣弊社に唯の人間を祀っている事が間違いの根本だ。世界平和は全世界の軍備撤廃で実現されるとした。明治維新と第二次世界大戦の断絶は日本人の深刻な問題で、容易に埋めることはできない。戦前の天皇が戦後はアメリカに代わり、ジャパン・ハンドラーと言われる。
江戸時代、キリスト教を恐れて鎖国をし、世界との門戸を閉ざして、日本は近代化に失敗した。
そして敗戦を渋る日本に対し、1945年のヤルタ会談では北海道・東北のソ連分割も考慮され、アメリカはやむなく原爆を投下し、日本全体の占領を容易にしたという。北方領土占領で済んだのは幸運かもしれない。
capelaurig
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落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ
と詠み、涙を流した。実は皇女和宮は明治二年一月二十日頃に岩倉具視らに暗殺され(その後は替え玉)、熾仁親王の東京行拒否、有栖川宮家の侍医であった中村孝道の縁を通しての、伏見での上田よねとの出逢い、出口王仁三郎聖師の誕生につながった。
丹波は京の女官供給源であった。熾仁親王の母・佐伯祐子は京都亀岡佐伯の出身。亀岡穴太出身の出口王仁三郎の母上田よねは和宮にも会っていたという。男の子なら殺されると出生は極秘にされ、よねはご落胤を隠す為、養子を迎える。
一方、伊藤博文(1841~1909)が実権を握る。
1858年 安政の大獄で恩師吉田松陰が斬殺され、伊藤俊輔(17才)が小塚原に遺体を引き取る。遺体を清める異常な体験から、テロリストへ変貌する、1863年に長州ファイブとして英国へ密航留学し化学を学び後、処刑を命じた幕府倒幕(攘夷)そして幕府を支持した孝明天皇の暗殺(1866年)を実行したとされる。上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させ、薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。
capelaurig
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1921年、第1次大本事件は宮中某重大事件で、聖師が鶴殿親子より皇室へ、問題なしと伝え、伊藤後の権力者山縣有朋が失脚した恨みから事件を起こした。(霊界物語第52巻、応対盗に詳しい)
1935年、第2次大本事件は全国組織の昭和神聖会発足により、ご落胤である聖師が表舞台に立ち、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると判断した西園寺公望の犯行である。
下生信仰とは、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。
聖師がみろく様として、現世的には北朝の天皇として現れ、第1次大本事件までは順調に活動されましたが、第1次事件で126日、第2次事件では6年8ケ月の拘禁された。その結果、みろくの世は、言わば中途半端な状態で今日に至っています。
今後事態が好転するかは、予断を許さない状態と言えます。
capelaurig
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林芙美子が従軍して書いた『戦線』を取り上げている。この作品は戦前のベストセラーであったが、戦後は典型的な戦争協力作品として葬られ、作者の自己の作品集からも削除していたものだ。最近になって復刊している。作品は大陸で戦争を展開する兵士たちに感動し、その共感を綴ったものだ。それは大衆作家としての根を持つ林芙美子が戦争に前のめりになった日本の大衆に同調するものであるという一面がある。直接には中国人老婆や婦人への目線の中に戦争を賛美する自己を荒んでいるという見る目を見出していることである。国家的な枠づけられた「大衆」をこえて大衆と連帯する目の発見でもあったと評している。人は戦争という避けがたい契機の中で生きながら、戦争に協力に従わせながら、戦争を超えたものを発見することもできる。これはこの本の中心とでもいえる太宰治の二つの作品の分析と評としてもあるものだ。『散華』も『惜別』も国家の要請に応じて戦争に協力した作品といわれもするが、その作品の中で戦争を超えるもの、あるいは抵抗を読み取る。戦争は国家が押し付けてくるものである。それを跳ね返すという抵抗は難しい。本当に抵抗することは難しい。日本人で本当に戦争に抵抗する人は出てくるのだろうかという自問を繰り返すしかないものだ。著者はそのキーワードとして日常ということを提示している。それは大きな言葉としての自由ではなく、小さい言葉での自由である。大きな言葉の自由は小さな言葉の自由に支えられなければ存在できないからだ。
capelaurig
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柳澤明子が常時、和宮として振る舞っていたとは思えません。和宮が生きていることを証明するために、写真に和宮として撮影されるなどの条件で、限られた役割をしていたのではないか。何しろ、柳澤保申夫人という立場があるはず。写真ももっと古いものもあったのではないか。
和宮は明治二年以降も京都に在住し、明治七年(一八七四)七月に東京に戻り、麻布市兵衛町(現・港区六本木一丁目)にある元八戸《はちのへ》藩主南部信順《のぶゆき》の屋敷に居住し、皇族や天璋院《てんしょういん》・家達《いえさと》〈徳川宗家十六代当主〉をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになります。しかしこの頃より脚気《かっけ》を患い、明治十年(一八七七)八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたという証言があります。程なく明治十年九月二日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去した。三二歳という若さでした。当初、政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われました。墓所は東京都港区の増上寺。
capelaurig
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和宮の公式の死亡時期に明治十年九月二日が選ばれたかというと、日本最後の内乱、西南戦争で西郷隆盛と総司令官、有栖川宮熾仁親王(鹿児島県逆徒征討総督)が率いる官軍の戦いが同9月24日に終わったからでしょうか。熾仁親王は自身の命令下ともに江戸城無血開城を成し遂げた西郷隆盛を自刃に追いやったことになる。有栖川宮帰任までに和宮が死亡していた必要が岩倉具視にはあった。手早く葬儀を済ませる必要があった。和宮の遺骸をみるとそれが替玉であったとわかる。誰にも参列させるわけにはいかない。
西南戦争を政府は乗り切ったことで、過去の時代の象徴、和宮の存在は名目的にも必要がなくなった。十月十日に熾仁親王は、陸軍大将および元老院議長に任命されます。西南戦争の論功褒賞、和宮の真実を秘せということか。できるわけない。しかし秘さないけにはいかない。
capelaurig
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そんなとき、明治元年(1868)京都伏見の船宿で、丹波亀岡から来た女中の上田世祢(19才)と出会う。この船宿は世祢の母宇能の弟が経営していた。宇能の父は中村孝道(言霊学者)で有栖川宮家の侍医をしており2人は知り合った。熾仁親王の生母は亀岡の局(つぼね)・佐伯祐子、丹波守・佐伯祐條の娘である。熾仁親王が7才の時、死別した。母の姿と重なったのか熾仁親王は度々この船宿に通う。熾仁親王日記(1868~1869年)には調馬の事として70回も書かれている。太政官からの東上の命令(1869年)で熾仁親王34才は世祢との別れに、短冊、白綸子の小袖、菊の紋章を刻した白木の短刀、巾着を授ける。短冊には<わが恋は深山の奥の草なれや、茂さまされど知る人ぞなき>と<我恋は見山かくれの草なれや、志けさま佐れど志る人のなき>である。私の恋は深山の奥の草のように生い茂り、恋心が繁れども、誰もそれを知る人はいないという意味か。
capelaurig
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明治31年、喜三郎は細民をいじめるヤクザと大ゲンカ、袋叩きにされる。枕元で祖母・宇能に諫められる。ハッと我に返ると、富士浅間神社・木花咲耶姫の神使・松岡芙蓉仙人が立つ。喜三郎の身は二キロ離れた高熊山の岩窟の中に座す。寒い冬の中、襦袢一枚で何も食べず、水一滴許されず、一週間の霊的修業を行う。2時間の現界修業、1時間の霊界修業を繰り返す。霊界物語第1巻で、<過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは、数百年、数千年の後まで知悉し得られたのである>と述べている。高熊山修業後、鎮魂帰神法(神人感合術)を始め、審神者となり神の道を究める。喜三郎が鬼三郎となり、王仁三郎に変化する。
capelaurig
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特選
・ウクライナ武器よりガレキ死者を見よ - ふ64
秀句
・明日を見る七十億の目が光る - 鄭大熙
・8分でミサイルを見るJアラート - 原子力ガリレオ
・見るだけの分かったふりの安全圏 - 芒野
・トリチウム海に流すと大変だ - 平野幸男
・現実を見て考えよ新増設 - 乾草
「いつまで」
特選
・いつまでも自然破壊の原発屋 - 海の民
秀句
・反原発反戦の意思いつまでも - 乾草
・いつまでも無いことにするホームレス - 金狼と月
・いつまでも起こる戦争進歩なく - 芒野
・いつまでも運転します事故るまで - 原子力ガリレオ
・いつまでをいつまで延ばすガラス固化 - ふ64
capelaurig
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熾仁親王の落胤は王仁三郎以外にもう一人いて、名古屋の田中たまが生んだ<いく>とういう女性である。たまの名は熾仁親王日記に数カ所、記載があり宮内庁も認めている。いくの生まれた(明治22年)数日後に名古屋市長が熾仁親王に報告している。熾仁親王は短冊とルビーの指輪、そして産着をたまに与えている。短冊には<玉矛の道ある世をぞ仰ぐらん 万の民もひとつこころに>とあり、王仁三郎はみろくの世のお祈りじゃと語っている。全ての人から敵愾心がなくなり一つの心、みろくの世である。娘のいくは大本に入信しており、王仁三郎はいくの息子の家口栄二を、孫の直美の婿に迎えた。出口栄二は大本総長となり、1962年、北京で周恩来首相と会見している。当時の大本三代教主は三度目の弾圧があると、栄二と直美を追放してしまう。確かに内部で起こした大本第3次弾圧事件の真っ最中である。
capelaurig
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神のため御国のためにつくしたる人の子神の柱とぞなる(熾仁の子)
熾(さかん)なる稜威(みいず)照らして仁徳の徳を広むる人の出でませ(熾仁)
ありとあるすべての物も山川もよりて仕ふる御代ぞ恋しき(有栖川)
1898年高熊山修業を終えた喜三郎に、西北の方向へ行け、お前を待っている人がいると、神のお告げがある。穴太から8キロ程、離れた八木という町で茶店を開く福島久子(出口直の三女で後の霊界物語では高姫として反面教師役で登場)が母に懸った艮の金神を判ける者が東から現れる事を信じ筆先を持って待っていた。3ヶ月後、綾部で喜三郎は出口直と会談する。大本の開教は出口直に艮の金神が懸った1893年もしくは王仁三郎が高熊山に入山した1898年になる。
王仁三郎が大正時代に書いた回顧録に、自分はキリストで、直は洗礼者ヨハネに例えている。しかし当時の幹部から新参者は排撃され、主導権を握ったのは1921年第1次大本弾圧後になる。大本には浅野和三郎、谷口雅春、岡田茂吉らが入信、海軍から浅野正恭、秋山真之、飯森正芳の将校、宮中から鶴殿親子、柳原白蓮ともに霊界物語で紫姫、貴族の娘(サロメ)として登場する。大正6年貞明皇后が綾部を訪れたり、宮中某重大事件(1921年)では王仁三郎が鶴殿親子を通して色盲ではないと断言し、婚約に至ったらしい。また三女の八重野が高松宮に嫁ぐ話もあったという。当局は王仁三郎を脅威と感じていた。原敬内閣は紀元節の翌日、大正10年2月12日綾部の大本本部、大阪の大正日日新聞を家宅捜索、不敬罪と新聞紙法違反で起訴した。懲役5年の判決が出たが、大審院で審理中、大正天皇の崩御で1927年大赦令免訴、7年間の第1次大本弾圧は終了する。
capelaurig
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ジョーク混じりに原爆を投下する無神経なアメリカにへつらう日本人の心理に、おなじ日本人として理解できない。
かの国は、ヒロヒト氏および日本人全員を嫌悪していた、しかし65歳の老獪なマッカーサはヒロヒト氏を生かした、それだけで日本人はおとなしく従順になった。
ヒロヒト氏の戦争責任はこの点にあることも書いた。敗軍の将を、わたしは戦争責任の理由とはしない、「生かされた」ことを戦争責任と考えるのである。
ヒロヒト氏は御前会議において、宣戦布告を裁可した時点で、もし日本が敗戦した場合のことを考えてみたことはいっさい無かったのだろうか?
実質的には東条英機が影の最高実力者であったとしても、ヒロヒト氏は天皇という名義をブランドを看板を東条に貸し与えたのである。
一兵卒からすれば、天皇ヒロヒトという名義は、志気が高揚し、誇らしげに戦える正義心を鼓舞する絶大な効果があった。この方の為なら自分は死ねる、とまで考えることができた。
天皇陛下バンザイと叫んで死んで逝った兵士たちは、自分はいま死んで行くけれど、天皇陛下どうぞ後のことを大日本帝国のことを宜しくおねがいします、と死んで逝ったのではなかったのか。
capelaurig
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自分らは命を捧げて戦っているのに、最高の位にあるお方に本気度がなかったならば、死ぬ覚悟も決めてない天皇と知っていたなら、自分の死は「犬死にだ」とだれもが考える、生きて虜囚の辱め、なぞウソっぱち、と悟ったことだろう。
ヒロヒト氏と東条英機のふたりは国民の目に一連托生と映ったのだ。
それなのに、マッカーサーらの計画どおり狙いどおり、独裁者の汚名と責任を東条英機らにおっかぶせ転嫁して、あなたは生かされた。
もともとヒロヒト氏は戦争を止めたかった、する気がなかった、というのであるなら、軍部に対する拒否として何らかの行動はとれたはずである、なんなら御前会議の場で退位してもよかったのだ。
わたしはこの人物を考えるとき、煮え切らないこの人にやりきれなさを覚える。ミカドというものはこういう種類にできているのか?
煮え切らない性格が災いして、ほんらい助かったかもしれない敵・味方に関係なく数百万数千万人の尊い命が失われたことを思うと、まったくやりきれない。
そもそもどこの国でも、王様の基礎を築いた者の始まりというものは、残酷冷酷な人物の極みであった。親子・兄弟・親戚どおしが血で血を洗う凄惨なことを平気でやってのけたような一族だった。源氏と平家の争いも、天皇家を軸とした遠い親戚どおしだった。
どこの国の王も、そういう種類の人間のまさしく子孫である。サダムフセインをキムジョンウンを見るがいい。彼らはまさに黎明期の王たちだ。
capelaurig
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人間はたしかに社会的な生き物である。
物心がついた頃、この国にエンペラーが存在することを見聞で知った、しかしそれは社会が決めたことであり、わたし個人がそのお方をエンペラーと決めたわけではない。イラクや北朝鮮に生まれた若い人たちにしても、すでにサダムフセインやキムジョンウンが王として決まっていたのとおなじである。
ノーベル賞をもらった人を「すごい人だ」と褒めても、その息子まで褒めることはない。
腫物にでも触れるようなデリケートな目でエンペラーを見ることなどわたしにはない。空を飛ぶような人間としてではなく、ふつうの人間として彼らを見る。
世間から批判されようが、天皇に対する考え方は、こういうことだ。
熱くなったけれどハナシを憲法にもどし、…「生かされた」ことが戦争責任の理由とするのである。
いまとなっては仕方ないことだ、ヒロヒト氏は亡くなった、すべては終わったが、米軍基地はいまも居座っている。そして第九条、これがまた曲者だ。
新聞に書かれてあるように、憲法九条は、日本はみずから「指揮権、管理権」を行使できない。米軍は日本の管理下にない、日本の治外法権だ、だから米軍駐留に違法性も問題もない、という方程式になっている。
「くそったれのマッカーサー、日本人は13歳というあんたの言葉は、あんたにしちゃよくできた名言だ!!」
capelaurig
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「米軍を追っ払え」と、突き動かすものは、心底不快だから。その不快感は正直に言ってわたしのなかのナショナリズムがそうさせるのだと思う。ナショナリズムがまったくない人は、外国軍の駐留を何とも思わないだろう。
タレントに所ジョージという人がいるけれど、ああいうアメリカ好きな人間は、無条件で基地を歓迎するタイプの人たちだ。
日本人一般はナショナリズムを危険視する傾向があるけれど、よく考えてみて、米軍はアメリカナショナリズムの代名詞ではないのか?
ナショナリズムというと、大衆向けに、視覚的に認識しやすい記号として、日ノ丸・天皇・靖国をイメージする、これらは群衆心理を束ねるための、また国民の目をそらす為の装置として用意されたものです。
アメリカは日本の右と左に限らず、こういったポピュリズムに染まりやすく、深く考えることのない国民、思惑どおりに自由に操れる国民を歓迎し、利用してきた、日本政府も積極的に協力したのである。新聞記事がまさしくそれを証明している。
ルソーの言葉を借りることになるが、「投票権を持つということは、その人は政治研究の義務を充分に課せられるのである」「義務を充分に課せられる」重い言葉ではないか。
容易なことではないのですが、国民ひとりひとりが、常にこの意識を持って、はじめて真の民主主義が成り立つのではないだろうか。いま世間でおこなわれているのは民主主義の理念からほど遠いポピュリズム政治であって、ただ数の収奪戦にすぎない。
capelaurig
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戦前、天皇家は日本最大の大地主であり、莫大な有価証券と預金高を合わせると、三菱財閥、三井財閥などの優に十倍以上の資産を有し、国内総生産額の二割ほどを所有していました。尊皇に純化した昨今の半安倍の人たちが、侵略の歴史で莫大な富を得て、最大の資産家でありながら連合国から免責された天皇家に幻想を抱いているのも、こうした血と涙で書かれた負の歴史に無知だからではないでしょうか。
天皇家の資産形成は、自らも莫大な資産を得た岩倉具視を始め、伊藤博文も山縣有朋、松方正義らの支配階級によって推し進められ、日本銀行、横浜正金銀行の政府所有株の過半数が天皇家のものになり、1887年頃には、日本郵船の政府所有株のすべてが天皇家所有になったのです。
日本郵船は三菱財閥の中核会社ですが、前身の郵便汽船三菱と、渋沢財閥と大倉財閥の共同運輸とが合併した会社で、一貫して天皇家が大株主でした。日本郵船の創立以来の歴史は、からゆきさんの悲惨と絶望を代償に得られた原資によって拡大を続け、人身売買と性的虐待をビジネスにして富を得た歴史だったことは事実です。さらに麻薬の運搬、三井物産と三菱商事の麻薬密造と密輸の共同犯罪が日本郵船と大阪商船の歴史です。
capelaurig
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天皇家が大株主だったのは、北海道拓殖銀行、台湾銀行、朝鮮銀行、帝国銀行、東洋拓殖銀行、南満州鉄道、北海道炭鉱汽船、大阪商船、王子製紙、台湾製糖などなど……まさに日清戦争と台湾植民地化、日露戦争と朝鮮植民地化、南洋諸島植民地化、中国侵略戦争の歴史が、天皇家の資産形成になったことがおわかりいただけるでしょう。また天皇家は、今の東電の前身の東京電燈、東京瓦斯、帝国ホテルなどの大株主です。
国家総動員体制下で、軍閥の中枢を占める陸軍と海軍首脳は、互いに莫大な富の分け前を巡り争い、また陸軍内部では熾烈な派閥抗争が内乱にまで進み、内乱を侵略戦争に転化するために日中戦争からアジア太平洋戦争に突き進むことになるのです。全体主義体制と総力戦体制は財閥に空前の富をもたらすのですが、それを上回る富を得た軍閥は、天皇家と密着して、侵略戦争によって略奪した富の分け前を、天皇家に献上する形で、キックバックを得ていました。
capelaurig
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