中国の怪談を集めた書物に『捜神記』があります。その中にこんな話があります。
漢の武帝が甘泉の離宮で天のお祭りを行うために馬車で行列を組んで進み、黄河の支流の大河にかかる橋を渡っていると、川で女性が水浴をしているのが見えました。その女性は乳房の長さが七尺もありました。武帝が驚いて尋ねると女性は「七番目の馬車にいる人が知っています」と答えました。その馬車には張寛という人が乗っており、彼は武帝に説明しました。
「この女性は天の星です。お祭りに備えた陛下の御身の清めが十分でないため、姿を変えて注意しているのです」
武帝は感心して張寛を揚州の刺史に任命したので、世の人々は寛を「七車張」と呼んだそうです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
漢の武帝が甘泉の離宮で天のお祭りを行うために馬車で行列を組んで進み、黄河の支流の大河にかかる橋を渡っていると、川で女性が水浴をしているのが見えました。その女性は乳房の長さが七尺もありました。武帝が驚いて尋ねると女性は「七番目の馬車にいる人が知っています」と答えました。その馬車には張寛という人が乗っており、彼は武帝に説明しました。
「この女性は天の星です。お祭りに備えた陛下の御身の清めが十分でないため、姿を変えて注意しているのです」
武帝は感心して張寛を揚州の刺史に任命したので、世の人々は寛を「七車張」と呼んだそうです。
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暁部隊という共産党の武装部隊を指揮して全共闘部隊との攻防の先頭にあったが、自身の気持ちとしてはあの当時の運動の高揚感があって、いわばその延長上にある行為だと思っていたという。新宿闘争としてよく知られる1968年の反戦闘争がある。1968年闘争のピークをなすものだった。このとき彼らは独自で2万人ほどを結集した闘争をやったが、彼はそこで、つまりは大衆的運動の中ですごい高揚感(表出感)をもった。この感覚は反権力意識といっていいし、社会や国家、その壁とぶつかるときの高揚感と言ってよかった。全共闘の面々を心的に支えていた反権力意識の表出感と共通していたものと言える。対象が支配権力から全共闘に替わるが、闘いの意識は変わらなかったということである。彼らは全共闘の行動が大学自治や学生自治会の破壊であり、それを守ろうとしていたのだという。全共闘は大学の自治(戦後民主主義)を乗り越えよとしていた。
capelaurig
が
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集団の空気は時に狂気につながります。個人の狂気もあり得ますが、集団と自分のどちらが狂っているのか分からない時もあります。
capelaurig
が
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「……無線電信や、電話やラヂオが活用され来たるは、五六七の神政の魁として、もっとも結構なことなり。しかしながら物には一利一害のともなうものにして、善悪相混じ、美醜たがいに交わる造化の法則に漏れず、便利になればなるほど、一方にまたそれに匹敵するところの不便利なることが出来るものなり。電気なるものは、前述のごとく宇宙の霊素、体素より生成したものなるが、その電気の濫用のために、宇宙の霊妙なる精気を費消すればするだけ、反対に邪気を発生せしめて宇宙の精気を抹消し、ために人間その一切の生物をして軟弱ならしめ、精神的に退化せしめ、邪悪の気宇宙に充つれば満つるほど、空気は濁り悪病発生し害虫増加す。されど今日の人間としては、これ以上の発明は未だ出来てをらず、ゆえに五六七神政の過渡時代においては、もっとも有益にして必要なものとなりをるなり。も一歩進みて不増不減の霊気をもって電気に代えることになれば、宇宙に忌まわしき邪気の発生を防ぎ、至粋至純の精気によりて、世界は完全に治まり来るなり。この域に達するにも、今日のごとき浅薄なるものを捨て、神霊に目醒めざるべからず。大本信者の中には、電気燈を排斥する方々が、たまたまあるやに聞けども、それはあまり気が早すぎるなり。これ以上の文明利器が発明されて、昔の行燈が不用になりしごとくに、電燈不用の時機に電気を廃すればよし。
また宇宙には無限の精気が充満せるゆえ、何ほど電気を費消しても無尽蔵なり。決して、無くなるといふ心配はいらず。また一旦電気濫費より発生したる邪気も宇宙無限の水火の活動によりて、新陳代謝が始終行なわれをるゆえ大丈夫なり。この新陳代謝の活用こそ、神典にいわゆる祓戸四柱の大神の不断的活動によるものなり。……」
capelaurig
が
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革マル派と赤軍派は共産党的なものを壊そうとしながら、共産党的なものを体現し実現してしまった、という存在である。それはそのイデオロギ―というよりは、現実意識から乖離した形の理路や理念で人々を支配しようとする動きである。世界を変える(変革する)ときに必要な理路や理念が現実意識からから乖離したものであり、現実意識からでてくるものに敵対する存在である、そのあらわれだった。
capelaurig
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「皇道経済実現には、第一に自給自足の経済ブロックを創設することである。山陰ブロック、山陽ブロック、四国ブロック等などで、ブロック圏相互に有無相通ずることである。だんだん大きくして日本ブロック。それからアジアブロック、アメリカブロック、エウロッパブロック。アフリカブロック。オーストラリアブロック。北米ブロック。南米ブロックと大きな経済ブロックを創設して大きなブロック相互の有無相違によって、全地球の自給自足経済までに拡って行くことが神の経済経綸である」(昭和一八年『新月の影』)
「王仁は都市は十万になると言ふとるのやで」(昭和十九年六月十七日『新月の影』)
「松彦『昔のように今日(五十世紀)の時代は、毛筆や、鉛筆や、万年筆などの必要はありません。ただ指先をもって空中に七十五声の文字を記せば、配達夫はただちに配達してくれますよ。…この交通機関は二十一世紀の初期から開始されたのですよ』(霊界物語十五巻二十一章)
「弥次彦『……二十四世紀の今日に、原始時代のような、古い頭を持っているから判らぬのだ。今日の娑婆をなんと考えている、天国浄土の完成時代だ。中空を翔ける飛行機、飛行船はすでに廃物となり、天の羽衣という精巧無比の機械が発明され、汽車は宙を走って一時間に五百マイルという速力だ。蓮華の花は所狭きまで咲きみだれ、何ともかとも知れない黄金世界が現出してをるのだ。……」(霊界物語十四巻八章)
capelaurig
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特選
・在留者家族総出で国会前 - ふ64
秀句
・原発は治外法権事故っても - 原子力ガリレオ
・核守る法ナンセンス民守れ - ふ64
・悪法が次々採決される日々 - 芒野
・憲法は敵基地攻撃ゆるさない - 原子力ガリレオ
・悪法もすんなり通る現政権 - 乾草
「音」
特選
・音を上げずドイツに続け脱原発 - 芒野
秀句
・大音を出せどふりむく人はなし - 原子力ガリレオ
・岸田でも鳴り響いてる狙撃音 - 金狼と月
・甲ガンの子の声届け君のもとへ - ふ64
・日本中ひびけ反原発の叫び声 - 乾草
・審議の場届く雑音いや民意 - ふ64
capelaurig
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理路の面と、現実意識の面があり、新左翼的なものは、運動の面である程度のものを生み出しながら理路や理念の面では挫折を余儀なくされた、と言える。宮崎学はあの時代において敵対的存在であった党に所属する存在だったが、現実の運動面では共有するものをもっていたし、党派(共産党的なもの)に矛盾を意識していたという面で共通していた。宮崎学は現実の意識と現実として流通する言葉の二重性というか、その矛盾的な存在に敏感だった。現実の矛盾というか、それを見るときも、いつも二重性に気が付いていた。差別を表象する言葉と現実の意識としてある差別意識をもっている。ここには、二重性がある、人が差別を矛盾であり、悪と断じて差別を解消せんとするとき、この二重の差別意識をふまえるしかない。だが、人々は応応にしてこのことに一面的にしか対応できない。
capelaurig
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「松彦『……現界は二十世紀という、魂の小さい人間の住まっていた時代を超過し、既に三千年暮れている。現界で言えば、キリストが現れてから五十世紀の今日だ。世はだんだん開けるにつけて、地上の人間は労苦を厭い、歩くのにも電車だとか、自動車、汽車、風車、羽車などに乗って天地間を往復し、少しも手足を使わないものだから、身体はおいおいと虚弱になって、もはや五十世紀の今日では、コンナ弱々しい人間になってしまったのだ。しかしながら、十九世紀の終わりから二十世紀にかけて芽を吹きだした、三五教の教を信じ不言実行につとめ、労苦を楽しみとしている人間の系統に限って、それと反対に六尺以上の体躯を保ち、現幽神界において、神の生宮として活動しているミロク人種もありますよ』」(霊界物語十五巻二十章「五十世紀」)
●〃皇道経済〃が生動している社会
王仁三郎の論文「大正維新に就て」(大正六年)は、人類の未来像ともいえる。預言的に言い換えてゆける内容である。
◇世界がひとつの大家族になる。◇お金で心まで支配するような社会はなくなる。◇地域に即し各自が大地に接した自給経済体制ができる。◇税金はなくなってゆく。◇内面的人類的想いから、肉食は求めなくなる。◇適正な住居と環境が、社会の基本として大事にされる。◇自然国土の天恵(エネルギー、食糧、健康等など)を受ける工夫がなされてゆく。◇私有財産を必要以上に求める必要もなく、各自の人生に満足できる。◇主神とその教えにもとづき、現幽神三界を貫く人生・社会の価値基盤が準備される。◇その基盤のうえで、各自の素質に応じた働きの場ができる。◇物資情報の交通交流システムの機関(国家)と一人一人がネットワークできる。交通機関は無料になり、情報料もいらなくなる。
capelaurig
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宗教的な接近というか、関りから解放されていることなのだ。こういう自由さということが社会変革の根源的な力になるのである。そして、これは彼の行動や言葉への信頼感になるものだった。この信頼感が大きかったのである、と思う。党派的なものから解放されているという信頼だったともいえる。
吉本隆明が「自分の頭で考えろ」と言っていたことは、このことなのだが、宮崎はそこのところは資質のように体現していたと言える、宮崎は左翼というか、共産党体験から左翼の観念性にうんざりしたところがあったのだと思う。だからかれは現場主義を語り、部落問題などすぐれたレポートを書いている。注目したのは部落を権力の問題だというところを指摘しているところだった。「だから、権力構造の問題として、天皇や天皇制に対置して、非差別部落を持ってくるのは間違いだろうと僕は思っています。むしろ、権力構造じゃなくて民衆の中にある差別の問題、実はその差別が一番、非差別者にとっては残酷な問題です。」
capelaurig
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屹立)したカリスマ性、確言といえる予言、超能力、けたはずれの作歌の数、耀盌に代表される芸術性などが次第に評価されてきた。だが思想家としての王仁三郎はほとんど知られていない。
王仁三郎の思想は、大宇宙の根源力たる神が存在し、霊界が実在するという前提に立脚して展開する。同時に霊界と合わせ鏡である現界もなおざりにはしない。霊界と現界の両方に足をふんばりつつ、独自の世直し思想を展開して行く。
神とか霊界とかいえば、それだけで身構える人が多い。それは多くの宗教団体の犯したさまざまな不祥事件の影響にもよろう。そして多くの人たちが無神論者であることに一種のエリート的誇りを持つ。だが王仁三郎は、
「自分で無神論者だと思いこんでいるだけで、心の底からの無神論者は少ないという」という。
彼らを無神論者に追いこんだ責任の大半は、宗教側が負うべきであろう。世界の歴史を振り返れば、宗教という名のもとに、どれだけ多くの血を流してきたことだろう。古くは十字軍をはじめ、今日でもアイルランド紛争やイスラム世界の紛争など、数え上げればきりがない。
また宗教の名によって迷信がはびこり、金がかき集められ、豪華な殿堂伽藍が作られ、政治に利用されて教団が集票組織になるなど、宗教団体の与えた弊害は余りにも大きい。まともな神経なら反宗教になるのは当然であり、宗教憎さのゆえに宗教団体が鰹節(だし)にする神を否定したくなる。だが宗教団体がいかに堕落しようと、神の実在とはかかわりない。
capelaurig
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国家体制をめぐる人類史的な闘争論があり、その最終段階として共産主義(社会主義)と自由民主主義のイデオロギー闘争があり、自由民主主義(イデオロギー)の勝利は国家統治をめぐる「歴史」の終わりを意味するとした。つまり、国家統治をめぐる理念(イデオロギ―)闘争ではこれ以降には自由民主主義を超えるものは出てこないだろうから、今後のこの枠内での議論は続くにしても、その枠を超えるものは出てこないとしたのである。これは西欧的な政治観に依拠したものであることはいうまでもないことだが、近代西欧の思想制度を普遍的とする思想に依存していた。その意味で違いを感じてはいたが、冷戦構造の崩壊に対する分析や論評としてはおもしろかった。
capelaurig
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仏教も、神を認めない。その代わり、宇宙の大理法(大きな法則)を仏とする。
宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり。
王仁三郎のいう神とは、宇宙の活動力である。科学もまた宇宙の活動力を研究する。ただ王仁三郎のいう活動力と科学の研究対象である活動力との根本的なちがいは、それに「意志」を認めるか否かだ。
科学では意志をみとめない。活動力に意志がないというのではない。「この風はどんな気持ちで西から東へ吹くのか」とか、「この花はどんな気持ちで咲いたのか」と考えていたのでは、科学は成立しない。王仁三郎のいうように、神が宇宙の活動力だとすれば、仏教でいう宇宙の大理法と同じで、ここにおいて無神論者はいなくなる。
「神が宇宙の活動力ならば、活動力さまと言って拝めばいい。それをなぜ”神”ともったいぶった名をつける必要があるのか。そこに宗教の欺瞞がある」という反論もあろう。
例えば「人」という言葉にしても、実は何も説明していない。もし正確に言うならば、二本足で歩く哺乳動物」とでも言うほかはあるまい。「母」なる言葉も曖昧で、義理の母もあれば、育ての母もある。「私を生んでくれた女性」というしかない。
「父」 はもっと曖昧で、本当の父かどうかは母しか知らぬ。だから正確に表現しようとすると、「私を生んだ女性に私を生ましめた男性」というよそよそしさになる。「活動力」では、神の持つ神変不可思議な力や絶対善、絶対愛なる存在とはほど遠く、血の通わぬ死体を見るようなイメージになろう。結局は「神」というしかあるまい。
capelaurig
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冷戦構造崩壊を資本主義の自由民主主義の勝利とするのではなく、社会主義権力の敗北(自壊)として見ていたし、この敗北を資本主義や自由民主主義を変革していく、対抗原理の創出の課題という面から見ようとしていた。冷戦構造の崩壊の前から社会主義権力(ソ連や中国の権力)を僕は批判する立場に立っていた。だから、それを、本当の社会主義権力の創出の課題と考える基盤はあったし、そうしようと考えてきた。冷戦構造の崩壊とそれに続くソ連邦の崩壊から、すでに30年以上の歳月を経ているのだが、このフクヤマの予言というか、歴史への判断は実現したのだろうか。
capelaurig
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宇宙成立以前の天もなく地もない遙かな昔、大虚空(こくう)があった。すなわち「無」の時代である。西洋哲学の伝統の中では、「無から何ものも生じない」と考える。だが中国では、老子によって無の思想が始まり、西田哲学は絶対無を説いた。王仁三郎もすべてのものは無から始まると説く。
龍樹菩薩は空を説いた。空というのは神または霊ということである。目に見えず耳に聞こえぬ世界であるから、空というのである。空相は実相を生む。霊より物質が生まれてくることを意味する。無より有を生ずるというのも同じ意味で、神がすべての根元で森羅万象を生ずるのである。
霊が先であり、体が後である。
家を建てようという思いは外的に見て空である。けれどもその思いの中には、ちゃんと立派な建造物ができ上がっているのである。ぞれがやがて設計図となって具体化する。
さらに木材の蒐集となり、組立となり、ついに実際の大厦高楼(たいかこうろう)が現出する。空相が実相を生み、無より有が生じたのである。
真如実相という意を聞〈のか。真如は神、仏、絶対無限の力をいうのである。
そして王仁三郎は、幽(無)から顕(有)への発展過程を四つの段階に分けて説明している。
幽の幽(無の無)
幽の顕(無の有)
顕の幽(有の無)
顕の顕(有の有)
あなたは顕の顕の存在である。だがそれ以前は母の胎内にいて、見ることができない。この状態が顕の幽である。そしてその前の段階に父と母の出会いがある。その時点では、父と母との意識のなかでも、あなたは存在しない。しかし愛の結びによって、母の胎内に一点の(ホチ)、が宿る。その状態が幽の顕である。ところがその父と母もすぐに愛の結びに至ったわけではなく、無意識のなかでお互いが何かを求め合っていた。その状態を幽の幽という。
capelaurig
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フクヤマはロシア(プーチン)や中国(習近平)の言動ということより、アメリカでのトランプ大統領の登場ということにその衝撃を受けたのであろうが、世界の動向の中で、彼の分析し、予測した「自由民主主義」の展開が生き詰まり、予想外の展開にあることをみているのではないのか。その事態に対する分析と解答が本書というわけだが、かつての冷戦とは違った新冷戦が訪れるかもしれない今、フクヤマの書は非常に面白いし示唆に富む。
capelaurig
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これが宇宙の大元霊、主神の幽の幽の状態であり、古事記では、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という。主神の静的状態にある時は、時間・空間を超越している。時間・空間がないのではなく、またあるのでもない。その観念の起こるべき素因がないのだ。
不思議なことに王仁三郎の拇印(ぼいん(がまさしくOを丸く囲んだ◎の形になっており、大本では「スの拇印」という。大本から派生した宗教団体のなかには、◎を主神の象徴として標識に使用している教団もある。
◎は最初に人間の耳には聞こえない幽(かす)かな、微(ほの)かな「ス」という言霊を生む。言霊とは、言葉に宿っている霊妙な力のこと。そのスの言霊がどこまでもス-ス-ス-と伸ぴ広がり、ふくれ上がってウの言霊を生む。このウの言霊は嶋り鳴りて鳴り極まるところ、上にのぼって神霊の大原子である霊素が発生する。
これが古事記でいう高皇産霊神(たかみむすびのかみ)である。またウの言霊は下がっては物質の大原子である体素を醸成する。あらゆる物質の体を生み出す根源の言霊であり、古事記に示す神皇産霊神(かんみむ すびのかみ)である。
霊素・体素をかもし出したウの言霊は万有の霊と体を生み出す根元であり、ウの言霊を生み出したスの言霊はさらにその総根源である。
言霊学では、霊はヒ、チであり、体はカラ、カラタマを指す。また人は霊を止める存在だから、霊止(ヒト)という。またこの宇宙には、産霊(結び)という奇ぴな働きがある。
capelaurig
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近代西欧で発生した民主主義(人類最初の民主主義は古代ギリシャの民主主義)は法の支配とか、支配権力の抑制(憲法理念)としてあるが、それを支えているのが、リベラリズムであり、近代市民思想といわれるものだ。フクヤマは古典的リベラリズムの再確認と擁護という形でこの本の展開をしているが、誰もが民主主義のことを口にするが、突き詰めていくと曖昧になってしまう状況のなかでは一つの考えだと思う。民主主義論としてネグリが構成的権力論としてそれを検討しているが、曖昧さを克服しえていない、と思う。
capelaurig
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高皇産霊、神皇産霊の神名に使われる産霊の産は産む、蒸すの意であり、霊は霊、日、命の意がある。単なる連結ではなく、まったく相反するものが結び合うことで、新しい生命を生み出すという力だ。
陽極と陰極の結びで電気が生まれ、酸素と水素の結びで水が生まれる。男と女の愛の結びによって子供が生まれる。宇宙間に発生した霊(チ)素と体(カラ)素が結んで霊体(チカラ)素、いわゆる力が生まれる。このつ一つの霊力体が万物活動の原動力になる。
天之御中主神はいわゆる大元霊を指し、高皇産霊(高御産巣日)は言霊から作られた霊素で霊系の祖神、神皇産霊(神産巣日)神は同じくウの言霊から作られた体で体系の祖神になる。
高皇産霊神も神皇産霊神も、天之御中主神の活動に合わせて発生する霊体二元の働きを表現した神名である。三神でありながら一神、一神でありながら三神という三位一体の関係にあり、造化三神と言われる。また三つの身魂、すなわち瑞の身魂という。
さらにウの言霊は活動を続ける。上に昇りつめてアの言霊を生み、さらには下にくだってオの言霊を生む。ここに天の言霊であるア、オ、ウ、エ、イの五大父音が生まれる。五十音の五大母音にあたる。
さらに七十五声の一言霊が生まれ、それぞれが相和して鳴り響く。言霊のビッグパンである。これにより宇宙間に精気が発生し、精気から電子が生まれ、電子が発達して電気が発生し、動・静・解・凝・引・弛・合・分の八力が完成する。
こうして霊界が形成されるが、幽の顕の段階で、まだ現界はできていない。
capelaurig
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樺さんとともにあの安保闘争を闘ったひと、あるいは闘いを見守ったひと、同時代を生きた人の多くは樺さんの方に旅立っていきました。そんな報に接する日が多くなりました。毎年、樺さんの追悼にはその人たちの追悼も加わるようになりました。
あの安保闘争も歴史ともいうべき日になりました。何かにつけて安保闘争は想起されるものだったからです。それは、考えても、考えても考えきれない何ものかが残るものでした。日常の忙しさに忘れていても何かの折に思い起こされるとき、いつもそんな風にありました。未完の闘いとしてそれはあり、だから、過去としてではなく、現在や未来としてあるものでした。いうなら空白や不在というべき現在に差し込む未来から視線のような役割を持つものでした。過去が完結した時間になり、記号になるのではなく、それに抗って現在や未来に続いているそんな位置をもつものでした。
歴史、そうです、生きた時間が完結した記号に封じ込められることは
現在が空白で不在になることと同じです。これは歴史が殺されている、あるいは奪われていることです。それに抗っていくことは何によって可能でしょうか。記憶ですね。記憶というべき財産です。記憶は僕らの時間を存続させるのだし、時間を死なせ、簒奪するものに抗する秘訣です。樺さんは6月15日に記憶を保持することを奪われました。樺さんとともに記憶を保持することをやってきました。6月15日は安保闘争を想起する日ですし、記憶をよみがえらせ、現在という空白に抗う日です、今年も樺さんを偲び、
樺美智子さんを追悼する集まり
2023年6月15日13時 国会南通用門まえにて
capelaurig
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夢想、夢告、回心の神秘体験が夢を通して得られた例は極めて多い。夢判断は、多くの民衆に未来の吉凶を知る手がかりとなった。
ヤコブがベエルシバからハラレへ向かう途中、日が暮れてそこにあった石を枕にして寝た夜、夢の中に、天に達する梯子を天使が上り下りするのを見、その上に ヤハウェが立って彼の子孫に守護と福祉を与うべき事を啓示した。ヤコブは夢さめて<神殿に外ならず、これ天の門なり>として枕とした石を取って柱とし、膏を注ぎ、そのところをペテル(神殿)と名づけた。創世記の有名な物語はその後、多くの夢による啓示伝承の1ペ-ジを飾った。ヤコブは平凡な枕石の中に神を掘り当てたといえる。ヤハウェは<汝自己の為に何の偶像をも彫むべからず>と命じた。しかし芸術と宗教は異父兄妹である。ともにアプリオリ/エクスタシ-の状態において、神を求め、召され、美を求め、求められるからである。ヤコブの名はヒェロファニ-である。そして稲妻の一瞬のきらめきの中に現れる聖性がクラト-ファニ-であるという。すべての石、稲妻のきらめきが聖の顕現とはなり得ない。聖性はあらゆる物質と現象の中におのれを現そうとする。しかしこれを掘り当て感得するのは人間である。すべての人間に可能というわけではない。聖は特定の人間を求め、特定の人間が聖を求め、聖を発見する。
capelaurig
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冷戦構造の崩壊をフクヤマのいうように自由民主体制の勝利というようには分析しなかった。社会主義の体制が崩壊したのは自由民主体制との対抗で敗れたというよりは、自壊したのである。、だから、今後は自由民主体制の理念が現実との間の関係を試されるだろうと思った。自由民主体制がその理連と現実の関係が問われるのである。その関係、関係的な矛盾が共産主義との対抗関係中で隠されていた矛盾が表面化するというように。自由民主主義という体制、統治形態の中で、国家権力と構成員の関係、個人の権利と制度との関係などが問われるのである、と見ていた。フクヤマがこの本で扱っているのは自由民主体制が対抗関係を失ったときに直面する理念と現実の矛盾であり、統治体制と個人の関係の矛盾などであり、それは興味深いが、彼には自由や民主主義が体制的にあるときに、現実と理念の矛盾があることには着目していなかったようにも思う。自由や民主主義をブルジョワ民主主義として批判するものとはべつに、体制的理念としての自由や民主主義を現実と理念に関係から批判する動きもあったし、そこはフクヤマにはなかったのだが、そこから出てくる矛盾にフクヤマが目を向けざるをえなくなっている。
capelaurig
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原始宗教はこの異常人によって導かれ、人々の心の支柱となってきた。世界宗教は万人にその可能性を開放して、これを仏性と呼んで万人の成仏を保証し、悔い改める回心を主張する。
近代人は合理的人間であり、非宗教的人間である。神は教会の尖塔から天高く飛び去ってしまった。ニ-チェ以来、神は現代人によって殺されたともいわれる。神を飛び去らせ神を殺した現代人が果たして幸福に成り得たかどうか?合理の世界の中で果たして満足し得るかどうか?人間は疎外され、人間性を失い、自然もまた破壊されつくそうとしている。
capelaurig
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自由民主主義体制を超えるものとして社会主義という体制だった。これは資本主義批判と結びついていた。反資本主義ということと、反自由民主主義ということは結びついていたのである。この社会主義体制というのは「プロレタリア独裁による統治」ということであったが、スターリン主義という独裁的・専制的政治形態のことが明瞭になるだけだった。独裁的な政治体制ということは権威主義的な体制ということであるが、自由民主主義体制とはなにか。
「リベラリズムは。しばしば<民主主義>という言葉に包含されるが、厳密に言えば、リベラリズムと民主主義は異なる原則と制度に結びついている。民主主義とは、国民による統治を意味し、今日では、普通選挙権を付与した上での定期的な自由で公正な複数政党の選挙として制度化されている。私が用いている意味でのリベラリズムとは、法の支配を意味する。法の支配とは、行政府の権力を制限する公式なルールによる制度である、たとえ、行政府が選挙を通して民主的に正当化されたとしてもそれは制限される」。
capelaurig
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合理と常識への挑戦と、常識を破るものへの人々の歓呼とが、現代人の苦悩の一つの表現であり、そのささやかな慰しとなっている事は興味ある現象である。
1972~1973年 出口王仁三郎著作集(読売新聞社刊)全5巻 ①神と人間 ➁変革と平和 ➂愛と美と命 ④十万歌集 ⑤人間王仁三郎 はアマゾンにて中古本が入手可能です。
capelaurig
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わたし個人が「おまえこそ13歳だろ」と人から言われたら、自分は否定しない、恥ずかしいとも思わない。還暦も近い年齢に達したわたしだが、世の中は知らないことばかり、知らないことがほとんど。自分は無知だ。なんで?どうしてそうなるんだ?つねに答えを探ろうとするのはまさに13歳にふさわしい自然な態度だと思う。
学校では「正しいと思うことはキチンと主張しなさい」家庭では「ウソをついてはいけません」と言われるのが、その年頃ではないだろうか。
「世のなかは理不尽にできてるもんだ。ウソとホントが判然としないところでウソをつける人間が世のなかをうまく渡ってゆけるんだよ、青いなぁキミは」などと、悟り顔でいう老人に自分がなるのは御免こうむる。さて置いて、日本人は13歳、となると、個人に向けられたものとはまったく意味合いがちがってくる。
「皇国2600年の俺たちが、建国わずか200年のお前らからそんなこと言われて黙っていられるか!!マッカーサーよ、俺はお前のその偉そうな態度に腹立てる。しかし感謝もする。なぜって、もし俺みたいな青二才がおなじことを言ったところで誰も聞く耳を貸す者はないからだよ。あんたの口からでた言葉だからこそ、快・不快はあるにせよ、みんな耳を傾ける、そういう国民だ日本人は」
高知新聞に、13歳向けのわかりやすく書かれた記事が載っていた。砂川事件に関しての最高法廷がくだした現時点での憲法解釈についてのことである。
capelaurig
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また9条2項の戦力不保持は、永久に放棄した【侵略戦争】を引き起こせないようにするためであり、保持が禁止された戦力とは、日本が【指揮権、管理権を行使できる戦力】と定義しました。
日本に指揮権も管理権もない【駐留米軍は戦力に当たらない】として、戦力と認めて憲法違反とした伊達判決を退けました。
一方、伊達判決では、米国の戦略で駐留米軍が他国に出動し、日本が直接関係のない武力紛争に巻き込まれる危険があるなどとして、米軍駐留自体が憲法の平和主義に反すると判断されました。
これに対し最高裁は、米軍駐留の根拠となる日米安保条約には、日本の存立の基礎に重大な関係を持つ【高度の政治性】があり、一見して明らかに憲法違反で無効と認められない限りは裁判所による【司法審査権の範囲外】という考え方を明らかにしました。
こうした考え方は【統治行為論】と呼ばれます。
アメリカ公文書図書館(機密扱いにされていた公文書を50年?だか経過したのち公開して、歴史検証できるシステム)が公表した資料から、まさに上で紹介された砂川事件の最高裁判決が下される直前に、日本の政府高官がホワイトハウス高官に、これから判決しようとされる判決内容を書面で知らせていたことが、判明したという報道があった。
つまり、日本の司法は「高度な政治性」の名のもとに、その独立性が歪められ、司法と政府が一体となって砂川事件に当たったのである。
どうして日本はそうまでして卑屈になれるんだろう?そうまでして献身的にアメリカの日本支配に協力的になれるんだろう?
capelaurig
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・二十四時間 浴びられますか 放射能 - ふ64
「健康」の秀句
・サプリ飲み 今日も元気に 座り込み - 乾草
・ふるさとを 追われ逃げるも まず健康 - 原子力ガリレオ
・海殺し 東電汚水 理屈づけ - 海の民
・汚染水 健康不安 たれ流す - 芒野
・健康が 得られるヤツは 特権階級 - 金狼と月
「協力」の特選
・戦争に 協力一致 G7 - 芒野
「協力」の秀句
・軍用車 憲法違反の 提供し - 芒野
・発注す 協力金を 期待して - 原子力ガリレオ
・大人たち 見守りテント 12歳 - ふ64
・協力が いつのまにやら 支配され - 金狼と月
・声そろえ 反原発の 声高く - 乾草
capelaurig
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日本で起きたことなのに、日本人が日本国内で検証するすべもない体制と体質、政府にとって都合の悪い「真実」が国内から表面化しない国家というのは、国のあり方として大いに疑問が残る。
法律にたずさわる職業家、たとえば判事・検事・弁護士・法学者などは、あたりまえのことですが法律として書かれた文言から一歩も枠外へでることなく、その範囲内であれこれ解釈して生きている、ということを念頭におく必要がある。
たとえば、もしもわたしが一国の独裁的な王だとして、家来に命じて自分に都合よい法律を書かせたとする。
そうすると、どんなに頭の良い法律家であろうとも、独裁者たるわたしの自分勝手で都合のよい法律の文言のなかで、あれやこれやと解釈するしか手立てがないわけである。
日本国憲法一~九条はまさしく日本人(左右を問わず)をあやつり人形にするカラクリがあることを、これまでわたしはブログに書いてきた。
憲法一~八条によって、天皇ヒロヒト氏は生かされた。恩を施された日本人はアメリカに逆らえないことになった。
エノラゲイという爆撃機に搭載された原爆に書かれてあったメッセージはDear Hirohito。
ジョーク混じりに原爆を投下する無神経なアメリカにへつらう日本人の心理に、おなじ日本人として理解できない。
かの国は、ヒロヒト氏および日本人全員を嫌悪していた、しかし65歳の老獪なマッカーサはヒロヒト氏を生かした、それだけで日本人はおとなしく従順になった。
ヒロヒト氏の戦争責任はこの点にあることも書いた。
敗軍の将を、わたしは戦争責任の理由とはしない、「生かされた」ことを戦争責任と考えるのである。
ヒロヒト氏は御前会議において、宣戦布告を裁可した時点で、もし日本が敗戦した場合のことを考えてみたことはいっさい無かったのだろうか?
capelaurig
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capelaurig
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一兵卒からすれば、天皇ヒロヒトという名義は、志気が高揚し、誇らしげに戦える正義心を鼓舞する絶大な効果があった。この方の為なら自分は死ねる、とまで考えることができた。
天皇陛下バンザイと叫んで死んで逝った兵士たちは、自分はいま死んで行くけれど、天皇陛下どうぞ後のことを大日本帝国のことを宜しくおねがいします、と死んで逝ったのではなかったのか。
命を賭してまでの戦争ではなかった、とヒロヒト氏が考えていたのだとさいしょっからわかっていたなら、兵士たちはそんな戦争の為に自分が死ぬなんてバカバカしい、と思ったにちがいない。
わたしが彼らの身になれば そう考える。
自分らは命を捧げて戦っているのに、最高の位にあるお方に本気度がなかったならば、死ぬ覚悟も決めてない天皇と知っていたなら、自分の死は「犬死にだ」とだれもが考える、生きて虜囚の辱め、なぞウソっぱち、と悟ったことだろう。
ヒロヒト氏と東条英機のふたりは国民の目に一連托生と映ったのだ。
それなのに、マッカーサーらの計画どおり狙いどおり、独裁者の汚名と責任を東条英機らにおっかぶせ転嫁して、あなたは生かされた。
もともとヒロヒト氏は戦争を止めたかった、する気がなかった、というのであるなら、軍部に対する拒否として何らかの行動はとれたはずである、なんなら御前会議の場で退位してもよかったのだ。
わたしはこの人物を考えるとき、煮え切らないこの人にやりきれなさを覚える。ミカドというものはこういう種類にできているのか?
煮え切らない性格が災いして、ほんらい助かったかもしれない敵・味方に関係なく数百万数千万人の尊い命が失われたことを思うと、まったくやりきれない。
capelaurig
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capelaurig
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自分の一家六人を殺害したのち本人は橋の上から飛び降り自殺したというニュースが報道されたけれど、想像してみればいい、そういう種類の人物が血縁の人を斬り殺す光景を、目撃した近所の農民に返り血を浴びた壮絶な顔でふりむいた目に、古代の農民が震えおののく光景を想像すればいい。どこの国の王も、そういう種類の人間のまさしく子孫である。サダムフセインをキムジョンウンを見るがいい。彼らはまさに黎明期の王たちだ。
時代がくだって、当時の生々しい記憶が薄れ、体制ができあがり、神話がつくられ、庶民から自動的に尊敬されるようなものが確立されると、わが手で鋤・鍬・織り機を持たなくとも、しもじもが米や衣服を上納してくれる頃には、歌舞音曲に親しんゆで優雅に暮らせるのだ。
人間はたしかに社会的な生き物である。
この国にエンペラーが存在することを見聞で知った、しかしそれは社会が決めたことであり、そのお方をエンペラーと決めたわけではない。イラクや北朝鮮に生まれた若い人たちにしても、すでにサダムフセインやキムジョンウンが王として決まっていたのとおなじである。
ノーベル賞をもらった人を「すごい人だ」と褒めても、その息子まで褒めることはない。
腫物にでも触れるようなデリケートな目でエンペラーを見ることなどわたしにはない。空を飛ぶような人間としてではなく、ふつうの人間として彼らを見る。
capelaurig
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伝統的なもの、伝統的な体制の保守ということをイメージされがちであるが、バークにおいては保守すべきものは伝統的や体制ではなく、自由な制度であるというのはすぐれた知見だと思う。保守って何を保守したいのかをとわれるのだが、定義をはっきりさせている。
普通は保守主義というのは政治的には統治権力の急進的な変革に反対し、改良的改革は認めるというものであり、統治権力の伝統的な形態を擁護するということである。統治権力の自由な形態のことは問題にされない。保守主義であれ、急進主義であれ、政治的には統治権力のあり方をどうするかということが政治、あるいは政治思想である。政治の保守、変革には統治権力をどうするかがある。
この統治権力という問題は人々の共同体内の関係であり、共同体の運営ということであり、民主主義は構成員の自己統治ということである。神であれ王であれ、官僚であれ、他者から統治されることを排して自己統治をめざすことだ。自由の問題はそこにある。統治権力を国民の自由な意思に委ねていくのか、権力は国民の上にあって、その支配に委ねていくのかが問題である。
capelaurig
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いまとなっては仕方ないことだ、ヒロヒト氏は亡くなった、すべては終わったが、米軍基地はいまも居座っている。そして第九条、これがまた曲者だ。
新聞に書かれてあるように、憲法九条は、日本はみずから「指揮権、管理権」を行使できない。米軍は日本の管理下にない、日本の治外法権だ、だから米軍駐留に違法性も問題もない、という方程式になっている。
「くそったれのマッカーサー、日本人は13歳というあんたの言葉は、あんたにしちゃよくできた名言だ!!」
コップのなかの嵐のように、戦後の70年間、日本は右だの左だのが子供のケンカのように互いが罵り合い、どつきあってきた、そして自分の軸足をどちらか一方に置くようなすり込みをされて、そうするような対立の構図で物事を考えさせられてきた。
その間、アメリカは、痛くも痒くもなく、涼しげな顔で着々と支配を不動のもの、確固たるものとした。かつての日本は満州経営をしていたけれど、いまの日本人は満州人とおなじ目に遭っている、いや彼らより愚かかもしれない。
わたしが「米軍を追っ払え」と、突き動かすものは、心底不快だから。その不快感は正直に言ってわたしのなかのナショナリズムがそうさせるのだと思う。ナショナリズムがまったくない人は、外国軍の駐留を何とも思わないだろう。
タレントに所ジョージという人がいるけれど、ああいうアメリカ好きな人間は、無条件で基地を歓迎するタイプの人たちだ。
日本人一般はナショナリズムを危険視する傾向があるけれど、よく考えてみて、米軍はアメリカナショナリズムの代名詞ではないのか?
つまり、日本人は日本のナショナリズムを否定して、アメリカナショナリズムを肯定している矛盾に気づかないだろうか。間接的にアメリカナショナリズムをプッシュしていることに。
capelaurig
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日本の保守の歴史分析で天皇の問題があまり出てこないこともこれで理解できる。彼が伊藤博文とそこから系譜づけられる流れのうちに日本の保守の歴史を探ろうとするとき自由制度の保守ということが頭にあったことがよくわかる。丸山真男は日本では保守主義が根付かなかったという時に天皇制を基軸にした保守主義が強かったためであるということを念頭においていたことが理解できた。戦後日本の中で保守本流と呼ばれた部分がいた。これは戦後の日本の政治を支配してきた存在である。これには敗戦と占領ということ、かつて天皇と軍が統治権力の主体であったことが深く関わっていた。日本の統治権力の中で天皇と軍が主体であった経験を否定的に考え、これを排した統治権力を目指したのである。吉田茂を祖とする部分であり、この保守派はもっと言及されていい存在だし、戦後政治の中で大きな役割を果たしたのだと思うが、、日本の保守にとって天皇と戦争の問題は依然として難題である。この保守本流が憲法に対して取った態度は戦争の問題に関係しているが、これは今、その方策が問われているのである。戦争の問題は権力の問題だが、それは真の意味で自由で民主的な権力と不可分のことである。国家が非戦を貫こうとしたら自由で民主的な権力に権力を変革し続けなければならない。そこだけしか非戦の可能性はない。戦後の日本が自らの軍隊を率いて国家間の戦争に参入しなったのは幸運だったのか。戦後の保守本流が戦争体験者の声を基盤にして戦争に対して取った態度がある。これは世界関係の中で今後も取りつづけられることか、迫られて行くと思う。
capelaurig
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アメリカは日本の右と左に限らず、こういったポピュリズムに染まりやすく、深く考えることのない国民、思惑どおりに自由に操れる国民を歓迎し、利用してきた、日本政府も積極的に協力したのである。新聞記事がまさしくそれを証明している。
ルソーの言葉を借りることになるが、「投票権を持つということは、その人は政治研究の義務を充分に課せられるのである」「義務を充分に課せられる」重い言葉ではないか。
容易なことではないのですが、国民ひとりひとりが、常にこの意識を持って、はじめて真の民主主義が成り立つのではないだろうか。いま世間でおこなわれているのは民主主義の理念からほど遠いポピュリズム政治であって、ただ数の収奪戦にすぎない。
みなさんがご立腹するのを承知で言わせてもらうと、いまの時代というものはヒツジの群れ、名づけて羊群主義の時代である。
capelaurig
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自己統治に変えるという自由で民主的な権力を越えられなかったということは国家意思を国民的な意思において決定していくということができなかったことである。
capelaurig
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二月三日(一月五日) 出口直、帰神状態に。みろくの世とみろくさま(王仁三郎)の出現を予言。日清、日露、その後の世界大戦を予言。
「三せん世界一同に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮の金神が現はれて、世の立替を致すぞよ。世の立替のあるといふ事は、何の神柱にも判りて居れど、何うしたら立替が出来るという事は、判りて居らんぞよ。九分九厘までは知らせてあるが、モウ一厘の肝心の事は、判りて居らんぞよ。三千世界の事は、何一とつ判らん事の無い神であるから、淋しく成りたら、綾部の大本へ出て参りて、お話を聞かして頂けば、何も彼も世界一目に見える、神徳を授けるぞよ。
この世の鬼を往生さして、外国を、地震雷火の雨降らして、世界は神国にならんから、昔の大本からの神の仕組が、成就致す時節が廻りて来たから、苦労はあれどバタバタと埒を付けるぞよ。
からと日本の戦いがあるぞよ。此のいくさは勝ち軍、神が蔭から、仕組が致してあるぞよ。神が表に現れて、日本へ手柄を致さすぞよ。露国から始まりて、モウ一と戦があるぞよ。あとは世界の大たたかいで、是から段々判りて来るぞよ。日本は神国、世界を一つに丸めて、一つの王で治めるぞよ。
此事判ける御魂は、東から出て来るぞよ。此御方が御出になりたら、日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光輝く神世になるぞよ。」
「明治二十五年の正月元旦に、国常立尊が愈々ミロクの世が来ると云う事を御知らせになった。是は明治三十年からと云う事で、明治三十年に神界の世の立替をする。所謂弥勒の出現と云う事は、霊体を以て現われられたのを、時節到来して、茲に或形体を持って、此の世に現われたのでありますから、明治三十年からは、弥勒の世になって居るのであります。」
capelaurig
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