広辞苑第四版の「淡海三船(おうみのみふね)」の項には次のように書かれています。新しい版では多少の変更もありますが基本は同じです。
奈良時代の官人・学者。弘文天皇の曾孫。(中略)神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を撰定。(後略)
これは学問的には誤りと言わざるを得ません。『釈日本紀』所引の『私記』で確認できるのは持統天皇までであり、あとは奈良時代の二人の女帝、元明天皇と元正天皇が加わるかどうかという程度です。国語辞典に百科事典的な正確さを求めるのは無理かもしれませんが、影響力がある辞書だけに考慮してほしいところです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
奈良時代の官人・学者。弘文天皇の曾孫。(中略)神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を撰定。(後略)
これは学問的には誤りと言わざるを得ません。『釈日本紀』所引の『私記』で確認できるのは持統天皇までであり、あとは奈良時代の二人の女帝、元明天皇と元正天皇が加わるかどうかという程度です。国語辞典に百科事典的な正確さを求めるのは無理かもしれませんが、影響力がある辞書だけに考慮してほしいところです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
コメント
コメント一覧 (86)
capelaurig
が
しました
時代に対する鋭い洞察による予知と警告。
予言は曖昧さに生命がある。その曖昧さとは、意識野にのぼってくる明確さではなく、もっと下意識の中、形をとるまえの混沌としたものである。曖昧だから実体が無いと云うのではなく、曖昧だからこそ、近代知で料理できない大きな実体があるのである。その曖昧さとはなにか。
人間は曖昧な時代の流れ(潮流)や民族性、国民性、地域社会性などに左右されている。その曖昧なものの上で、賢そうに明確さやら、具体性、合理性を云々しているだけの事である。
予言の曖昧さは、その曖昧な人間の基盤に働きかけるものではないだろうか。
グロス島(霊界物語七十八卷)については、新月の影に次のように記録されている。
「グロスの島の物語(霊界物語第七十八卷天祥地瑞巳の卷)がいよいよ実現するのである。天津神が国津神になり、国津神が天津神になる。白紙で頼んだら王仁がでてやるのでその時になったら、悪い者は一番に馘にしてしまう。そうせぬと大改革はできぬ」(昭和一九年五月中旬)(謄写版92頁)
これは、予言であろうか。現実をどのレベルで見るかの問題にもなろうが、この予言は当たった予言ではない。聖師に白紙で頼むというような事はなかったからである。しかし、七八卷で書かれたことは、今も予言としての力をもっているものだ。いづれ、国津神が天津神にとって変わって……という期待ともつかないものに、神話的なバックアップという機能を果たしているのではあるまいか。
確実に当たったとは言えない予言だからこそ、その曖昧さの中で予言は生き続けるものである。
出口王仁三郎聖師は、古事記を予言書とされ、じっさいにその言霊解(大気津姫の段等)で、その予言の解明をおこなっておられる。
capelaurig
が
しました
この二つの番組は中国大陸での戦争のことと、アメリカとの戦争のことを取り上げていたのだが、どちらかと言えば、中国大陸での戦争のことの方が報じられるのが少ない。中国大陸での戦争については取り出されることに抵抗も多い。例えば、南京虐殺や「731部隊」や「従軍慰安婦」の事などはタブ―視されている。論じれば妨害や嫌がらせが強いのである。
本書は1937年(昭和12年)までの中国大陸での戦争のことが取り上げられており、しかも「日中戦争はなぜ防げなかったかのか」という副題もついている。今年は盧溝橋での日中の軍の衝突から80周年でもあり,適宜なものだ。
どうすれば戦争が止められるか(止められたのか)という自問に対する解答としてあるのだが、それは今、戦争のできる国に向かう方向に権力が舵を切ろうとしている状況にあっては切実な問いと答えになっている。
「しかし、答えは意外と簡単でした。第一に、戦争が起こらない限り、デモクラシーを鎮圧することはできない。第二に、一旦戦争が起こってしまえば、戦争が終わるまで、デモクラシーには出番がない。この二つのことを前提にすれば、問題は次の一点に絞られます。デモクラシーが戦争を止めるにはどうすればいいのか、という問題です。デモクラシー勢力が政権についていれば、戦争を止めることができる、ということです」(『帝国と立憲』)
capelaurig
が
しました
●明日、明後日のこと、一年、二年先の事を予言すれば、転載か神様扱いをされるが、十年二十年先、あるいは百年二百年先の事を予言すれば、おかしいのではないかと見られてしまう。
神の眼は幾億万里の果て迄も手にとる如くみそなはすなり
●昭和六年九月十八日に満州事変勃発。一九三一年、いさくはじめ、皇紀二五九一、じごくはじめ。
『壬申日記』2巻157頁 2月17日北国新聞の記事
大本教は昨年必ず戦争があると預言した。一九三一年の一はハジマルで、一九三はイクサでるから、いわゆる「イクサハジマル」……これが預言のネタであったらしい。
今より十年以前に現れた教祖様の神諭に、十年先を見て居れよ、駿河から悪神の仕組が始まりて来るぞよとの警告が在った。是が十年後の今日、同国から反対運動が起こってきたのも、実に神諭の霊妙不動なるに驚かざるを得ないのであります。
●『玉鏡』「開祖様の御昇天」 開祖の昇天を二年前から知っていた
開祖様御昇天のことを王仁は神様から承って二年前から知っていた。それで貴賓館の名において教組殿を造っておいた。当時金が無くて困っていたので、開祖様はたいそう御心配なされたので、八畳の間一ぱいに取っておいた金銀貨を積みあげてお目にかけたら、これで安心したと言うて大層お喜びになされた。十年事件以来みな出してしまったが、開祖様は御安心なされて御昇天になったのである。
capelaurig
が
しました
明治6年(台湾出兵)から1937年(日中全面衝突)までの歴史を、つまりは中国大陸での戦争に入る歴史を析出している。その構成はⅠ「帝国」と「立憲」のはじまり(1874~1895年)、Ⅱ「帝国」と「立憲」の棲み分け(1895~1917年)、Ⅲ「帝国」と「立憲」の終焉(1918~1937年)となっている。これは明治以降の歴史を中国との関わりで取り出したものでもある。戦後の日本ではアメリカとの関係が圧倒的に大きく,中国との関係はその分だけ小さい。戦後世代はそのような関係、あるいは関係意識の中で育って来たともいえる。今、アメリカとの関係から中国との関係が比重を増す事態になってきているが、こうした環境にあったのだから、中国との関係を軸に明治維新以降の歴史を見ることには納得しにくいところもあると思う。
capelaurig
が
しました
光照殿に天使が立った、と見ると、殿上の黒雲が真っ二つに別れて、お月さまが二つ出た。この霊夢に対するご解説
二月に、光照殿に天使が立つと同じような出来事が起こってくる。光照殿をおおうていた黒雲がその時晴れるのである。
capelaurig
が
しました
明治6年(台湾出兵)から1937年(日中全面衝突)までの歴史を、つまりは中国大陸での戦争に入る歴史を析出している。その構成はⅠ「帝国」と「立憲」のはじまり(1874~1895年)、Ⅱ「帝国」と「立憲」の棲み分け(1895~1917年)、Ⅲ「帝国」と「立憲」の終焉(1918~1937年)となっている。これは明治以降の歴史を中国との関わりで取り出したものでもある。これには少し、注釈がいるかもしれない。戦後の日本ではアメリカとの関係が圧倒的に大きく,中国との関係はその分だけ小さい。戦後世代はそのような関係、あるいは関係意識の中で育って来たともいえる。今、アメリカとの関係から中国との関係が比重を増す事態になってきているが、こうした環境にあったのだから、中国との関係を軸に明治維新以降の歴史を見ることには納得しにくいところもあると思う。
capelaurig
が
しました
昭和18年には王仁三郎は「四足の餌の奪い合いがはじまりてくるぞよ。未と申とが腹を減らして惨らしい酉あいが始まるぞよ」とある神諭(大正七年一二月)を例にとって「今年は未の年で、羊は下にいて草ばかり食う動物であるから、下級国民がくるしむ。来年は申年で、猿は木に住む中流の人が苦しみ、国民の心が動揺してくる。再来年は酉年でいよいよ上流の人が困りむごたらしい奪い合いがはじまる。大峠は三年後だ」と敗戦を予言し、「東京東京は空襲されるから早く疎開せよ「「大阪は焼けのが原になる」「九州は空襲の本場だな」「京都は安全金沢は空襲をうけない」さらに「火の雨がふる。火の雨とは焼夷弾だけではない」「新兵器の戦いや」と語り、「広島は最後に一番ひどいめにあう。最大の被害を受けて火の海と化してそして戦争は終わりだ。帰ったらすぐ奥地に疎開せよ」と疎開を急がせた。信者は原爆の難をのがれた。
王仁三郎は大正一〇年一月二日発行の「瑞能神歌」という本に「くに挙り上は五十路の老人より、下は三五の若者が、男女のわかちなく、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡り来るまの遠からず……」と早くから予言警告していた。しかし大本営の虚偽の報道の中で、王仁三郎は破局に近づいている状況や、日本の降伏についても早くから伝え、さらに「日本の敗戦後は米ソ二大陣営の対立……」「いったん日本は米国の支配下に置かれるがそれもしばらくの間や」「しばらくは平和時代がつづく」「日本はまけても世界の鑑となる」と述べた。
capelaurig
が
しました
坂野は帝国という概念も立憲という概念も現在の考えとは少し異なったところも含めて見ている。これは歴史を取り上げる上でやむをえないことであり、現在に媒介する場合に留意が必要ということだ。
capelaurig
が
しました
『救世主が最早再誕されたと仰有るのですか。大聖主メシヤたる可き神格者には九箇の大資格が必要ですが、左様な神格者は容易に得られますまい。先づ第一に、
一、大聖主は世界人類の教育者たること
二、其教義は世界的にして人類に教化を齎すもの成ること
三、其智識は後天的のものに非ずして自湧的にして自在なる可きこと
四、彼は所在賢哲の疑問に明答を与へ、世界の所在問題を決定し、而して迫害と苦痛を甘受す可きものなること
五、彼は歓喜の給与者にして、幸福の王国の報導者なる可きこと
六、彼の智識は無窮にして、理解し得べきものなる可きこと
七、其言説は徹底し、其威力は最悪なる敵をも折伏するに足るの人格者なる可きこと
八、悲しみと厄難は、以て彼を悩ますに足らず、その勇気と裁断は神明の如く、而して彼は日々に堅実を加へ、熱烈の度を増可きこと
九、彼は世界共通の文明の完成者、所在宗教の統一者にして、世界平和の確定と世界人類の最も崇高卓絶したる道徳の体現をなす可き人格を有すること 。
ではその要件を満たす者は誰かということの質問を多くの人に聞かれているのです。救世主とは世界を救うために天から地へおりてきたひとなのです。そして救世主であるからには必ず証拠を求められます。男女どちらでもいいと思いますが。
capelaurig
が
しました
帝國化と立憲化は対立というよりは輪番的な棲み分けをやってきたともいえるが、立憲化は帝国化の抑止にもなってきたというのが著者の着目点だった。帝国化、つまりは戦争による対外侵略と膨張は一本道のように進展したのではなく、抑止力が働いたのであり、その拠りどころが立憲化という動きだった。帝国化の一つの頂点は日清戦争であった。それには日露戦争を加えてもよい。日清、日露戦争にいたる歴史を、対中国関係を軸に帝國化と立憲化というところから取り出し、分析しているのだがこれはおもしろい。
明治維新以降の歴史を見直す上で示唆されるところも多いが、Ⅲの第一次世界大戦以降の分析に注目が行く。第一次世界大戦後に日本は中国との戦争にどうして入っていったのか、この本に即していえば、「なぜ、中国との戦争を防げなかったのか」という意識が喚起されるのもそこだからだ。
capelaurig
が
しました
『先に貴師は九箇の大資格を羅列して説明下さいましたが、其大資格者に私は朝夕接従して居りましたから、大略申し上げて見ませう。虚構も誇張も方便も有りませぬから、そのおつもりでお聞きを願ひます』
バハーウラーは襟を正し、さも謹厳な態度で、ブラバーサの談話を耳を傾けて聞き初めた。
汽車は早くもユデヤの高丘を足重たげに刻みて上り行く。
『私のメシヤと云ふ人格者は目下高砂島の下津岩根に諸種の準備を整へて居られます。そして其名はウヅンバラ・チヤンダーと謂つて、実に慈悲博愛の権化とも称すべき神格者です。世界人類に対して、必須の教育を最も平易に懇切に、施し玉ひつつあるのです。故に宗教家も教育家も、政治家も、経済学者も、天地文学者も軍人も職工も農夫も皆訪ね来つてそれ相応の教を受け、歓んでその机下に蝟集して居ます。如何なる難問にも当意即妙な答を与へられ、何れも満足して居ります。是が只今貴師の仰せられた第一の資格たる
「大聖主は世界人類の教育者たるべきこと」の条項に匹敵するやうに思ひます』
『成程御尤もです』
と頭を三ツ四ツ振つてうつむく。
『ツルク大聖主が伊都の御魂と顕はれ玉ふて、三千大千世界一度に開く梅の花の大獅子吼を遊ばしましたが、此御方は約りヨハネの再臨だと信じられて居られます。そして基督とも謂ふべき美都の御魂の神柱、ウヅンバラ・チヤンダーと云ふ聖主が現はれて、世界的の大教義を宣布し、凡ての人類に教化を与へたまひ、今や高砂島は言ふに及ばず、海外の諸国から各種の宗教団体の教主や代表者が、聖主を世界の救世主と仰いで参り、其教義の公明正大にして且つ公平無私なるに感化され、日に月に笈を負ふてその門下に集まつて来て居ります。
capelaurig
が
しました
第一次世界大戦は帝国化と戦争についてのこれまでも歴史的な考えに大きな反省をもたらした。第一次世界大戦の反省として帝国化と戦争についての批判が出て来た。レーニンの帝国主義戦争批判であり、ウイルソンの民族自決論であり、侵略戦争否定論である。帝国化を国家の取る方向として否定されていなかったことが初めて批判というか、否定の対象になったのである。第一次世界大戦において日本は戦勝国の立場にあったが、これは中国との関係をどうみるか、帝國化の戦略を持って臨んできた中国との関係をどう見直すかが問われたのである。
「シベリア出兵」(1918~1922年)のことに注目している。これが中国大陸での戦争の導火線になっていったのではないかと考えている。ここを取り上げて欲しかったということもあるが、第一次世界大戦中に日本が中国に突きつけた対中華21箇条の要求とその対処がまず問題になる。著者は第一次世界大戦後の日本を「帝国」の後退と立憲の前進が顕著な時代と外観している。
capelaurig
が
しました
「その智識は後天的のものに非ずして、自湧的なる可きこと」に合致するぢやありませぬか』
『ヘエー、何と不思議な方ですな。それこそ真正の大聖主メシヤですな』
『それから瑞の御魂の聖主は、あらゆる賢人哲人の疑問に対し、即答を与へて徹底的に満足せしめ、且つ世界に所在種々の大問題に対し決定を与へ、種々雑多の迫害と苦痛を甘受し、常に平然として心魂にも止めず、部下の罪科を一身に負担して泰然自若、日夜感謝の生涯を送つて居られるのです。如何なる迫害も苦痛も聖主に対しては、暴威を振ふ事は出来ないと見えます。是が第四の条件に匹敵せる大聖主の資格の一ではありますまいか』
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
汚染水誰が流していいと言う
汚染水汚染政治がタレ流す
原発のツケとタタリの汚染水
安全とうそデタラメの汚染水
汚染水海も地球も怒っている
汚染水魚もデモをしてみたい
汚染水汚れた政治のなれの果て
汚染水子々孫々へツケ流す
汚染水海の怒りがきこえるか
汚染水流せばツケはきっとくる
汚染水流す政治を押し流せ
汚染水流す罪ありたたりあり
汚染水裏でうごめくワルとワル
水路よりワイロで流す汚染水
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
聖主は暗黒なる社会又は宗教方面より非常な圧迫を受け、終には今や八洲の川原の誓約の厄に逢ひ、千座の置戸を負はせられ、髭を根底よりむしられ、手足の生爪まで抜き取られ、血と涙とを以て五濁の世を洗ひつつ、あらゆる困苦と艱難に当つて益々勇気を振り起し、世界人類のために大活躍を昼夜間断なく続けられて居られます。又諸事物に対しては神明の如く明確なる裁断を下し、即座に解決を与へ、且つその信念は日に月に堅実を増し、熱烈の度を加へ、今や官海方面より強烈なる圧迫を受けつつ泰然自若として天下万民のために心力を傾注し、五六七神政の福音を口に筆に開示されつつあります。開闢以来深く閉されつつあつた神秘の門も、漸次聖主に由つて開放されつつあります。何れの世にも勝れたるものは、世界の圧迫を一度は受けるものですが、我聖主の如きは、十字架を負ひ玉ひし基督の贖罪にも優つた程の世の圧迫と疑惑と嘲罵とを浴せかけられて少しも撓まず屈せず、殆ど旅人の春の野を行く如き状態で身を処し、能く神の教に従つて忍耐されつつ居られます』
capelaurig
が
しました
先んじられてきたことがある。事故の現地たる福島での闘いが政府筋に抑え
混まれてきたということがある。「こども甲状線がん」の対応はそれを象徴する事と言えよう。これは直接的には「こども甲状腺がん」は原発事故と関係がないということとした対応を政府筋にとらせ、それに疑惑を持つ部分にはバッシングが浴びせられるようなこととしてあった。そして、汚染水の海洋投棄について地域の漁連や議会も反対であるし、そのことは明言されているが、反対運動までは展開に至っていない。放射能汚染水の海洋投棄には反対だが、それを反対運動にまで展開しえない。そこに壁があるとでもいえよう。これは脱原発運動が再稼働阻止の面はともかく、放射能汚染(被ばく)とどう闘うかで困難なところに置かれていたことである。原発問題に対する闘いには、二つの側面があった。現在、停止中の原発の再稼働阻止がその一つであれば、原発の放射能汚染(被ばく)との闘いがもう一つであった。この二つは重層的たたかいとしてあり、連携してあったのだが、この放射能汚染との闘いの面では政府筋(権力筋)に先手をとられ、追い込められてきたのだ。たいした抵抗もなく、放射能汚染水の海洋投棄も進められてしまうかもしれないという危惧がある。どう闘っていいのかわからないという戸惑いがある。この危惧は危機感でもあるのだが海洋投棄に対する闘いの可能性を追及し、そこから道をみだすことのできないわけではない。海洋投棄に対する闘いは放射能汚染にたいする今後の闘いの道の発見になるかもしれない。
capelaurig
が
しました
『いろいろと御懇切なる御説示に預かりまして、私も大に得る所が御座いました。どうやらエルサレムに着車した様ですから、茲で御別れ致しませう。私はパレスタインの或る高丘に、大聖主の後嗣が居られますので、一寸御訪ねいたし、再び橄欖山上にお目にかかり、結構なる御説示を蒙り度いと存じて居りますから、今後宜敷く御指導を願ひます。そして私はアメリカンコロニーへ訪問したいと思つて居ります。』
capelaurig
が
しました
福島の現地では「希望の牧場」の吉沢さんたちが請戸漁港近くの湾内の魚を釣り、その線量を図って人々に知らせる。また釣った魚を政府機関などに調査を要求することをやろうとしている。これは安全と喧伝されている福島の海がどのような状態にあるかを調査し、その実態を情報として発信するものだ。政府やマスメデイア情報ではなく、自ら調査したものを発信するのだ。僕らには福島の海がどうなっているのかの情報はない。海洋汚染は進んでいるのではないかという危惧や不信はあっても、それを知る手がかりはない。情報はコントロールされており、僕らには遮断されているからだ。処理水(アルプスで処理されたとされる汚染水)は安全であるという政府(権力)筋の情報が一定程度国民に浸透する背景にはこうした背景がある。吉沢さんたちの行動はこの壁をやぶろうとするものだ。そして彼らは反対であることは明言しても、反対運動にまでは踏み出せないでいる地域の人たちに働きかけをしている。
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
汚染水の海洋投棄は8月のお盆明けくらいにはじまるのではないかという情報もあるが、それを視野にいれ、現地の闘いの拠点をつくる。
7月23日【日】に14時に浪江駅前に集合する。福島の請戸海岸か、近くの海岸での釣りに参加する。そして地域の人々への訴えの集会と行動を行う。さらに、現地での行動を継続する体制(拠点)の開始を確認する。
7月20日に東電と経産省への抗議の集会とデモを行う。この汚染水海洋投棄に反対する行動を7月23日【日】の現地行動、さらに今後の体制構築の行動につなげたい、経産省前の座り込みをこれらにお闘いのためにも強化する。経産省前の座り込みは様々な脱原発運動の母体のようなと位置があるのだからである。
capelaurig
が
しました
王仁三郎については、屹立したカリスマ性、確言といえる予言、超能力、けたはずれの作歌の数、耀盌に代表される芸術性などが次第に評価されてきた。思想家としての王仁三郎はほとんど知られていない。
王仁三郎の思想は、大宇宙の根源力たる神が存在し、霊界が実在するという前提に立脚して展開する。同時に霊界と合わせ鏡である現界もなおざりにはしない。霊界と現界の両方に足をふんばりつつ、独自の世直し思想を展開して行く。
神とか霊界とかいえば、それだけで身構える人が多い。それは多くの宗教団体の犯したさまざまな不祥事件の影響にもよろう。そして多くの人たちが無神論者であることに一種のエリート的誇りを持つ。王仁三郎は、
「自分で無神論者だと思いこんでいるだけで、心の底からの無神論者は少ないという」という。無神論者に追いこんだ責任の大半は、宗教側が負うべきであろう。世界の歴史を振り返れば、宗教という名のもとに、どれだけ多くの血を流してきたことだろう。今もその争いは世界のどこかで続けられており、古くは十字軍をはじめ、今日でもウクライナ侵攻やイスラム世界の紛争など、数え上げればきりがない。
宗教の名によって迷信がはびこり、金がかき集められ、豪華な殿堂伽藍が作られ、政治に利用されて教団が集票組織になるなど、宗教団体の与えた弊害は余りにも大きい。まともな神経なら反宗教になるのは当然であり、宗教憎さのゆえに宗教団体が鰹節(だし)にする神を否定したくなる。だが宗教団体がいかに堕落しようと、神の実在とはかかわりない。
capelaurig
が
しました
ここには福島第一原発の事故以来の放射線被爆についての攻防の歴史がある。福島の原発事故以来呈した原発の再稼働という問題と、放射線被爆の問題が登場した。再稼働をめぐる攻防についての言及は省くが、放射線被爆では政府・官僚・電力独占体の無責任な放射能対策が続けられている。トリチウムを含む汚染水の海洋放出(投棄)はその節目をなすものであり、この後には青森六ケ所村の再処理工場からの汚染水(一日に原発一基分の汚染水)放出が予測され、また汚染土の拡散的な処理が待ち受けている。こうした事態の中で、政府や官僚、電力独占体の政策(国民の健康被害などを無視した政策)に対して有効な抵抗策が見いだせないということも事実である。
capelaurig
が
しました
世界の人口の大きな比率を占める仏教も、神を認めない。その代わり、宇宙の大理法(大きな法則)を仏とする。
宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり。
王仁三郎のいう神とは、宇宙の活動力である。科学もまた宇宙の活動力を研究する。ただ王仁三郎のいう活動力と科学の研究対象である活動力との根本的なちがいは、それに「意志」を認めるか否かだ。
「この風はどんな気持ちで西から東へ吹くのか」とか、「この花はどんな気持ちで咲いたのか」と考えていたのでは、科学は成立しない。そこで前提として、意志を無視するところから始まる。王仁三郎のいうように、神が宇宙の活動力だとすれば、仏教でいう宇宙の大理法と同じで、ここにおいて無神論者はいなくなる。
「神が宇宙の活動力ならば、活動力さまと言って拝めばいい。それをなぜ”神”ともったいぶった名をつける必要があるのか。そこに宗教の欺瞞がある」という反論もあろう。
例えば「人」という言葉にしても、実は何も説明していない。もし正確に言うならば、二本足で歩く哺乳動物」とでも言うほかはあるまい。「母」なる言葉も曖昧で、義理の母もあれば、育ての母もある。「私を生んでくれた女性」というしかない。
「父」 はもっと曖昧で、本当の父かどうかは母しか知らぬ。だから正確に表現しようとすると、「私を生んだ女性に私を生ましめた男性」というよそよそしさになる。「活動力」では、神の持つ神変不可思議な力や絶対善、絶対愛なる存在とはほど遠く、血の通わぬ死体を見るようなイメージになろう。結局は「神」というしかあるまい。
capelaurig
が
しました
政府やそれにつらなる専門家たちの安全安心神話(例えばトリチウムについての安全神話)が一方的に流されるのに対し、その神話(嘘)を暴く部分の闘いが弱いという。福島第一原発の事故の直後には放射線被ばくの問題がシーベルト(放射線線量)の許容範囲をめぐって話題になったことはある。政府や官僚たちの放射線被爆についての対応がそれなりに巧妙だったこともあるが、彼らを背後で支えたICRP(国際放射能防護委員会)やそれと組んでいるIAEA(国際原子力機関)が科学的な裏づけをしてきたこともある。日本の政府や官僚、電気独占体の対策は彼らの理論を支えにしている。IAEAは最近、処理水と称して海洋投棄する汚染水が国際的な安全基準に合致しているという報告書をだした。ICRPもIAEAも権力や独占体とは独立した科学的機関ではない。放射線被と健康被害の関係を批判し、その経験を踏まえ放射線被爆と健康被害の関係、とりわけ内部被爆の問題を言及している。放射能汚染水に含まれるトリチウムの問題も言及されている。
capelaurig
が
しました
宇宙成立以前の天もなく地もない遙かな昔、大虚空(こくう)があった。すなわち「無」の時代である。西洋哲学の伝統の中では、「無から何ものも生じない」と考える。だが中国では、老子によって無の思想が始まり、西田哲学は絶対無を説いた。王仁三郎もすべてのものは無から始まると説く。
龍樹菩薩は空を説いた。空というのは神または霊ということである。目に見えず耳に聞こえぬ世界であるから、空というのである。空相は実相を生む。霊より物質が生まれてくることを意味する。無より有を生ずるというのも同じ意味で、神がすべての根元で森羅万象を生ずるのである。
霊が先であり、体が後である。
家を建てようという思いは外的に見て空である。けれどもその思いの中には、ちゃんと立派な建造物ができ上がっているのである。ぞれがやがて設計図となって具体化する。
さらに木材の蒐集となり、組立となり、ついに実際の大厦高楼(たいかこうろう)が現出する。空相が実相を生み、無より有が生じたのである。
そして王仁三郎は、幽(無)から顕(有)への発展過程を四つの段階に分けて説明している。
幽の幽(無の無)
幽の顕(無の有)
顕の幽(有の無)
顕の顕(有の有)
あなたは顕の顕の存在である。だがそれ以前は母の胎内にいて、見ることができない。この状態が顕の幽である。そしてその前の段階に父と母の出会いがある。その時点では、父と母との意識のなかでも、あなたは存在しない。しかし愛の結びによって、母の胎内に一点の(ホチ)、が宿る。その状態が幽の顕である。ところがその父と母もすぐに愛の結びに至ったわけではなく、無意識のなかでお互いが何かを求め合っていた。その状態を幽の幽という。
この世で起こることのすべてが、このような段階をへて顕在化する。
capelaurig
が
しました
政府や東電の海洋放出に対する見解と西尾の見解は対立する。政府筋は安全で身体に対する影響は考えられないというが、それには何らの実証も科学的根拠もない。ただ、放射線被爆の健康被害がすぐには症状が出ずにその発症が晩発性だということを利用して安全であると言っているに過ぎない。その安全性を根拠づけるものはない。確かに西尾の緩慢な殺人行為だというのも実証が難しいかしい。このことは西尾も自覚している。彼は放射線被爆が症状となって現れるのは晩発性であり、長い時間の中でしかあらわれないこと語っているからだ。
だから、本書の内容は20¬~30年たって見直されるかもしれないとか語っているほどだ。ただ、放射線被爆をたいしたとがないということや安全だということに疑念を抱いている。疑念を突き詰めるのは困難だとしても、それは政府筋の政策への不信としてある。この場合の根拠は内部被爆に対する軽視にあることもわかっていた。政府筋の放射線被爆に対する対策はICRPの勧告によってなされているが、その情報で操作もされている。放射線被爆の人体影響の目安はICRPの勧告が国際的採用され、日本をこれに沿って法体系がつくられているが、ここでの問題は放射線の内部被爆問題が軽視されていることだ。
capelaurig
が
しました
これが宇宙の大元霊、主神の幽の幽の状態であり、古事記では、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という。主神の静的状態にある時は、時間・空間を超越している。時間・空間がないのではなく、またあるのでもない。その観念の起こるべき素因がないのだ。
余談になるが、不思議なことに王仁三郎の拇印(ぼいん(がまさしくOを丸く囲んだ◎の形になっており、大本では「スの拇印」という。大本から派生した宗教団体のなかには、◎を主神の象徴として標識に使用している教団もある。
◎は最初に人間の耳には聞こえない幽(かす)かな、微(ほの)かな「ス」という言霊を生む。言霊とは、言葉に宿っている霊妙な力のこと。そのスの言霊がどこまでもス-ス-ス-と伸ぴ広がり、ふくれ上がってウの言霊を生む。このウの言霊は嶋り鳴りて鳴り極まるところ、上にのぼって神霊の大原子である霊素が発生する。
これが古事記でいう高皇産霊神(たかみむすびのかみ)である。またウの言霊は下がっては物質の大原子である体素を醸成する。あらゆる物質の体を生み出す根源の言霊であり、古事記に示す神皇産霊神(かんみむ すびのかみ)である。
霊素・体素をかもし出したウの言霊は万有の霊と体を生み出す根元であり、ウの言霊を生み出したスの言霊はさらにその総根源である。
言霊学では、霊はヒ、チであり、体はカラ、カラタマを指す。また人は霊を止める存在だから、霊止(ヒト)という。またこの宇宙には、産霊(結び)という奇ぴな働きがある。
capelaurig
が
しました
政府が福島第一原発事故後に除染対策などに力を注ぎ、内部被爆の問題に対策も対億もしてこなかったことは明瞭だが、その背後にはICRPやIAEAの内部被爆問題の軽視がある。ICRAやIAEAでは放射線被爆における内部被爆の問題が軽視されてきたし、そこに放射線被爆の認識とその対策と政府と西尾の対立がある。放射線被爆、とりわけ内部被爆の症状が見えるまで時間がかかることと、内部被爆問題の軽視が科学的よそおい持った形で流布されるという二重の事情で、放射線被爆への言及が困難に置かれてきたと言える。この西尾の見解は困難な壁を崩すヒントがあたえられる。西尾はガンの放射線治療に携わってきた経験とそこで得た知見から放射線内部被爆についての認識を提起している。放射線内部被爆という問題は放射線被爆をめぐる最も難しいし、根源的な問題である。西尾はこの問題にもっともよく迫っていると思う。ICRPでは放射線を「気体」として理解し、素粒子としては理解していないというところから始まる、内部被爆軽視の切開は一読して欲しい。
capelaurig
が
しました
高皇産霊、神皇産霊の神名に使われる産霊の産は産む、蒸すの意であり、霊は霊、日、命の意がある。単なる連結ではなく、まったく相反するものが結び合うことで、新しい生命を生み出すという力だ。
例えば陽極と陰極の結びで電気が生まれ、酸素と水素の結びで水が生まれる。男と女の愛の結びによって子供が生まれる。宇宙間に発生した霊(チ)素と体(カラ)素が結んで霊体(チカラ)素、いわゆる力が生まれる。この一つ一つの霊力体が万物活動の原動力になる。
天之御中主神はいわゆる大元霊を指し、高皇産霊(高御産巣日)は言霊から作られた霊素で霊系の祖神、神皇産霊(神産巣日)神は同じくウの言霊から作られた体で体系の祖神になる。
高皇産霊神も神皇産霊神も、天之御中主神の活動に合わせて発生する霊体二元の働きを表現した神名である。三神でありながら一神、一神でありながら三神という三位一体の関係にあり、造化三神と言われる。また三つの身魂、すなわち瑞の身魂という。
さらにウの言霊は活動を続ける。上に昇りつめてアの言霊を生み、さらには下にくだってオの言霊を生む。ここに天の言霊であるア、オ、ウ、エ、イの五大父音が生まれる。五十音の五大母音にあたる。
さらに七十五声の一言霊が生まれ、それぞれが相和して鳴り響く。言霊のビッグパンである。これにより宇宙間に精気が発生し、精気から電子が生まれ、電子が発達して電気が発生し、動・静・解・凝・引・弛・合・分の八力が完成する。
こうして霊界が形成されるが、幽の顕の段階で、まだ現界はできていない。
capelaurig
が
しました
類似語としては、ボキャブラリーである。大本信仰のエッセンスでもある。
物語第10巻、第2篇、禊身(みそぎ)の段に、言霊解(げんれいかい)一~四にある、一霊(直霊)四魂(勇・荒魂、親・和魂、愛・幸魂、智・奇魂)、曲霊(争、悪、逆、狂)は悪魔であり、邪神、妖魅、探女なり、神明の戒律であり、霊魂(恥、悔、省、畏、覚)の五情は神明の戒律であり、霊魂中に含有す。釈迦・基督の十戒は人智の開明に大害を為す。
天之御中主神はいわゆる大元霊を指し、高皇産霊(高御産巣日)は言霊から作られた霊素で霊系の祖神、神皇産霊(神産巣日)神は同じくウの言霊から作られた体で体系の祖神になる。
高皇産霊神も神皇産霊神も、天之御中主神の活動に合わせて発生する霊体二元の働きを表現した神名である。三神でありながら一神、一神でありながら三神という三位一体の関係にあり、造化三神と言われる。また三つの身魂、すなわち瑞の身魂という。
さらにウの言霊は活動を続ける。上に昇りつめてアの言霊を生み、さらには下にくだってオの言霊を生む。ここに天の言霊であるア、オ、ウ、エ、イの五大父音が生まれる。五十音の五大母音にあたる。
さらに七十五声の一言霊が生まれ、それぞれが相和して鳴り響く。言霊のビッグバンである。これにより宇宙間に精気が発生し、精気から電子が生まれ、電子が発達して電気が発生し、動・静・解・凝・引・弛・合・分の八力が完成する。
コトタマは規定語、文体、短歌、情念の基本的な精神状態の発露であり、生活形態(型)である。
capelaurig
が
しました
トリチウムを様々の形態で取り込みこと、それを彼は長寿命放射性元素取り込み症候としてしてきしている。内部被爆のことである。放出された汚染水に含まれるトリチウムは海産物などにとどまり、それを摂取した人に長い期間をとうして健康被害を蓄積させていく。それが病状としてあらわれるのに時間を経るにしても、危険(健康被害)の累積であることは論を待たない。政府がトリチュウムを含む汚染水の放出が安全であると言い張るのは、処理水として危険性を取り除いたという放射線内部被爆の軽視、あるいは無視、隠蔽がある。そのための理論装置を準備してきたのはICRPやIAEAであるが、放射線内部被爆への対応が根拠になっている。この本は放射線内部被爆の進展という観点からトリチウム(トリチウムを含む汚染水の放出)の危険性を指摘している。政府の安全神話の嘘は直ぐに理解されると思う。これは政府がトリチウム人体への影響は少ないということにたいして、環境中で濃縮される指摘している。環境の中に濃縮されたものを取り込み、放射線内部被爆にさらされるのである。
capelaurig
が
しました
弥勒菩薩は天上に生まれ、仏教天界世界観の一つ兜卒天にあって、釈迦の入滅後56億7千万年後、下生して衆生を救う未来仏、弥勒如来と称される。弥勒信仰は上生信仰と下生信仰があり、56億7千万年後、弥勒菩薩が下生して釈迦の救いに漏れた人々を救う信仰。平安時代の末法思想を縮めて、1053年、藤原頼道が宇治の鳳凰堂を建立した阿弥陀如来の信仰と重なり、釈迦が滅するときの印璽を慈尊に授け、弥勒菩薩が成道すべきとの真言を開いた空海を、聖師は高く評価された。
天照大神と対峙する瑞の大神、素戔嗚尊(聖師)は、言魂としての霊界物語12巻で、3女神が登場し、深雪、秋月、橘姫による2度目の天の岩戸開きを行う。
みろく下生された昭和3年3月3日(56歳7ケ月)の前後に、聖師は台湾から樺太まで巡教され、月宮殿を造営し、歌、合気道を実践され、身をもって霊五体五を強調された。ぬけ参り、阿波踊り、三河万才など、みろくが下生し、みろくの世が来るという民衆のエネルギー(みろくの理想世界、平和への変革思想)です。聖師は、記紀神話と異なる国祖神の隠退再現、艮の金神が三千年押し込められた大本を、国家に公認して貰うのでなく、弥勒の働きをする使命が自分にあるとした。
皇祖神天照大神との万世一系の下に、君主制を巧みに成文化した明治憲法は、岩倉/伊藤/井上により、国民に義務を強制させた。国家神道にては、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神と天照大神の四神となり、体制を確立していく。祭政一致、一君万民の国体とする、
天皇の日本統治の根拠を、前近代的な宗教の次元に求め、現人神を中心とする国教的に創造し、臣民に天皇制ファシズムを制度化した。
capelaurig
が
しました
よく知られていること だが、政府は 2015 年に福島の漁業関係者(漁連)と合意なくして処分(放出)は行わない そうであると約束をしたが、それを反故にして強行しようとしている。 政府は汚染水がアルプスで処理し、薄め(稀釈)られているのだから安全で、人体に影響 はないとし、電力会社はその宣伝をしている。処理水と称している汚染水はトリチウムを分 離し、取り除いてはいないし、それ以外にも危険な放射物質(核種)を含んでいる。事故で 発生した膨大な汚染水を何十年にもわたって垂れ流し続けるわけでから、危険でないはず など考えられない。政府は安全だというが、その証拠を示したことはないし、証明をしたことはない。放射線被爆、特に内部被爆の危険についてはそうである。
放射能(放射線)で汚染された海産物などを摂取することで、食物連鎖として起こる病状について政府はそれを 隠蔽し、その因果関係の解明が難しいことを理由にそれを隠蔽し、否定してきた。 放射線被爆(特に内部被爆)の病状が発覚するのに時間(数年~十数年といわれる)がかかることから、それを否定して来たのだ。これは ICPR(国際放射能防護委員会)や IAEA(国 際原子力機関)の放射線被爆に対して取ってきた政策でもあるが、それを教科書にしてきた ことでもある。放射線の外部被爆から発生する急性の病状には一定の対応策(人が浴びる放 射線量の規制、いわゆるシーベルト規制)をしめしてきたが、内部被爆は軽視し否定的だったのだ。
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
特選
・ワンコイン気づけば2コイン3コイン - ふ64
秀句
・東海の地震はじわり近づいて - 原子力ガリレオ
・汚染水反対じわりアジアから - 芒野
・夏空に汚染流すな汗ジワリ - 海の民
・じわじわと政府もくろむ再稼働 - 乾草
・じわりよりキレ味スルドイハンチバック - 金狼と月
「工夫」
特選
・政権を代える工夫がまだ足らず - 芒野
秀句
・次の事故逃げる工夫は海外か - 原子力ガリレオ
・外務省マイナンバカードやめさせよ - 三里塚
・汚染水止める工夫一つもなし - 海の民
・マイナンバーやめる工夫を求められ - 乾草
・武器送る工夫より戦止む(いくさやむ)工夫 - ふ64
capelaurig
が
しました
処理水ではなく汚染水である=ALPSの性能は低く常に故障している=放射性物質を取り切れない(I129、 Sr90、C14 などが残存)。また、汚染水に含まれる放射性物質が63種類かどうかも怪しい。また、海洋投棄する際に「濃 度規制」をしても無意味である。何故なら、結局全部捨ててしまうので、薄めようが何をしようが全部捨てることに変わりは ない(シロウトだましの「似非安全対策」)。
汚染水の海洋投棄は、いったん始めると何十年も続く=福島沖から南の海域は深刻な放射能汚染地帯と なる(福島県沿岸は北から南に向けて海流が流れている)。
福島県沿岸で獲れた魚から 1 万8千ベクレル/kg の放射性セシウムを検出=魚は広い海域を泳ぎ 回る(福島沖から北海道・釧路沖まで回遊したヒラメがいた)。
汚染水は海に捨てなくても他に方法はある=①土地は福島第一原発周辺にいくらでもあるからそこに貯留 タンクを増設して置けばよい(無いのは土地ではなくて政府・東電の「やる気」)、②福島第一原発の事故原発(1~4 号機) の周りに大きくて深い堀をほり、そこに流れ込んでくる地下水や雨水を核燃料デブリに触れる前に組み上げて海に捨てる(貯留汚染水の今以上の増加を止める)、③トリチウムを取り除く技術もある(コスト検証が不十分)。
capelaurig
が
しました
(聖師が初心者向けには、この章から読むのが良いと推薦されているのがこの総説歌です。)
(文中の竜樹菩薩とは、龍樹の空理論で有名になった、2世紀にインドに生まれた大乗仏教の祖です。)
啣みし鳩の影もなし 天地曇りて混沌と 妖邪の空気充ち充ちて
人の心は腐りはて 高天原に現はれし ノアの方舟尋ね侘び
百の神人泣き叫ぶ 阿鼻叫喚の惨状を 救い助くる手力男の
神は何れにましますぞ 天の宇受女の俳優の 歌舞音曲は開けども
五つ伴男はいつの日か 現はれ給ふことぞかし つらつら思いめぐらせば
天の手力男座しませど 手を下すべき余地もなく 鈿女舞曲を奏しつつ
独り狂へる悲惨さよ 三五教の御諭しは 最後の光明とどめなり
ナザレの聖者キリストは 神を楯としパンを説き マルクス麺麭(パン)もて神を説く
月照彦の霊の裔 印度の釈迦の方便は 其侭真如実相か
般若心経を宗とする 竜樹菩薩の空々は これまた真理か実相か
物理に根ざせる哲学者 アインスタインの唱へたる 相対性の原理説は
絶対真理の究明か 宗教学者の主張せる 死神死仏を葬りて
最後の光は墓を蹴り 蘇へらすは五六七神 胎蔵されし天地の
根本改造の大光明 尽十方無碍光如来なり 菩提樹の下聖者をば
起たしめたるは暁の 天明閃く太白星 東の方の博士をば
馬槽に導く怪星も 否定の闇を打破る 大統一の太陽も
舎身供養の炎まで 残らず五六七の顕現ぞ 精神上の迷信に
根ざす宗教は云ふも更 物質的の迷信に 根ざせる科学を焼き尽し
迷へる魂を神国に 復し助くる導火線と 秘かに密かに唯一人
二人の真の吾知己に 注がむ為の熱血か 自暴自爆の懺悔火か
capelaurig
が
しました