2017年07月

昨日取り上げた『命売ります』の主人公・山田羽仁男は、ある日突然死にたくなって自殺を試みるも失敗し、新聞求職欄に「命売ります。お好きな目的にお使い下さい」という広告を出します。
羽仁男の奇妙な体験について種村季弘氏はホーフマンスタールの影響を見出し、『チャンドス卿の手紙』がモデルであろうと考察しています。チャンドス卿は十代で天才的な詩を書きますが、二十代の後半で「言葉が、口のなかで、まるで腐敗した茸のように、こなごなになってしまう」体験に遭遇します。
井上隆史氏はこの小説を巧みに要約しています。
「命の買い手は次々に現われ、羽仁男は薬の実験台にされたり、サディストの女性の餌食になったりするが、その都度、死の危機を乗り越えて生き延びてしまう。ところが、羽仁男は知らず知らずのうちに東京を舞台とする二大国のスパイ戦に巻き込まれてしまう。そして、ACSという密輸と殺人の組織に追跡され、探知機を腿に射込まれたり、トラックに追撃されたりして命を狙われるようになる。すると、羽仁男には死の恐怖が生じ、死にたくない(生きたい)という意欲が蘇ってくるのである」
この後『命売ります』は『天人五衰』に似た虚無的な結末を迎えます。
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三島由紀夫の晩年の作品で『命売ります』というのがあります。これは1968年(昭和43年)5月から10月まで「週刊プレイボーイ」に連載された小説で、軽い娯楽小説と見なされていますが、井上隆史氏はこの小説の主人公・山田羽仁男(コピーライター)の自殺企図の動機に注目し、三島にとって決して小さいとはいえない意味を持つ作品であると述べています。
ある日、羽仁男が不精な恰好で夕刊を読んでいると、内側のページがズルズルとテーブルの下へ落ちてしまい、かがんでテーブルの下へ手を伸ばした羽仁男はとんでもないものを見てしまいます。
「落ちた新聞の上で、ゴキブリがじっとしている。そして彼が手をのばすと同時に、そのつやつやしたマホガニー色の虫が、すごい勢いで逃げ出して、新聞の、活字の間に紛れ込んでしまったのだ。
彼はそれでもようよう新聞を拾い上げ、さっきから読んでいたページをテーブルに置いて、拾ったページへ目をとおした。すると読もうとする活字がみんなゴキブリになってしまう。読もうとすると、その活字が、いやにテラテラした赤黒い背中を見せて逃げてしまう。
『ああ、世の中はこんな仕組になってるんだな』
それが突然わかった。わかったら、むしょうに死にたくなってしまったのである」
これは『金閣寺』の性的不能体験や『鏡子の家』の青木ヶ原樹海体験を思わせるものがありますが、物語は意外な展開を見せます。
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昨日に続いて井上氏の著作を取り上げます。第七章「神々の黄昏」で同氏は次のように指摘します。
「私たちは終戦前の体制を否定することによって戦後社会を成立させたと言うが、その実態は、もっぱら経済立国の道を選択することによって、戦争、敗戦、そして占領を体験したことの意味の問い直しを回避し、私たち自身が抱え込んでいる矛盾から目を逸らし続けてきたということではないのか。そのことによって、戦後という時代においては、驚異的な経済発展とは裏腹に、その精神において恐るべき空洞化が進んでいるのではないか」
1960年の安保闘争までは、まだ問い直しが続いていたように思います。安保改定と引き換えに退陣した岸信介の孫が今は政権を握り、戦前の復活という最悪の企みを着々と進めてきたのは、この精神の空洞化につけこんだものでしょう。
しかし日本は今もアメリカの属国ですから、安倍晋三の野望は満たされていません。最近は風向きが変わって安倍政権が苦境に立っているのは、アメリカないしその背後にいる世界支配層の意向が変わってきたのかもしれません。私は日米のマスメディアと異なり、トランプ政権をかなり好意的に見ていますが、今後も注視していこうと思います。
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明日は更新をお休みさせていただきます。

井上隆史氏は『三島由紀夫 幻の遺作を読む』の中で『鏡子の家』について興味深い分析を行なっています。
三島は『鏡子の家』で、世界の崩壊というテーマを『金閣寺』以上に深く追究し、二十世紀初頭のヨーロッパにおけるニヒリズムに結び付けているというのが、井上氏の見方です。三島はそのようなニヒリズムが朝鮮戦争(1950~1953年)後の日本において、一段と深められた形で現れていると考え、こうした観点から当時の日本の時代状況を描こうとしているというのです。井上氏は言及していませんが、前に取り上げた1954年の第五福竜丸事件と『ゴジラ』の大ヒットも関係すると思われます。
ところが『鏡子の家』は読者の理解を得られず、文壇の評価も厳しいものでした。井上氏はその理由として『鏡子の家』が発表された1959年(昭和34年)は「岩戸景気」と呼ばれる好景気の只中だったためではないかと述べています。
「高度経済成長」の時代も細かく見ると波があり、好景気の時期は「神武景気」「岩戸景気」「いざなぎ景気」と呼ばれました。世界崩壊の問題は時代を超えた普遍性を持っていますが、作品が売れるか売れないかはこうした浮き沈みの影響をどうしても受けてしまうのでしょう。
井上氏の引用によると、三島は後年、大島渚との対談で「僕が赤ん坊捨てようとしているのに誰もふり向きもしなかった」と語っています。
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以前、深井峻吉が舟木収に日食の話をした場面を取り上げましたが、日食の話の後、峻吉と収は「今日の新聞が報じた三鷹事件の竹内被告の死刑判決」のことを話しました。
三鷹事件は1949年7月15日、国鉄三鷹駅の構内で無人列車が暴走して死者6人、負傷者20人を出した大惨事で、同じ頃に起こった「下山事件」「松川事件」と並んで「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれます。
ミステリーというより冤罪の可能性が高く、当時のアメリカ軍と日本政府が労働運動を弾圧するために利用したという見方もあります。大昔の事件のようですが、日本政府も日米関係も実質的に現在も全く変わっていませんから、私は単なる過去の事件ではないと考えています。
三鷹事件で竹内被告の死刑が確定したのが1955年6月22日で、まさにセイロン日食の2日後のことでした。
峻吉も収も「少年じみた気持で、死刑などということが好きなだけで、それ以上の関心はなかった」のです。峻吉は言います。
「事件が起ってからずいぶんになるな。しかしもう、謎みたいな事件の起る時代はすぎたよ」
決然と謎めいた世界を拒む峻吉の目を、収は美しいと思いました。
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