2017年11月

『音楽の手帖 ワーグナー』(青土社、1981年)で野口武彦氏は『ワグナーと三島由紀夫 トリスタン和音か『唐獅子牡丹』か』という文章を載せ、次のように書いています。
「昭和四十五年十一月二十五日(中略)三島はもちろん、自分が死体となって帰ることは覚悟していたにきまっている。ながく夢見ていた「英雄的な死」の決行。もしかしたら三島は、四人の青年にかこまれながらも、『神々の黄昏』第三幕への間奏曲、あの「ジークフリートの葬送行進曲」を思い浮かべることはなかっただろうか。(中略)ただ記録に残されているのは、三島が車中で歌ったのは『唐獅子牡丹』であったという一事である」
これを読むと、私は小泉文夫氏の言葉を思い浮かべます。小泉氏は世界を旅した民族音楽学者で、1983年に56歳で早世しましたが、いつも日本音楽の行く末を気にかけていました。『音楽の根源にあるもの』(平凡社、1994年)に収められた谷川俊太郎との対談でこう言っています。
「東海林太郎なんかじゃもうがまんできない。それで美空ひばりのようなのがドーンと出てくると、ハレンチだと大ぜいの人が眉をひそめたけれども、大部分のほんとの愛好家はみんな飛びついた。そして森進一です。途中いっぱいあるけれども、森進一の発声法は明らかにあれは新内の発声であって、西洋音楽の影響はかけらもなくなっちゃった。つまり、ほんとに開き直っちゃった。それから、ぴんからトリオなんていう、あられもないというか、ハレンチなのが出てきて、全部の教養や何かをみんな踏みにじって、日本の一番恥ずかしい部分を一ぺんにあらわしてきた。だけど、それに対するあこがれ、要求は非常に根強いんですね」
私にも、思い当たる節はありますが、具体的に書くのは差し控えます。
『天人五衰』で本多繁邦は養子の透に洋食の作法を教えながら、次のように言います。
「純然たる日本人というのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、そのどちらも少なくなるだろう。日本という純粋な毒は薄まって、世界中のどこの国の人の口にも合う嗜好品になったのだ」
この問題は過去のものではなく、今も横たわっていると私は思います。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

2017年12月1日 考えるところがあり、一部を修正しました。

最近、水越けいこのシングルCD『僕の気持ち』を購入しました。店頭販売はしていないそうで通信販売での購入でした。
実はタイトル曲よりカップリング曲が気になっていました。代表曲『Too far away』と『ほほにキスして』の新録音が2曲目と3曲目です。
『Too far away』は昔の感傷的な感じ(それも良いのですが)とは変わって、澄んだ静かな歌とアレンジになっていました。『ほほにキスして』はさすがに少しきついようにも思えましたが(^^)間奏を変えて遊んでいるのが楽しめました。
『僕の気持ち』(kate作詞作曲)はこんな歌詞があります。

誰よりもお母さん 僕の愛してる人 生まれ変われるなら あなたに産んで欲しい このままがいい

うーむ、このように心から言える人も世の中にはいるでしょうが、私は言えませんね。でも、歌うことは可能です。歌は自分の状況と違っていても歌えるからです。歌っているうちに、現実の感情が変わっていくかもしれません。考えさせてくれる歌です。
4曲目の『boy』(水越恵子作詞作曲)はダウン症の息子さんを歌った歌でしょう。息子への率直な愛情が感じられて、この曲は素直に聴けました。
三島由紀夫は母と祖母の確執もあり、複雑な影響を受けたようですが、水越さんは3歳で母を亡くし、年の離れた姉が母がわりだったそうです。今はシングルマザーで病気のある息子を育てていらっしゃいますが、今後も応援したいと思います。
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2017年12月2日 考えるところがあり、加筆しました。

稲垣足穂の『黄漠奇聞』を載せたのは雑誌『中央公論』大正12年2月号ですが、同じ年の『少女倶楽部』3月号に載ったのが加藤まさをの『月の沙漠』です。これは詩と挿画から成る作品でしたが、佐々木すぐるが曲をつけて童謡『月の沙漠』が生まれました。
稲垣足穂と同様(私もそうですが)加藤まさをも日本国外に出たことは無く、想像に任せて詩を書いたため、この詩は現実離れしているという批判は昔からあります。王子様とお姫様が二人だけで沙漠を行くなど有り得ないことで、たちまち盗賊に襲われるでしょう。沙漠の月が「おぼろにけぶる」のもおかしなことです。(砂嵐なら似た感じになるかも)この曲は日本の伝統的な都節に似た五音音階で、日本的な情緒の歌と言えます。
私の母がピアノでよく弾いていたのがこの曲で、私も弾かされたことがあります。(今は無理です)三島由紀夫の『豊饒の海』のタイトルは月面の「海」と呼ばれる黒い部分の地名から取られていますが、もちろん月には空気も水もなく、まさに別の意味で「月の沙漠」です。
アポロ11号が月面に着陸したのが1969年7月で『暁の寺』が連載されていた頃です。私はまだ小学校に入ったばかりでそんな小説は知りませんでしたが、木村繁の『人類月に立つ』という本が家の本棚にあって、よく読んでいました。表紙裏と裏表紙裏に詳しい月面図がついていて、地名をすっかり覚えるまで書き写し、月への夢をふくらませたものです。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

前回は三島由紀夫の最後の戯曲を取り上げましたが、これから私が直ちに連想したのが稲垣足穂の『黄漠奇聞』でした。こちらは純然たるおとぎ話ですが、砂漠に絢爛たる大理石の都「バブルクンド」を建設した「流星王」の物語です。1980年代のバブル景気のような名前ですが、この作品が最初に書かれたのは1923年(大正12年)です。足穂らしく何度も書き直されていますが大筋は変わりません。
星を祭らず、神々の都サアダスリオンを真似てバブルクンドを建設した王はある宵、都の旗じるしを超然と見下ろす西空の新月を悪魔と見なし、月に向ってつるぎを投げました。王は部下に命じて新月と同様の光を放つ旗じるしを作らせようとしますが、誰も作ることは出来ず、部下は次々と殺されます。王はついに騎馬隊を率いて西空の新月に向って飛弾のような突貫を開始し、岩山の頂上から渓谷に下ろうとした月を岩肌に落とし、青銅の小箱に月をおさめました。
一隊は凱歌にまかしてもと来た道を引き返しますが、不思議なことに何日経っても、どこまで進んでもバブルクンドは見えません。馬が倒れ、人が倒れ、骸骨めく一匹の馬を曳いた王と三名の家来がついに、夕方の向うに白い大理石を見つけます。それはバブルクンドではなく、かつてバブルクンドだった廃墟でした。王が馬の背から青銅の箱を下そうとすると箱は落ち、ふたが開き、三日月の形に残っていた赤い灰が煙となって立昇りました。前に眺めた新月が爽やかな姿をかかげ、天か地の底か、山崩れに似た笑い声が聞こえました。
「その一夜に数千年の時が流れた。夜が明けた時、もはやそこには白い大理石の一片すら見出されない。(中略)早くからキャンプをたたんだダンセーニ大尉と私が加わっている自動車隊が、毛虫式車体の影を桃色の朝日に照らされた砂上に長く引きながら、その日の旅に出発を始めた。晴朗な星座の下に張った天幕の中に私が眠ったその夜もすがら、カシリナ沙漠の砂を吹く風のささやきに伝えられた、それは太古の物語であった」
異国情緒ながら、かぐや姫や浦島太郎を思わせる奇妙なお話でした。
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『癩(らい)王のテラス』は三島由紀夫の最後の戯曲で重要な作品ですが、出版禁止になったとかで、決定版三島由紀夫全集(第25巻、戯曲5)でしか読むことが出来ません。これはとても残念なことですが、歴史的な経緯で仕方ないのかもしれません。『豊饒の海』のような文庫4冊にもなる長編ではなく、100頁に満たない短編なので、図書館で探して読んでみられてはどうかと思います。癩病に侵されながらカンボジアのアンコール遺跡のバイヨン寺院を建設した王、ジャヤ・ヴァルマン7世の生涯が劇的に描かれています。
『豊饒の海』でも『暁の寺』第一部、本多繁邦のベナレス訪問で白癩の巡礼者が出てきますし、『天人五衰』で本多は久松慶子に「印度へ行ったときから、私はまぎれもない『精神の癩者』になった」と話しています。三島にとって「癩」は象徴的な意味を持っていたようです。
『癩王のテラス』の最後での「精神」と「肉体」の対決、「肉体」の勝利は、『暁の寺』第一部の「阿頼耶識」と「世界(迷界)」の解説に対応しているように思われます。普通は「精神」が永遠で肉体は有限と考えられているので、三島はあえて逆の考え方を示したと思うのです。三島の真意は精神と肉体は同等の価値を持つということではないか。
『暁の寺』の唯識論でも、唯識というくらいですから「阿頼耶識」が全てだと考えがちですが、三島は「阿頼耶識」と「迷界としての世界」は相互に依拠しており、互いに因となり果となると言っています。世界が存在することで、初めて人は悟りへの道が開けるからです。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

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