2018年01月

「命は神的天皇であり、純粋天皇であった。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であった」
三島由紀夫が『日本文学小史』でこのように断言するのは、もちろん古事記のヤマトタケル(倭建)です。しかし日本書紀では、景行天皇とヤマトタケル(日本武)との関係は一変します。古事記の景行天皇の段はほぼヤマトタケルの記事で埋め尽くされ、天皇の記事は系譜以外は皆無と言ってよいですが、日本書紀では天皇は自ら九州へ行って熊襲を討ち、東国にも巡幸します。古事記ではヤマトタケルが死に際に詠んだとされる「国しのび歌」三首も、日本書紀では天皇が南九州の日向で詠んでいます。九州にも東国にも、二人が共に行くことはありません。まるで二人の天皇がいるように見えます。
日本書紀の年代を西暦に換算すると、第12代の景行天皇は71年に即位し、在位60年目の130年に亡くなっています。ヤマトタケルは82年に生まれ、113年に亡くなったとされます。天皇の九州巡幸は82年から89年、ヤマトタケルの熊襲討伐は97年から98年、ヤマトタケルの蝦夷(えみし)討伐は110年から113年になります。この間、107年には『後漢書』倭伝に記された倭国王帥升の朝貢があったはずですが、日本書紀はこの記事を引用していません。
一方、『魏志』倭人伝に記された倭の女王卑弥呼の朝貢は、日本書紀の神功皇太后摂政39年(西暦239年)、同40年(240年)、同43年(243年)に引用されています。日本書紀の編者たちは「卑弥呼は神功皇后(第14代仲哀天皇の皇后、第15代応神天皇の母で摂政)である」と考えていたようです。
では、彼らは帥升を知らなかったのでしょうか。
知らなかったとは、まず考えられません。日本書紀の編纂で最も多く参考にされた中国史書は『漢書』と『後漢書』であることが分かっており、『史記』や『三国志』を上回るほどだからです。彼らは引用こそしていませんが、帥升を知っていました。日本書紀の編者たちは倭国王帥升を景行天皇の時代、その中でもヤマトタケルが活躍した時代の人物としたわけです。
これは大変に面白いです。ヤマトタケルは、多くの点で第2代の綏靖(すいぜい)天皇に似ているからです。綏靖天皇は父・神武天皇の死後、異母兄のタギシミミを殺して天皇になりました。

1.臆病な兄がいた(日本書紀では、オオウスは110年に蝦夷を恐れて討伐を辞退した。綏靖天皇には同母兄のカムヤイミミがいたが、彼は臆病で異母兄を殺せなかった)
2.兄を殺した(古事記では、ヤマトタケルはオオウスを殺した)
3.熊襲を討った(綏靖天皇が殺したタギシミミは日向生まれで、母は熊襲の女性であった)
4.3.の行動により「タケ(タケル)」という新たな名前を得た(ヤマトタケルは本来はオウス又はヤマトオグナと言い、熊襲の長が死ぬ前に名前を献上した。古事記では、綏靖天皇はカムヌナカワミミに加えて、タケヌナカワミミとも呼ばれるようになった)

私は綏靖天皇は倭国王帥升であり、「綏」の字は後漢のトウ太后綏から取られたと考えました。続く第3代の安寧天皇の「安」は安帝から、第4代の懿徳天皇の「懿」は少帝懿から取られたという考えにも繋がります。淡海三船だけではなく、日本書紀の編者たちの多くが「帥升は綏靖天皇」と考えていた可能性が出てきました。
彼らは帥升=綏靖天皇とすれば自然な年代になることを知りながら、あえて帥升をヤマトタケルの時代にしました。昔の天皇たちは百歳以上の長寿だったという伝説を無視出来ない圧力があったのでしょう。綏靖天皇によく似たヤマトタケルにするのが最善の策と考えたようです。
日本書紀に記された景行天皇の九州巡幸(西暦82年から89年)は、神武東征の真実の年代に近いでしょう。ヤマトタケルの西征(97年から98年)は綏靖天皇の即位、ヤマトタケルの死(113年)は綏靖天皇の死の年代に近そうです。ただ綏靖天皇が82年に生まれた筈はなく、89年以後ですから、8年足すと神武天皇の在位は89年から105年、綏靖天皇の在位は106年から121年となり、後漢の和帝の在位とトウ太后の摂政期間にほぼ一致します。
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三島由紀夫の『日本文学小史』におけるヤマトタケル(古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊)については以前に書きましたが、古事記の倭建命には奇妙な記事があります。父である景行天皇(第12代)について記した次の系譜もその一つです。
「この天皇・・倭建命の曾孫、名は須売伊呂大中日子王の女、訶具漏比売(かぐろひめ)を娶して生みましし御子、大枝(おおえ)王」
どう考えても起こり得ないことです。ヤマトタケルと景行天皇は親子でなく、全く別人とする伝承があったものと見られます。ヤマトタケルには浦賀水道で入水した弟橘比売との間に生まれた若建(ワカタケル)王をはじめ、全部で6人の息子がいましたが、フタヂノイリビメが生んだタラシナカツヒコが後に仲哀天皇(第14代)として即位することになります。
ワカタケルと言えば、埼玉県の稲荷山古墳で出土した鉄刀の銘文を思い出す人が多いでしょうが、そこに刻まれた「ワカタケル大王」は第21代雄略天皇のことで、もちろん別人です。雄略天皇は、前回に取り上げた三島由紀夫の『軽王子と衣通姫』の軽王子の末の弟です。ワカタケルには軽王子を含めて4人の兄がいましたが、軽王子に代わって即位した安康天皇(第20代)が目弱(マヨワ)王という7歳の子供に殺された後、残る2人の兄を殺して即位しました。ワカタケルが2人の兄を殺す場面は、オウス(ヤマトタケル)が兄オオウスを殺す場面に似ています。彼は中国の歴史書『宋書倭国伝』に登場する「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)の一人、武であると考えられます。
最後に、初代の神武天皇の謎についても書いておきます。日本書紀では即位の年を紀元前660年、干支は辛酉(かのと・とり、しんゆう)としていますが、この「辛酉」だけを信用して西暦61年とか、121年、181年が真実の即位年だとされる方もいます。私はどうも、この干支だけを信じることが出来ず、別の年ではないかと考えています。想像説ではありますが、後漢の章帝の元和2年(西暦85年)、干支は乙酉(きのと・とり、おつゆう)ではないでしょうか。この年は光武帝が後漢の初代皇帝に即位した建武元年(西暦25年)から60年後に当たり、干支が同じです。余裕がある場合、この年に合わせる可能性はありそうに思えます。
もう一つ、こちらも想像説ですが、景行天皇の九州巡幸伝説があります。これは古事記には無く、日本書紀だけに載っています。年代は景行天皇12年(西暦82年、後漢の章帝の建初7年)から19年(89年、和帝の永元元年)までの7年間で、神武天皇の東征と同じ年数です。これが私の推定する神武東征の年代にほぼ一致するので、日本書紀の編者たちが真実の年代をここに隠した可能性もあります。その場合、神武天皇の即位年は89年、干支は己丑(つちのと・うし、きちゅう)です。
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2018年2月13日追加
日本書紀の景行天皇の九州巡幸が始まった西暦82年は後漢の章帝の建初7年ですが、劉肇(後の和帝)が皇太子になった年でもあります。

三島由紀夫は自決の直前、自選の短編集『殉教』を選びました。その巻末には三島自身の解説が付されるはずでしたが、それは実現せず、高橋睦郎が解説をしました。この短編集の冒頭に収録されたのが『軽王子(かるのみこ)と衣通姫(そとおりひめ)』です。
これは古事記の下巻、第19代の允恭(いんぎょう)天皇の段にある木梨の軽王子(允恭天皇の太子)と、その同母妹である軽大郎女(かるのおおいらつめ、衣通姫は別名)の恋物語に取材したものですが、三島は大きな変更を行なっています。衣通姫を軽王子の同母妹ではなく、母である皇后の妹、父である允恭天皇の愛人に変えたことです。
実はこの変更は日本書紀を踏まえています。日本書紀でも王子と同母妹との恋が書かれているのは古事記と同じですが、衣通姫という別名はここには出てきません。その代わりに皇后の妹、衣通郎姫(そとおしのいらつめ。もちろん別人です)が登場し、允恭天皇が彼女を溺愛する様子が描かれています。王子と衣通郎姫の関係はありません。日本書紀は漢文で書かれた官撰の歴史書ですから、同母妹との禁断の恋も素っ気なく書かれているだけです。それでも二首の歌が万葉仮名の手法で記録され、うち一首は古事記とほぼ同じ歌です。古事記では多くの歌と共に二人の悲劇が語られます。
三島がこの短編を書いたのは戦後まもない昭和22年(1947年)です。妹の死の記憶がまだ生々しく残り、そのままの設定で書くに忍びなかったのではないか・・と思われます。
三島は『日本文学小史』の第二章「古事記」でも、この物語を取り上げていますが、自分の短編には触れていません。中巻の第12代の景行天皇の段にあるヤマトタケルの物語について詳しく記した後、「より純粋さを欠き、より典型性を欠いた形ではあるが、同じような悲劇は繰り返される」として紹介されます。この『日本文学小史』は第一章で「方法論」を述べ、「古事記」の後は「万葉集」「懐風藻」「古今和歌集」「源氏物語」と続きましたが、やはり自決のために未完となりました。
三島の遺稿には、この短編集『殉教』のテーマは「異類」であり、『軽王子と衣通姫』の題に続けて「貴種流離(きしゅりゅうり)」と書かれているとのこと。二人の死の後、衣通姫の姉の皇后が九十歳の長寿を保ったこと、姫から皇后のうなじに帰った首飾りをかけたまま柩に納められたことを述べて短編は終わっています。
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明治時代の歴史学者・那珂通世は日本書紀を調べ、後世の天皇家一世代の平均が28年であることから
「もし日本書紀の系図が正しいならば、神武天皇の時代は西暦紀元前660年ではなく、紀元元年前後となる」
と結論しました。私が推定する神武天皇の時代は西暦100年前後ですから、3ないし4世代短いわけです。日本書紀の年代だけでなく、系図もどこかが間違っていることになります。
古代の天皇の諡を見て気づくことは「孝昭・孝安・孝霊・孝元」と第5代から第8代まで「孝」から始まる諡が続くことです。これは前漢と後漢の皇帝も同じです。(三国時代以後は違います)前漢では初代の高皇帝(劉邦)を除き、第2代の恵帝(孝恵皇帝)以後は「孝」から始まります。後漢も初代の光武帝を除き、第2代の明帝(孝明皇帝)以後は「孝」から始まります。それなら日本も、初代の神武天皇を除き、第2代以後は「孝綏・孝安・孝懿・・」となりそうなものですが、何故そうでないのでしょうか。第9代の開化天皇以後は、中国が三国時代に入ったことで説明できそうですが・・
実は「孝昭」という諡の皇帝は前漢にいました。昭帝(孝昭皇帝、在位は紀元前87年~同74年)です。昭帝は武帝(孝武皇帝、紀元前141~同87)の末っ子です。武帝は初代ではありませんが、偉大な皇帝でした。『後漢書』倭伝は次のように始まります。
「倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり」
武帝は紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡など四郡を置き、ここから漢と倭の本格的な交流が始まりました。
それはともかく、淡海三船が第5代以後の諡に「孝」をつけ、その最初が「孝昭」であることは、日本書紀の系図の誤りを暗示しているように思われます。昭帝が武帝の末っ子だったように、孝昭天皇は神武天皇の末っ子だったのではないでしょうか。実は神武天皇も四人兄弟の末っ子で、兄たちは先に亡くなりました。綏靖・安寧・懿徳の三代は古代の天皇たちの中で例外的に短命で(と言っても古事記では三人とも40代ですが)在位年数も短いです(と言っても日本書紀では三代とも30年余り)。綏靖から孝昭までが兄弟ならば、世代数は3世代減って、私の推定が正しい可能性が出てきます。その分、新しい謎も出てきます。
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2018年2月9日追加
本記事では武帝と昭帝の関係に着目しましたが、昭帝の後を継いだ廃帝・劉賀は昭帝の甥です。これに意味があるなら、孝昭天皇の後を継いだ孝安天皇も息子ではなく、甥かもしれません。孝安天皇の父が安寧天皇なら「安」が共通しています。安寧天皇の和名は「シキツヒコタマテミ」で、「シキツヒコ」という息子がいるのが気になります。このシキツヒコが孝安天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)と同一人物かもしれません。今後の課題です。

2018年2月16日追加
古事記の安寧天皇系譜に注目です。シキツヒコの子「和知都美」はヤマトタラシヒコ(孝安天皇)のことでしょう。和はヤマト、知は治めるの意味です。その娘がオオヤマトクニアレヒメで、この女帝が本来の孝霊天皇ではないか。
綏靖・安寧・懿徳天皇に「孝」がつかないのは、この3人が若くして亡くなり、中国で言う「少帝」扱いだからとも考えられます。

2018年2月25日追加
中国の南北朝時代の6世紀の北斉にも「孝昭皇帝」(高演)がいて、こちらは「神武皇帝」(高歓)の第六子です。こちらのほうが前漢より重要です。

前回の投稿で第2代の綏靖天皇から第8代の孝元天皇までの時代を推定しました。第10代の崇神天皇以後は(全員ではありませんが)古事記の分注に没年の干支が記されているので、日本書紀の古すぎる年代を修正することができます。崇神天皇については258年と318年の2説がありますが、258年説を取ればスムーズに繋がります。
初代の神武天皇はどうでしょうか。綏靖天皇の前ですから、後漢の和帝(孝和皇帝、在位は88年~105年)と同時期に在位したと見てよいでしょう。ただし、和帝は79年生まれで20代の若さで亡くなったので、世代としては和帝の父である章帝(孝章皇帝、在位75~88)と同世代と思われます。
章帝は後漢を建国した初代の光武帝(光武皇帝、氏は劉、名は秀、在位25~57)の最後の年、西暦57年(建武中元2年)の生まれです。この年の1月には九州の博多にあったと言われる倭奴国が朝貢し、光武帝は金印を与えました。それから僅か一月後、2月5日に光武帝は62歳で生涯を終えました。帝位は息子の明帝(孝明皇帝、在位57~75)が継ぎましたが、同じ年に孫の章帝が生まれ、同じ頃に九州で神武天皇が生まれたわけです。三島由紀夫の『豊饒の海』で飯沼勲がタイの月光姫に転生したように、光武帝が神武天皇に輪廻転生したのではないか・・と妄想したくなります。
倭奴国は一般的には博多にあったと言われていますが、『後漢書』倭伝では「倭国の極南界」と書かれていて、少し疑問もあります。古事記や日本書紀の神話が伝えるように、南九州の宮崎県か鹿児島県にあった可能性もあるのではないでしょうか。
日本では中国の歴史書と言えば、司馬遷の『史記』と陳寿の『三国志』が圧倒的に人気があり、その間の時代を扱う班固の『漢書』と范曄の『後漢書』はあまり読まれませんが、特に『後漢書』は日本の古代を知るためにも重要だと感じました。
三島由紀夫はあれほど「天皇」に拘りながら、神武天皇に特に言及することはなかったようです。合理的な精神を備えていた三島が、古代の天皇に百歳以上の長寿が多く、世代も長過ぎることに疑問を覚えなかったのも不思議ですが、年代の問題などには興味が無かったのかもしれません。
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