「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく、こうしょう、こうあん、こうれい、こうげん、かいか、・・」
戦前の子供たちは漢字で書けもしない歴代の天皇(神武から昭和まで124代)の名前を暗記させられたそうです(名前ではなく、死後に贈られた漢風諡号(かんぷうしごう。中国風の諡(おくりな))ですが)。もちろん三島由紀夫やその父や祖父も覚えたでしょう。戦後はそんなことは無くなりました。
理由はいろいろありますが、特に古代の天皇たちの実在が疑わしいからです。日本書紀を読むと、神武天皇の即位は西暦紀元前660年とされ、キリストやムハンマドは愚か、釈迦も孔子もソクラテスも生まれていない昔になります。神武天皇の享年は127歳、古事記では137歳とされ、他にも百歳以上の天皇がぞろぞろいます。これをそのまま史実と信じることは困難です。
しかし冷静に考えると、年代が古いからと言って実在まで否定するのは論理的とは言えません。紀元前660年はおかしいとしても、もっと新しい時代に実在したかもしれません。日本書紀を書いた人たちも年代が古すぎるのを知っていて、真実を知る手掛かりを残してくれているかもしれません。
前回の投稿で西暦107年の倭国王帥升について書きましたが、帥升たちを迎えた後漢の皇帝は安帝(孝安皇帝)で、当時は幼かったので皇太后(母ではない。和帝(孝和皇帝)の皇后。名は綏(すい))が摂政を務めていました。綏は121年に死んで安帝の親政となりますが、125年に安帝も死に、後を継いだ少帝(名は懿(い))も同じ年に死にました。この三人の名前を並べると(安帝は名前ではなく諡ですが)
綏、安、懿
となり
「綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)」(神武天皇に続く2・3・4代の天皇)の頭文字になります。
その後(在位が短い皇帝を省略します)後漢王朝は
順帝(孝順(こうじゅん)皇帝、在位は125年~144年)
桓帝(孝桓(こうかん)皇帝、146~167)
霊帝(孝霊(こうれい)皇帝、168~189)
献帝(孝献(こうけん)皇帝、189~220)
と続きましたが、この四人の諡は
「孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)」(5・6・7・8代の天皇)に似ています。「孝霊皇帝」と「孝霊天皇」は同じ諡です。もっとも後漢には「安帝(孝安皇帝)」もいましたし、前漢には昭帝(孝昭皇帝)、元帝(孝元皇帝)もいましたが・・
日本書紀に出ている神武天皇から持統天皇まで40代の諡をつけたのは奈良時代の文人、淡海三船(おうみのみふね)と言われています。三船は672年の壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の曾孫で、御船王という皇族でしたが臣籍降下して淡海氏になりました。漢詩に優れ、中国の歴史にも通じていました。おそらく彼は歴代天皇の真実の年代を知っていて、日本書紀の古すぎる年代を正すために、後世の私たちに手掛かりを残したのではないでしょうか。ただ、あまり露骨にやり過ぎないように苦心したのでしょう。
前回、私は帥升は懿徳天皇ではないかと書きましたが、上記の考察により、綏靖天皇がふさわしいと修正します。神武天皇の和風の諡「神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)」の「カムヤマト」は、本来は「神日本」ではなく「漢倭面土」だったのでしょう。淡海三船は後漢の摂政皇太后綏とともに、倭国王帥升の名前も意識して「綏靖」と名付けたものと思われます。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m
2018年2月21日追加
安寧天皇の「寧」は、綏が死んだ永寧2年(121年)の元号から取られたようです。
2018年2月25日追加
懿徳天皇の「徳」については、少帝懿について記した後漢書・安帝紀の初めのほうに「孝和皇帝懿徳巍巍光于四海」という言葉が現れることで説明できます。