2018年02月

歴代天皇の諡号・追号については、森鴎外が詳しく研究しており、鴎外全集の第20巻に『帝諡考』として纏められています。(元号について研究した『元号考』もあります)この研究を読むと、いろいろな発見がありました。
後漢の少帝懿と懿徳天皇には前から注目していましたが、少帝懿について書かれた後漢書・安帝紀に「懿徳」の語が現れるのは初めて知りました。安帝の時代には「永寧」という元号もあり、安帝と安寧天皇の繋がりも深めることが出来ました。
最大の発見は、6世紀の中国の北斉に「神武皇帝」(高歓)がいて、その第六子が「孝昭皇帝」(高演)であることが分かったことです。前漢の武帝(孝武皇帝)と昭帝も父子でしたが、北斉は「神武皇帝」ですから更に似ています。神武天皇と孝昭天皇の間は綏靖・安寧・懿徳の三代で、前漢の武帝と昭帝は連続しますが、北斉の神武皇帝と孝昭皇帝の間は文襄・文宣・廃帝殷の三代、この類似性も驚きです。
問題なのは北斉の場合、神武皇帝と文襄皇帝は「追尊」であることです。高歓は東魏の孝静皇帝を擁立して実権を握っていましたが、生前に帝位につくことはありませんでした。ここから類推すると、神武天皇と綏靖天皇も追尊で、安寧天皇が初代かもしれません。安寧天皇の名は「シキツヒコタマテミ」で、后の父がシキ(磯城、又は師木)県主ハエ(葉江、又は波延)ですので、ハエから皇位を継いだ可能性も考えられます。
後漢の安帝(孝安皇帝)の諡号が安寧、孝安の2代の天皇に取られたのも奇妙ですが、安寧天皇の第三皇子が父の名前の一部を継いだシキツヒコであり、オオヤマトクニアレヒメ(孝霊天皇の妃)に繋がる古事記のシキツヒコ系譜との関連が窺われます。
江戸時代の第112代霊元天皇の諡号は、第7代の孝霊天皇と第8代の孝元天皇から取られたようですが、何故この二人なのかは謎です。いわゆる欠史八代で目立った業績もない天皇です。古事記の孝霊天皇の段には「桃太郎」の原型と言われるキビツヒコの吉備平定の記事があり、これと関係があるかもしれません。その3代前、第109代の明正天皇は、奈良時代以来なんと約900年ぶりの女帝であり、第43代の元明天皇と第44代の元正天皇という2人の女帝の諡号を繋いだのは「なるほど」と思わせますが・・
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三島由紀夫文学論集(虫明亜呂無編)Ⅰは『太陽と鉄』で始まります。私はその最後の「エピロオグ-F104」の冒頭の文章に魅かれました。

私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を嚥みつづけることによって鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑をひびかせている最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。

三島が超音速ジェット戦闘機の急上昇で見たこの「蛇」は何だったのでしょうね。だいぶ前の投稿で宮沢賢治の『星めぐりの歌』を取り上げて、「ひかりのへびのとぐろ」が銀河=天の川ではないかと解釈したことがありましたが、何故かそれを思い出します。エピロオグの前の文章では「文武両道」と表現される分裂の葛藤が語られていますが、それが統一されるということでしょうか。
エピロオグの後に付された『イカロス』という詩は、檄文とは違う三島のもう一つの遺言のように読めます。

飛翔は合理的に計算され
何一つ狂おしいものはない筈なのに
何故かくも昇天の欲望は
それ自体が狂気に似ているのか?

自分が何に属するかを性急に知りたがり
あるいはすべてを知ったと傲り
未知へ
あるいは既知へ
いずれも一点の青い表象へ
私が飛び翔とうとした罪の懲罰に?

「もう待てぬ」と言って自決した三島ですが、一方で「性急」だったという思いもあったのでしょうか。
立花隆の『宇宙からの帰還』でも、宇宙体験が飛行士に及ぼす影響を考えさせられましたが、三島の場合も症例の一つとして見ることが出来るかもしれません。
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日本書紀の推古天皇紀には、日本最古の日食が記録されています。

推古天皇三十六年三月戊申(2日)、日蝕え尽きたり。

これは西暦628年4月10日に当たります。古天文学者の斉藤国治氏は『星の古記録』(岩波新書、1982年)で詳しく解説しました。

『日本書紀』を手にとって、ゆっくりその前後の記事を眺めると、これは只事でないことに気づくであろう。
すなわち、この日の四日前の二月二十七日の条には、「天皇臥病(みやまい)したもう」とあり、この後に三月二日の日食がつづき、そして三月六日には、「天皇痛み甚だしく、緯むべからず」という危篤状態になった。天皇は田村の皇子(のちの舒明天皇)と山背の大兄(聖徳太子の王子)とを病床近くに召して、親しく遺言をのべ、翌七日にわかに崩御された。時に御年七五と記されている。
(中略)病に伏して四日目に日食に見舞われては、彼女も生きる気力を失ったことであろう。現代人の心にもこの日食は、何か女王の死と深い関わりをもつように感じられる。

「日蝕え尽きたり」とは皆既日食のようですが、飛鳥京では皆既帯をわずかに外れ、93%という深い部分日食だったと計算されています。
推古天皇の時代まで、日本では天文記録と言えるものがほとんど皆無に近く、この8年前の推古天皇28年(西暦620年)12月1日の条に次のような記事があるだけです。

天に赤き気有り。長さ一丈余。形雉尾に似たり。

よく分かりませんが、オーロラ説、彗星説があります。
次の舒明天皇の時代になると天文記事が急増します。632年に天文を学んだ留学僧の旻(みん)が帰国したことによりますが、やはり日食の衝撃が大きかったのではないかと思われます。
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イギリスの風変わりな作家・評論家のコリン・ウィルソンは1931年に労働者階級に生まれ、職を転々としながら大英図書館に通い、25歳で発表した評論『アウトサイダー』は世界的に話題を集めました。今振り返ると、この本は「引きこもり」解明の出発点だったと見なせるかもしれません。三島由紀夫は1957年5月6~8日の東京新聞で(「私は書評を書くのではない」と書きながらも)書評を発表し、後に虫明亜呂無が編んだ「三島由紀夫文学論集」Ⅲにも収録されています。
「これは大そう面白い本である。盛沢山な内容を持った本である。そうして日本人には大いに親しみやすい本である」
「ウィルソンのいわゆる世外の人の人名簿は、「地獄」のアンリ・バルビュスにはじまり、ヴィリエ・ド・リラダン、H・G・ウェルズ、T・S・エリオット、ニイチェ、キェルケゴール、サルトル、カミュ、ヘミングウェイ、あるいはゲーテ、ヘッセ、T・E・ロレンス、ヴァン・ゴッホ、ニジンスキー、トルストイ、ドストエフスキー、ウィリアム・ブレーク、ラーマクリシュナ、バーナード・ショウ等々に及んでいる」
「こういう人名簿を一覧してすぐ気のつくことは、知らない名前の沢山あらわれる外国の文学史とちがって、日本の読者にかなり親しまれている芸術家が、その大半を占めているということであろう」
「ウィルソンはもちろんインサイダーたる大芸術家の存在もみとめているので、シェイクスピア、ダンテ、キーツなどはそうだという。そしてウィルソンの定義によれば、アウトサイダーとは、人間存在の不自由さを常人よりも強烈に感じ、それゆえにこそ自由を求めて、あくまでおのれの意思によって、世界を肯定しようとねがう人間である」
三島がまず強調するのは、日本と西欧における芸術家と市民の関係の違いです。
「芸術家の自由の問題と市民的自由の問題とが、西欧では今やはっきりした対立関係に立っているのに日本では今なお相互補償関係に立っており・・これには勿論、市民および市民道徳の未成熟という理由もあろうが、ともあれ、今もなお市民と芸術家との間には真の対立関係はなく、芸術は、市民によって恕されている。いわば大目に見られている。その好例が太宰治氏であって・・」
「さて一方この東洋的アウトサイダー、補償的アウトサイダーは、神仙的文人気質の一脈を伝え、困ったことにはなはだ幸福なのである」
三島は辛辣に日本人的感想を述べながらも、ウィルソンの問題提起の重要性を認めます。
「アウトサイダーは決して芸術家の問題にとどまるものではなく、ウィルソンはむしろ、「芸術家兼心理学者、直観の思想家」たることを、その救済の一つの方途としている。それはあくまで文明全体の問題であり、芸術と無縁の人たちの中にも、れっきとしたアウトサイダーのふえつつあるのが現代である」
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以前の投稿で、神武天皇が実在した場合、その即位年は西暦85年か89年ではないかと推定しましたが、日本書紀に出てくる第12代景行天皇12年(西暦82年)から19年(89年)の九州巡幸は注目すべき記事だと思います。神武天皇が日向を後にしてから、そこに「里帰り」した天皇は、古代では景行天皇だけです。すぐ後に第14代仲哀天皇や神功皇后、7世紀の第37代斉明女帝も北九州に遠征しましたが、南九州には行っていません。九州巡幸の期間が7年であるのも神武天皇の東征(紀元前667年~同660年)と同じです。
不思議なのは、この九州巡幸の記事が古事記には無く、「日向のミハカシビメを娶ってトヨクニワケ王を生んだ」という系譜記事があるだけだということです。古事記中巻の景行天皇の段はヤマトタケルの記事で埋め尽くされ、三島由紀夫が言うように「景行天皇御自身の事蹟はかげに隠れた」状況ですが、仲哀天皇や神功皇后の九州・新羅遠征は詳しく記しながら、不自然なことです。  
後漢の和帝(劉肇)は西暦79年に生まれ、82年に数え年4歳で皇太子になり、88年に即位し、89年に「永元」と改元しました。この年代が九州巡幸と重なります。実はこの年代が神武東征の年代であることが暗示されているように思われます。
一方、こちらも以前から指摘していますが、105年に和帝が死んだ後は皇后の綏が幼い皇帝の摂政となり、107年には倭国王帥升(第2代綏靖天皇か)から160人もの生口を献上されました。121年に綏が死ぬと安帝が親政を行い、125年の安帝の死後は劉懿が少帝として即位しました。この3人の摂政・皇帝の名前・諡号が綏靖・安寧(第3代)・懿徳(第4代)天皇に取られたようです。こちらからも、神武天皇の在位は和帝と同時代になります。
歴代天皇の漢風諡号は淡海三船が考えたと言われますが、日本書紀を編纂した舎人親王たちと三船の認識は一致していたように思われます。ただ、82年と89年が和帝の立太子と改元にぴったり合っているので、厳密にこの年である可能性は低いでしょう。第10代崇神天皇の258年没、第11代垂仁天皇の232年誕生より古い年代の記録はなく、和帝の時代という情報だけが伝わっていたのではないかと思います。
神武東征の期間が7年間とされているのも、和帝の立太子から改元までの期間から決められたのかもしれません。古事記では筑紫に1年、安芸と吉備に15年いたとあり、少なくとも16年以上かかったとされています。
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