三島由紀夫は祖父から続く官僚の家系でしたが、大蔵省(現在の財務省)を1年で辞めました。もちろん小説家になるために。役所の仕事も本来は大事なはずですが、中身はどうでもいい、形だけは完璧にするという「お役所仕事」になってしまうと最悪です。
日本書紀で年代がハッキリしてくるのは、やっと第15代応神天皇の時代からです。「正しくなる」のではありません。間違いの年数がハッキリするという意味です。これは朝鮮・韓国の歴史書『三国史記』のおかげです。中国の『三国志』と『史記』を合わせたような書名ですが、668年に新羅が朝鮮を統一する前、高句麗・百済・新羅の三国の歴史を記したものです。日本書紀より400年ほど新しく、1145年の高麗時代に編纂されました。
倭国はこの三国のうち、特に百済(昔は「くだら」と読みましたが、今は「ひゃくさい」と読むようです)と仲が良く、その友好は応神天皇の時代(母・神功皇后の摂政時代を含む)に始まりました。古事記には百済の「照古王」が馬を奉ったという記事があり、日本書紀では「肖古王」と書かれ、朝鮮での戦いや「七支刀」のことが詳しく書かれています。この王は三国史記では「近肖古王」で、彼は375年に亡くなっています。ところが日本書紀では肖古王は神功摂政55年(西暦255年)に亡くなったとあり、三国史記より120年古くなっています。それ以後、神功・応神時代に登場する歴代の百済王も、ほぼ全部同じで、120年古くなっています。一方、中国の『晋書』から近肖古王は372年に在位していたことが分かるので、三国史記の年代が正しいことが分かります。
これを指摘したのも那珂通世でした。120年は干支が一周する60年のちょうど二倍なので、干支は変わりません。古い記録は干支だけが書かれていたため、それと矛盾しないように120年古くしたのです。まさに悪い意味の「お役所仕事」です。百済の歴代の王たちの記録は神功皇后・応神天皇の時代と第21代雄略天皇以後の二つに分断されました。その間、第16代仁徳天皇から第20代安康天皇までは、百済の王の名前は一度も出てきません。たいへん不自然な、無理な入れ方です。雄略天皇以後の時代は、完璧ではありませんがほぼ正しい年代と考えられます。
日本書紀はこのような「お役所仕事」をすることで、皇紀(神武天皇即位紀元)が嘘であることを自ら認めているのですから、日本政府は公式に皇紀の嘘を認めるべきではないでしょうか。私は神武天皇は後漢の章帝から和帝の頃に実在したと考えていますが、西暦紀元前660年2月11日に神武天皇が即位したというのは完全な嘘です。建国記念日は廃止し、どうしても必要なら旧暦通り1月1日にすればよいと考えます。
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