2018年03月

コリン・ウィルソンは『アウトサイダー』でドストエフスキーを評して次のように書いています。

『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、『白痴』の三篇は、かつて書かれた偉大な小説の最も杜撰のものであろう。もちろん、そう言ったからには、これらの作品は、かつて書かれた最も偉大な小説の部類に属するとつけ加えねばなるまい。(中村保男訳)

数年前に『カラマーゾフの兄弟』を読みましたが、買っただけで読んでいなかった『悪霊』を何故いま読む気になったのかは分かりません。『悪霊』はネチャーエフ事件から構想されたと言われ、ネチャーエフをモデルにしたピョートル・ヴェルホヴェンスキーの父であるステパン氏の一代記と冒頭で説明されています。ステパン氏は間が抜けた愛すべき老人ではありますが、重要人物ではありません。ステパン氏を支える女性(将軍の未亡人)の息子ニコライ・スタヴローギンは多くの奇行を重ねる「アウトサイダー」で、ピョートルに利用されるのを拒み、最後は「告白」を書いて首を括ることになります。
技師のキリーロフも自殺して果てますが、コリンが指摘するように「問題の要点を逸した」スタヴローギンと違って「宗教もなく、神への信仰すらもたずに、キリーロフは聖者の境地に達した」ようです。第二部の第一章でキリーロフはスタヴローギンと会話します。

「きみは葉を見たことがありますか、木の葉を?」
「ありますよ」
「ぼくはこの間、黄色い葉を見ましたよ(中略)太陽にきらきら輝いているのをです。目をあけてみると、それがあまりにすばらしいので信じられない、それでまた目をつぶる」
「それはなんです、たとえ話ですか?」
「いいや・・なぜです? たとえ話なんかじゃない、ただの木の葉、一枚の木の葉ですよ。木の葉はすばらしい。すべてがすばらしい」(江川卓訳)

『カラマーゾフの兄弟』でアリョーシャが星の下で感じた悟りであり、三島由紀夫の『豊饒の海』『暁の寺』で本多繁邦がインドで感じた悟りでもあるのでしょう。

インドでは無情と見えるものの原因は、みな、秘し隠された、巨大な、怖ろしい喜悦につながっていた! 本多はこのような喜悦を理解することを怖れた。

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三島由紀夫の『豊饒の海』では輪廻転生が描かれますが、稲垣足穂は異なる転生観を持っていたようです。『文芸』1968年10月号の「名著発掘」で足穂はフェヒナー著『死後の生活』(草間平作訳)を次のように評しています。

原著者フェヒナーとは、実験心理学の始祖であり、且つ「フェヒナーの法則」で知られているグスタフ=テオドル・フェヒナーのことである。そこには人間は三回誕生するものだと述べられている。
一、お母さんの胎内(全き眠りの境涯)
二、睡眠と覚醒が互いに循環する世界(現世)
三、永久の覚醒生活(死後)
ボクは読んで行きながら一種無気味な気持におそわれた。奇想よりも先に、なにかしら真相を衝いていると思ったからであろう。

スウェーデンボルグの転生観は足穂、フェヒナーに似ています。高橋和夫氏は『スウェーデンボルグの思想』で次のように述べています。

受胎によって両親の霊魂の枝分かれとして新たに創られる人間の霊魂は、いったん創られると不滅であり、死後も人間は完全な霊的身体を持って、霊界で永遠に生きる。したがって、霊となった人間がこの世へ帰還して何かに生まれ変わるということはありえない。
しかしスウェーデンボルグは、一般に輪廻と呼ばれる現象のような霊的現象が、時おり起こることがあると言う。
それは、霊界で一〇〇年も一〇〇〇年も生きている霊が、何らかの理由で自分の記憶を地上の人間の記憶へ入り込ませることによって起こるという。地上の人間と霊とは、双方が無意識のまま「照応」によって交流するのが普通であるが、突発的な事態、つまり一種の憑依が起こるとき、取り憑いた霊の過去の記憶が、取り憑かれた人間自身の前世の記憶のように、当の人間には思われるのである(『天界と地獄』256)。

前世はともかく、来世は「あるべき」のような気がしますが、残念ながら私は霊界のことは分からないので「気がします」としか言えません。「ない」と断定するのも科学的とは言えないでしょうが、こういう問題は慎重を要します。永久に解決はしないかもしれません。
スウェーデンボルグは自らの死を1772年3月29日と予告し、その日に亡くなりました。稲垣足穂は志代夫人が亡くなった2年と1日後、野尻抱影が亡くなる5日前に死去しました。三島由紀夫の自決は今更言うまでもありませんが、不思議なことはいろいろあります。あるいは、ユングの言う「共時性」でしょうか。
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2018年3月27日、改題し追記しました。

三島由紀夫が批判した手塚治虫の『火の鳥』ですが、『復活編』では瀕死の重傷を負い、人体の60パーセントを機械部品化されて生き残る青年とロボットとの恋愛が扱われています。
この漫画は高校生の頃に読みましたが、不快感というより違和感がありました。大学では科学史家の村上陽一郎先生が駒場におられて、講義を受けていました。ある週の講義で次のように言われました。
「私は数年に一度、試験に出す問題があるんですよ。今年がその年に当たっているかどうかは知りませんけど・・あなたの恋人がロボットだと分かった場合、あなたはどうしますか?」
結局、そのような問題は出ませんでした。村上先生がその週の講義で言われたのは、科学哲学者の中村秀吉氏が『パラドックス・論理分析への招待』という著書の第四章のタイトルにつけられた「他人の心の問題」です。

人間も物質からできている。ただその構成がまだよくわかっていないというにすぎない。そうしたらそれが精神をもつということはどうしていえるのか。それはやはり複雑な機械にしかすぎないのではないか。人間が意識をもつにしても、それを知っているのは自分についてだけである。他人は自分に似た外形をもち、自分に似た音声を発し、挙動をするにすぎない。そのようなものに意義があることは、原理的に知ることができない。それゆえ他人の心は否定される。しかし常識はもちろん他人の心を認める。これが他我のパラドックスである。

中村氏は章の最後で、このパラドックスの解決は「問題は相手を人間として理解するにはどうしたらよいか、ということである」と述べ「たんにその人を観察するのではなく、交流・付き合いが必要である。共同生活を行って同類、仲間とみるからこそ、自分と同様な心的状態をもつと考え、同じカテゴリーを当てはめるのである」とします。
うがった見方をすると「人間」でなく、動物やロボットであっても「同類、仲間」であれば「心をもつ」ということかもしれません。
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この本は「ミレニアム」の騒ぎを前にした1998年に出版された本で、著者のスティーヴン・コークはスウェーデンボルグの研究家です。日本では高橋和夫と大賀睦夫の共訳で2002年に出版されました。
この本の第4章は「ノストラダムスの予言」という題です。日本でも1970年代から五島勉の本などがよく売れて、1995年1月には阪神大震災、3月にはオウム真理教の地下鉄サリン事件が起きて社会不安が高まりました。
ノストラダムスは占星術師でしたが、コークが説明するように20世紀にはユングの心理学により、占星術は「共時性」(意味のある偶然の一致)の一例として再解釈されるようになりました。
三島由紀夫の『美しい星』でも、大杉重一郎が一雄に「お前は偶然というものを信じるかね」と話しかける場面があります。

人間どもは、電車の中、町中で、何ら関心を持ち合わない無数の他人とも、時々刻々、偶然に会っているのだ。・・仏教徒だけがこの必然を洞察していて、『一樹の蔭』とか『袖触れ合うも他生の縁』とかの美しい隠喩でそれを表現した。そこには人間の存在にかすかに余影をとどめている『星の特質』がうかがわれ、天体の精妙な運行の、遠い反映が認められるのだ。・・この地球の無秩序も、全然宇宙の諧和と異質なものではないのだから、われわれは絶望的になることは一つもない。

コークによると「他方、ノストラダムスが使用したような伝統的占星術は、それよりずっと出来事志向であり、したがって、現代の占星術よりも物質界の現実に関心を抱く傾向がある。伝統的占星術は宿命論を助長した。なぜならそれは、星辰に書かれていると思われる出来事が成就することを予言したからである」ということです。
聖書の『黙示録』などのビジョンは物理的な出来事ではなく、霊界の出来事と見なされるべきかもしれません。スウェーデンボルグによると「最後の審判」は1757年に霊界で行われ、すでに終了したとのことです。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

林房雄『天皇の起原』第九章「三島由紀夫の天皇観」では、学生の質問に答える三島の発言が引用されています。

手塚治虫の漫画なんか見ると、あたかも人民闘争があって、奴隷制があって、神武天皇という奴隷の酋長がいて、奴隷を抑圧して国家をつくったように書いてあるが、あなたは手塚治虫の漫画を読みすぎたんだ。これはこのごろの子供に読ませるための共産主義者の宣伝で、単純な頭にわかりやすく漫画でかいてある。

この発言は『火の鳥・黎明編』で(神武天皇でなく)ニニギの尊が邪馬台国を征服する騎馬民族の首長として描かれていたことを指すのでしょう。1978年には市川崑の映画にもなりましたが、この映画ではニニギが「ジンギ」と変えられていて当惑した記憶があります。神武天皇と合体させたみたいな名前ですが、ニニギより発音しやすいのと、征服者のイメージに合わせるための改変だったように思われます。
「併録:神武天皇実在論」では古代アンデスへの探検旅行の思い出が語られ、林房雄の所感が述べられます。

私が帰国した後にも、ボリビアには何度か革命が起こっている。ポンセ君はそのたびにシャベルを捨て武器をとったことであろう。アルゼンチンやメキシコから来たというカストロ髭の若い学者たちも、実はカストロやゲバラの秘密の同志であったかもしれない、とそんな空想もしてみたくなる。ポンセ夫妻は今も無事であろうか。
これも帰国後の感想であるが、たしかに日本の正統派考古学者たちは「客観的」で、左派の歴史家たちが考古学の成果を、日本の伝統と歴史の破壊のために勝手に利用するのを傍観しているように見える。考古学も歴史学もそれぞれの民族と祖国への愛情に支えられることなしには成立し得ない学問である。このような考え方は、戦後の日本では通用しにくいかもしれぬが、考古学すなわち国学であり、若い学者や芸術家のほとんどすべてが祖国復興の行動者・闘士であるというメキシコやペルーやボリビアの例があることを忘れてはなるまい。

いろいろ考えさせられる本です。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

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