澁澤龍彦のエッセイ集『エロスの解剖』に収められたエッセイ『乳房について』の冒頭部分は、現代を鋭く抉り出しています。
産業資本主義のおそるべき発達を示した現代ほど、性的なシンボル(象徴)が街々に氾濫している時代はあるまい。すでにエロティシズムは完全に商品化され、様式化され、物神化されて、テレビやラジオ、あるいはマスコミなどを通じ、全世界の家庭にばらまかれている現状である。(中略)
アメリカのような資本主義の高度に発達した社会では、男性の性的な無力化はますます進行する。その一つの証拠として、「乳房コンプレックス」というものがある。これを説明しよう。
乳房コンプレックスの説を最初に発表したのは、シカゴの精神分析学者ユストゥス・クラインであった。クラインの説によると、アメリカの男性は無力な子供のようになっており、映画スターに代表される共通の母親像を求め、一種の近親相姦コンプレックスにおちいっている。アメリカの男性のあこがれる、乳房の異常に発達した女性は、社会学的な意味において、いわば乳母のような役目をはたし、青ざめた子供の男性に乳房を提供する、というのである。
三島由紀夫は『豊饒の海』第三巻『暁の寺』で、澁澤龍彦を思わせる文学者・今西康を登場させています。この今西が椿原夫人と共に、渋谷駅前でデモ隊と警官隊の衝突に巻き込まれ、やっとの思いで逃げます。そこで今西は足にからまった「黒いレエスのブラジャー」を拾ってしまい、夫人に怒られます。
それは黒いレエスのブラジャーであった。夫人が使う型とはセツ然とちがった(「セツ」が変換できないので失礼。引用者より)、よほど乳房に自信のある女のものにちがいない、サイズも巨きなストラップレスで、乳当てのまわりに織り込まれた鯨骨が、さらでだにその一対のふくらみを威丈高に、彫刻的に見せた。(中略)
ともあれ、焔と闇と叫喚のなかから、一対の巨きな乳房が切って落されたのだ。それはいわば乳房の繻子(しゅす)の抜け殻にすぎなかったが、それを支えていた乳房の張り、したたかな弾力は、却って黒いレエスの鋳型がありありと語っていた。その誇りのためにこそ女は故意に落し、月の暈(かさ)がかなぐり捨てられて、擾乱の闇のどこかに月があらわれたのだ。
三島は同性愛の傾向があったと言われますが、どうも乳房コンプレックスが強かった人ではないかと思わせるところがあります。逆に乳房に全く関心が無かったように思われるのが稲垣足穂で、彼は 晩年の作品『少年愛の美学』のはしがきで、これは『ヒップを主題とする奇想曲』であると述べています。その後の部分が面白いので、また引用しておきましょう。
サド侯の夥しい著作は、そのすべてが「それ自ら読まるるを好まぬ本」に属していた。即ち危険文書として永久に闇に葬られようがための情熱によって書かれたということを、銘記すべきである。「無限に意味深い作品とは、消滅すること、人間としての痕跡を残さないで雲霧消散してしまうことへの作者の欲望になるのではなかろうか」(マルキ・ド・サド)
「何か他の点(たとえば社会的、倫理的な点)で精神的に異常な人ほど性生活は規則的であり、他の点で並の人は性生活において異常なことが多い」とフロイトが云っている。私の今回の文章は前者のために書くのであるが、より多く後者の参考にならせたいとも願っている。それとも、主として後者のためにペンを執るが、前者に何事か寄与する処があればいい、と云い直した方が適当であろうか。
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