前回の続きです。佐藤昭子さんは2010年3月11日、東日本大震災のちょうど1年前に81歳で亡くなりましたが、2012年に娘の敦子さんが出した母の伝記が『昭・田中角栄と生きた女』です。
表紙は幼い頃の敦子さんと父・田中角栄のツーショットですが、表紙裏は幼い敦子さんと母のツーショットです。これは海水浴場で撮られた写真で、二人とも水着姿で巨岩に腰掛け、脚を伸ばしています。昭子さんは妖艶そのものです。こちらを表紙にする方が売れただろうと思いますが、下品過ぎるとして却下された?
前回に紹介した昭子さんの自伝ともいえる『私の田中角栄日記』(1994年)では重要なことが書かれていなかったことを、敦子さんは明らかにしました。昭子さんは最初の結婚で男の子を産んでおり、その子は離婚のとき夫に「取られた」のです。敦子さんの異父兄です。
昭子さんはその後、田中角栄と再会して秘書になりますが、児玉隆也氏が文藝春秋の記事で明らかにしたように、一時キャバレーで働いていました。そのキャバレーの客だったT氏が昭子さんの二番目の夫です。1957年に生まれた敦子さんの戸籍上の父はT氏です。昭子さんは角栄と愛人関係にあったのに、なぜT氏と再婚したのでしょうか。敦子さんは朝賀昭(あさが・あきら)氏に疑問をぶつけました。朝賀氏は敦子さんが「お兄ちゃん」と呼んで慕う人で(もちろん赤の他人です)角栄の秘書として、昭子さんの下で働きました。
「腹いせだよ」
朝賀氏は即答しました。言うまでもありませんが、角栄にははなさんという妻がいました。
「ママ(昭子さんのこと。引用者注)はオヤジ(角栄のこと。同)に迫ったんだ。『私はプロポーズされたのよ。結婚してくれと言われているのよ、私がお嫁にいってもいいの!』とね。ママの性格だ。一度入れたギアを戻せなくなったんだ。煮えきらない態度を続けるオヤジに対して、ママは腹いせでTさんと結婚したんだよ」
朝賀氏はさらに、敦子さんの出生についても説明しました。
「あつ子は、ママが謀りに謀って生まれてきたんだ。(中略)戸籍上はTさんの子だ。もし子供を生む前に、Tさんと離婚したら、オヤジの認知を受けなければならない。オヤジに認知をさせずに、オヤジの子を生もうとママは考えたんだ」
敦子さんはこれを聞いて「理屈としては通る話だが、何か大事な考えが欠落しているのではないか」と思いました。実際、敦子さんは思春期に深く悩み(出生だけが原因ではないと思われますが)自殺未遂などを繰り返しました。
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