これは『澁澤龍彦全集』13の「補遺・1974-75年」に収められた一編で「疎外」について語られています。
要するに資本主義社会では、人間は労働をしても、その労働の主体であることができず、人間の作り出したものが、かえって人間に対立するものとなり、ひいては人間自身も物(商品)として取り扱われるようになる、ということであろう。(中略)たしかに、私たちの見るところ、この人間疎外の状況は、まるで悪性の癌のように、どんどん進行しているような気がする。
私がまだ小学生だった頃に書かれた文章ですが、今でも生き生きと読むことができます。澁澤氏はどのような処方をもって臨むのでしょうか。
私は前に、人間疎外という見地から見るならば、若者の労働意欲の喪失は、むしろ人間的な現象だと書いた。しかし現代の若者の無気力が、労働意欲の喪失であるとともに、また遊びの意欲の喪失でもあるとするならば、これを人間的な現象と呼んでよいかは疑問になってこよう。(中略)十年ほど前、私は『快楽主義の哲学』という小著のなかで、労働と遊びを一致させるのが理想だと述べたことがあったけれども、たぶん現代の若者には、このような理想もすでに無縁のものとなっているのではあるまいか。
「遊び」は誤解されやすい言葉で、氏も注意を促しています。
お断りしておくが、この場合、遊びといっても、それは労働の余暇を利用して行なうところのレクリエーション、レジャーを意味しているのではない。レクリエーションとかレジャーとかは、あくまで気休め、気晴し、あるいは明日の労働のための精力の貯えであって、労働本位の世界のものにすぎない。そうではなくて、私が望んでいるのは、どのような領域を選ぶにせよ、つねに大きな努力をして大きな満足を得たいということなのである。労働がそのまま遊びに移行し、遊びがそのまま労働に移行するような、矛盾の統一を求めたいということなのである。努力も満足もないような薄明の世界、しらけた世界に生きるのではなく、快楽と苦痛の際立った、光と影で構成された世界に生きたいのである。
氏の文章を読んでも、処方が書いてあるわけではありません。私たちは日々自分で考え、行動するしかないでしょう。
この客観的な情況を骨身に徹して知りながら、私たちはそれぞれ主観的な現実で、疎外の解除された空間を求めるしかないのだ。モーレツ社員もマイホーム主義者も、それぞれ主観的な、せまい空間を守っているにすぎないのであり、彼らにしたところで、疎外の現実を必ずしも知らないわけではないのだと私は思う。ただ、彼らの認識はあくまで局部的で、底が浅いだけなのである。読者諸君が、モーレツ社員やマイホーム主義者の小さな夢に足をすくわれないためにも、疎外とは何かを知ることがもっともっと必要であろうと私は思う。(中略)
私たちは考えることによって、その物事の呪縛から自由になるのである。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m