澁澤龍彦は『時間のパラドックス』というエッセイで、次のように自問自答しています。
・・むしろ私がここでいいたいのは、わが国でも古代においては、その呪力を認められて、あれほど深い尊崇の対象となっていた宝石や玉が、どうして奈良時代以降、その加工技術も衰微して、急速に文化の歴史の表面から消えていったのだろうか、という素朴な疑問なのである。おそらく、それは時間の腐蝕作用に抵抗しようという、形而上学的志向に欠けるところがあったためにちがいあるまい。
・・たぶん、江戸時代の中ごろにいたって、ようやく物産学や本草学が勃興しはじめるようになるまで、彫刻や作庭の材料として以外、あるいは支那趣味の愛玩物として以外、鉱物としての石や玉への独立した関心は、日本人の心の中から、ほとんどまったく跡を絶ってしまっていたのではないだろうか。
なかなか面白い指摘です。勾玉は三種の神器に入っているのに、剣や鏡とは違う道をたどったようです。それでも関心は復活し、幸田露伴のように石を愛好する作家も出てきます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
・・むしろ私がここでいいたいのは、わが国でも古代においては、その呪力を認められて、あれほど深い尊崇の対象となっていた宝石や玉が、どうして奈良時代以降、その加工技術も衰微して、急速に文化の歴史の表面から消えていったのだろうか、という素朴な疑問なのである。おそらく、それは時間の腐蝕作用に抵抗しようという、形而上学的志向に欠けるところがあったためにちがいあるまい。
・・たぶん、江戸時代の中ごろにいたって、ようやく物産学や本草学が勃興しはじめるようになるまで、彫刻や作庭の材料として以外、あるいは支那趣味の愛玩物として以外、鉱物としての石や玉への独立した関心は、日本人の心の中から、ほとんどまったく跡を絶ってしまっていたのではないだろうか。
なかなか面白い指摘です。勾玉は三種の神器に入っているのに、剣や鏡とは違う道をたどったようです。それでも関心は復活し、幸田露伴のように石を愛好する作家も出てきます。
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