2021年03月

源平合戦と南北朝時代には二人の天皇が並び立ち、それぞれが異なる元号を用いたことはよく知られていますが、室町時代にも似た例があります。
このときは二人の天皇がいたわけではありませんが、異なる元号が用いられました。将軍・足利義教と鎌倉公方・足利持氏の対立により、正長から永享への改元に持氏が従わず、鎌倉では正長の元号のままでした。この対立は永享の乱に発展し、持氏は敗死しました。
持氏の子の古河公方・成氏も幕府と対立し、享徳から康正への改元を受け入れず、30年近くにわたって争い続けました。この乱は関東における戦国時代の始まりであり、やがて応仁の乱から全国が乱れることになります。
なお、日本の戦国時代は本当の戦国ではなく、大名たちは京都の天皇と将軍は認めていました。中国の古代の春秋時代に似ています。
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元号を調べていて考えたことですが、学校の日本史の授業では西暦を覚えさせています。これは危ない面があります。
古代や中世の日本人は西暦の中で生きていたわけではありません。藤原道長は西暦1000年前後に生きていましたが、彼はヨーロッパの世紀末思想とは無縁でした。
もっとも日本では末法思想というものがありました。これは仏教の釈迦の入滅から2000年後と考えられていた時期に前九年の役が始まり、たまたま西暦1000年に近い時期に当たってはいましたが、西暦で世界史を見る危うさを示しています。
年だけではなく、月日もそうです。旧暦の11月や12月は新暦では次の年の1月、2月になりますが、これでは昔の日本人の心の中に入っていくことは出来ません。今の暦では「月」の本来の意味が完全に失われており、複雑な計算をしなければ月齢も分かりません。こうしたことには注意しなければなりません。
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日本で大化に次ぐ2番目の元号は「白雉」(650年~654年)です。一般に「はくち」と読まれていますが、『釈日本紀』では「しらきぎす」と読んでいます。前回の「朱鳥」(あかみとり)と同じく、この元号も訓読みだった可能性があります。
『日本書紀』に載っている神武、崇神など歴代天皇の漢風諡号も後で書き加えられたもので、当初はカムヤマトイハレヒコ、ミマキイリヒコなど和風の名前しかなかったことを考えると、白雉や朱鳥が訓読みだったのは不思議なことではありません。
ただ最初の元号の「大化」だけは音読みであったと思われます。この元号は白いキジ、赤い鳥という具体的なものではなく抽象的な漢語であって、和語にはなじまないものです。「大化の改新」は掛け声倒れに終わり、実際の改革は数十年遅れたと言われますが、元号の読み方からもそれが窺えるようです。
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天武天皇の末年、686年に1年間だけ使われた「朱鳥」という元号があります。『日本書紀』によると本来は「あかみとり」と読むらしいのですが、訓読みの元号は他に例がなく、「しゅちょう」と読まれることが多いようです。
改元の理由は書かれていませんが、天武天皇の病気が重くなってからの改元であり、病気平癒を祈願する改元と考えられています。天皇の宮である飛鳥浄御原宮もこのときに名付けられたとあり、「きよみはら」と「あかみとり」の類似からもそれが推測されます。
この時代は元号の制度が安定しておらず、『日本書紀』に載っていない「朱雀」「白鳳」という元号も一部に見られ、朱雀は朱鳥、白鳳は白雉の別名だという説もあってはっきりしません。元号が安定するのは701年に始まる「大宝」からであり、以後は中断することなく現在の「令和」に至っています。
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