2021年06月

私を古代史に導いた本の一つに『邪馬台国99の謎』という本があります。1975年に松本清張が編した本で、当時の有名な学者たちが執筆していますが、冒頭の「魏志倭人伝はなぜ大切か」という直木孝次郎氏の文章は、記紀の史料としての限界を述べることから始まります。

(記紀が参照した)史料の多くは、六世紀中葉以降の成立と考えられる。したがって六世紀以後の歴史の動きはほぼ把握できるが、五世紀の歴史となると、正確にあとづけることはむつかしい。まして四世紀やそれ以前については、両書のなかでもっとも詳細に記されている天皇家に関する記事でも、ほとんど信用することはできない。

私は直木氏よりは記紀の史料性を高く評価する立場ですが、傾向としては彼の発言通りだと思われます。内外の史料と考古学は補い合って真実を探る必要があると思います。
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昭和20年(1945年)の敗戦は歴史の大きな節目であり、この前後の断層は日本史で最も深いと言えます。ところが「昭和」という元号がこの後も64年(1989年)まで存続したため、この断層が日本人に十分に認識されないという事態が生じました。
内田樹はこの「敗戦の否認」は日本だけの現象ではなく、ドイツやイタリアでも起きていると言います。普通はイタリアは敗戦国、フランスは戦勝国と思われていますが事実は逆であり、「敗戦の否認」による傷が最も深い国は日本とフランスだとも述べています。
日本で敗戦後の数年間にアメリカ軍が何をしたかは今でも十分には分かっていませんが、フランスでもドイツに降伏した後に出来たヴィシー政権はタブーになっているようです。「終戦」に言葉を置き換えて済ませず、事実に向き合う必要があると思います。
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忘れられがちな存在ですが、ヤマトタケル(小碓命)の双子の兄とされる大碓(おおうす)命がいます。弟と違って弱い兄で、『古事記』によれば父の景行天皇に無礼を働き、弟の小碓命にあっさり殺されてしまったとされています。『日本書紀』ではそのような話はありませんが、天皇から蝦夷の討伐を命じられて恐怖から辞退し、代わってヤマトタケルが派遣されたと書かれていて、やはり弱い兄というイメージです。
この大碓命の墓が愛知県の猿投(さなげ)山の山頂近くにあります。猿投神社の社伝によれば大碓命は三河地方の開拓に力を尽くした功労者とされていて、記紀とは印象が違います。ヤマトタケルは蝦夷討伐の帰途に伊吹山の神に苦しめられて亡くなりましたが、大碓命も猿投山で毒蛇に咬まれて亡くなったと社伝では伝えられています。
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ヤマトタケルは日本古代の伝説的な英雄であり、実在したか否かを論じてもあまり意味はないと思います。伝説通りのヤマトタケルは実在しないが、伝説の一部に当たる人物は多くいたのかもしれません。ここで問題になるのは日本書紀の中での年代です。
ヤマトタケルの父、景行天皇の在位年は西暦71年から131年ですが、その在位2年目にヤマトタケルの母に当たる女性を皇后に立てたという記事があり、その後に大碓命と小碓命(後のヤマトタケル)の記事が続くことから、日本書紀はヤマトタケルの誕生を西暦72年としているように見えます。しかし在位27年目のヤマトタケル西征時、彼は16歳だったと書かれていて計算が合いません。おそらく大碓・小碓の記事は後日談として付加された記事に過ぎず、彼の誕生は在位12年目(西暦82年)と解釈すべきでしょう。もちろんこの年代は史実とはほぼ考えられません。
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