2021年07月

重祚(ちょうそ)は一度退位した天皇が復位することで、飛鳥時代の斉明天皇(皇極天皇の重祚)と奈良時代の称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の2例が知られています。偶然ですがどちらも女帝(女性天皇)です。同一人物でも異なる諡号が贈られており、これは天皇その人よりも天皇の位を重んじる考え方に基づくと思われます。
ここで問題になるのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇は北条高時と足利尊氏によって2度の廃位と復位をしており、事実は2度の重祚をしています。しかし、南朝を正統と見る立場からは廃位も復位もなく、後醍醐は一貫して天皇だったということになります。一方、北朝を正統と見る立場でもこれを重祚と見るかどうかは見解が分かれているようです。
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神武天皇の伝説と共に、第二次世界大戦後に省みられなくなったのが神功皇后の三韓征伐の伝説です。日本書紀の編者は卑弥呼を神功皇后と考えていたらしく、二人の年代を合わせ、神功皇后紀に魏志を引用していますが、この年代は誤りと思われ、神功皇后が実在したとしても4世紀後半の人物と考えられています。
省みられなくなっても、この伝説は日本人の無意識に影響を与えていると思われ、これは意識化する必要があると思います。安倍晋三は「戦争ができる国」を作ろうとしました。これはアメリカの要求によるもので、仮想敵としては中国や北朝鮮が想定されていると思いますが、安倍の本音は「アメリカを敵としても戦争ができる」国造りだったと思われます。それは無意識に押し込められて表には出てきませんが、いつ出てきても不思議はないと思います。
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邪馬台国の問題については、今まであまり投稿しておりませんが、卑弥呼をモモソヒメと考え、箸墓古墳をその墓と考えれば良いのではないかと思います。
この時代に何故、中国(魏)との交流が異常に活発だったのか不思議がる意見もありますが、それも当然の話で、卑弥呼の外交の舞台は主に帯方郡です。韓国や北朝鮮の学者は認めませんが、この時代は中国が朝鮮半島に勢力を伸ばしていたと考えられています。
戦後の日本の歴史教育は中国文献や考古学から始めるようになりました。歴史の客観性という意味では良いことですが、貴重な伝承が多く含まれる古事記や日本書紀を捨てて省りみないのは惜しいことだと思います。
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前回の投稿で書いたように、記紀の史料性には限界があります。しかし、幸いにも日本の隣には古い文明国の中国があり、中国の史料と組み合わせることで日本の古代史をかなり明らかにすることができます。
5世紀の倭の五王は最後の武王(ワカタケル大王、オオハツセノワカタケ=雄略天皇)を除いて名前が一致しないと言われますが、そんなことはありません。最初の讃王はホムタワケ=応神天皇の「ホム」の漢訳であることを前田直典氏が明らかにしており、私は珍王をミズハワケ=反正天皇の「ミズ」(見ず、珍しい)の漢訳、済王をワクゴノスクネ=允恭天皇の「スクネ」(王を助ける家臣。済には救済の意味がある)の漢訳と考えています。
興王とアナホ=安康天皇の関係は謎ですが、穴穂は地名に過ぎず、失われた本名と関係があるのかもしれません。
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