2021年10月

最高裁判所の国民審査は不思議な制度です。ウィキペディアには次のような記述があります。

衆議院総選挙の際に、国民審査に関心がない、あるいは判断ができないといった理由で審査を棄権したい場合には、投票用紙を受け取らないか、受け取った場合でも用紙を返却することが可能であり、投票所にはその旨を記した注意書きが掲示されている。国民審査における棄権の自由は1955年の第3回国民審査から認められた(1949年の第1回及び1952年の第2回の国民審査では棄権は認められていないものの、実際に投票所で国民審査の投票用紙を受け取らなかった投票者を棄権として数えられている)
。ただ、用紙返却などによる棄権が可能だということを知らない有権者がほとんどで、投票所職員もただ機械的に紙を渡す(棄権の説明などは一切しない)ので、そのまま投票箱に入れるため、何も書かない用紙は信任とみなされてしまう。それが、1人も罷免されたことがない原因となっている。

私は現状ではこの制度は無意味と考えるので、いつも全員に×をつけています。
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私は長いことアパートで一人暮らしをしていましたが、年老いた父親が転倒して重傷を負ったことで、生活を大きく変えることになりました。
母親は以前から施設に入っているため、このままでは実家は空き家になるはずでしたが、そこに私が一人で住むことになりました。どうなるか分かりませんが、手探りでやっていこうと思います。
このブログもどうなるか分かりません。今は続けようと考えていますが、中断せざるを得ないかもしれません。ヤフーブログの消滅によってライブドアブログに移り、更新ペースを落としながらも今まで続けてきましたので、なるべく継続したいと思います。
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私は宮沢賢治が特に好きなわけではありませんが、彼が書いた「私という現象」という言葉は好きです。
「私」は永久に固定された実体などではなく、一つの現象に過ぎません。人間の場合、一応は思う通りに三次元の空間内を移動できるので、そのように錯覚しやすいですが、時間内を移動することは出来ません。そもそも、宇宙や時空を離れた「私」というものは考えられません。
「私」に限らず、人間の言葉は主語と述語から成り、主語は固定された実体として扱われますが、そのような実体は何処にもありません。言葉は便利なものですが、あまり言葉に捕らわれ過ぎると、宇宙の実相を見誤ります。
これは主に自分に向けて書いている文章です。言葉の限界を自覚しながら、言葉を発信してゆきたいものです。
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歴史は難しいものです。歴史は進歩するものであり、世界は良くなっていくと信じたいですが、どうも世界の実相はそうではないように思われます。
歴史は絶え間ない変化の連続であり、そこに一貫した流れを見出だすことは出来ないという方が真実に近いと思われるのです。私の個人的な人生を振り返ってみても、常に行き当たりばったりの繰り返しであり、今後もそうであろうと思います。
実相が捕らえ難いものであるからこそ、進歩にせよ退歩にせよ、何らかの物語が求められるのではないでしょうか。そうしないと人間は時間を認識することができないからです。しかし一つの物語で世界を理解することは本来は不可能なことであり、必ず破綻します。そうすると新たな物語が必要となります。
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