2023年02月

前回で倭の五王の珍=済説を書きましたが、要点を纏めておきます。
王朝交代説は、『宋書』倭国伝で珍と済の続柄の記載が無いことを根拠としますが、続柄だけではなく、珍の死と済の即位を表す言葉もありません。
続柄が無いことだけを取り上げ、死と即位が無いことを取り上げない王朝交代説は論理的におかしいのではないか。
死と即位が無いということは、王朝交代どころか王の交代もなく、珍が改名して済になったということ。
珍が百済の軍事権を宋から認められなかったため、百済の一字を名前にして宋にアピールしたのではないか。
以上です。また続きを書くかもしれません。
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倭の五王(讃、珍、済、興、武)は五人いたと普通は考えられていますが、実は四人しかいなかったようです。珍と済は同一人物だったと思われるからです。
宋書倭国伝では「讃死して弟珍立つ」「済死す。世子興、使を遣わして貢献す」「興死して弟武立つ」と記していますが、珍の死と済の即位は書かれていません。これは珍が済と改名した同一人物だからでしょう。
珍は使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と自称しましたが、宋から認可されたのは安東将軍倭国王だけでした。珍はこれに不満で、百済の「済」に名前を変えて再度朝貢しましたが、百済の軍事権は最後まで認められませんでした。
この後、倭国は中国から離れて独自の道を歩いていくことになりました。
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