コノハナノサクヤビメとニニギの神話は面白いです。ニニギが日向国に天下り、これを迎えた大山津見神は二人の娘を差し出しました。
ニニギは二人のうち、美しい妹のコノハナノサクヤビメだけを受け入れ、醜い姉のイワナガヒメを返してしまいました。大山津見神は怒ります。
この事件のために天皇たちの寿命は岩のように永久ではなくなり、木の花のように儚いものになったと伝えられています。
是以至于今、天皇命等之御命不長也。
「天皇命」を「すめらみこと」と読むのが一般的ですが、「命」を天皇以外の皇族(ニニギを含む)と解釈すれば「すめらみことみこと」と読んでもよいように思われます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
ニニギは二人のうち、美しい妹のコノハナノサクヤビメだけを受け入れ、醜い姉のイワナガヒメを返してしまいました。大山津見神は怒ります。
この事件のために天皇たちの寿命は岩のように永久ではなくなり、木の花のように儚いものになったと伝えられています。
是以至于今、天皇命等之御命不長也。
「天皇命」を「すめらみこと」と読むのが一般的ですが、「命」を天皇以外の皇族(ニニギを含む)と解釈すれば「すめらみことみこと」と読んでもよいように思われます。
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今、人間の考え得る極みは宇宙である。唯一絶対であろうとすれば、宇宙のはてまで同体の他はない。すなわち真の神とは、宇宙と合一状態にある大元霊をいう。ではそれは一体何なのか。王仁三郎は答える。
「宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり」(『霊界物語』六七巻六章「浮島の怪猫」)
彼の神観、宇宙観を要約して明快に表現したものだが、換言すれば、神とは宇宙を活かす不断の力、造化の働き、生成化育の妙である。「なんだ、力か」とシラケてはいけない。そういう人たちは、えてしておどろおどろしい宗教屋の餌食になり、骨までしゃぶられる」ことになる。
capelaurig
が
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政治活動では議員になれば職業的な報酬をうけるが、それになるため過程をかんがえればこれよりも多くの金を必要とする。ここで大事なことはこの場合の必要な金がどのような金かということである。政治活動ということを詳細に見なければならない。大きく分ければ選挙という政治活動と政策や理念を実現する政治活動に分けられるだろう。
保守政治にあっては特に選挙にかかるということがある。その場合には選挙によって議員(代表者)に選ばれるということと政党の内部で選挙ということがある。自民党の総裁選挙である。この場合に選挙で金が力になるということがある。一般の選挙という場合には票(人々の意思)を金で買う(買収)から、それも含めた基盤づくりの金が必要ということだ。
自民党の総裁選で金が動いたということはよく知られたことである。これは総裁選挙に派閥が動き、派閥が金の温床になるということもあり、その派閥が閣僚などの人事権と関係するともいわれる。戦前の日本における政党政治では保守政治では金がかかるということがあった。それは選挙においては票を買う金力とか、票を獲得するための基盤づくりの活動の金を意味する。かつて日本における選挙の問題で保守党が強く、体制を維持してきてことには金の力が根の部分をなしてきた。
政治家は理念や政策、いうならオルタナティブな構想力によって選択され、閣僚などもその力で選ばれるのだと思われている。それは近代政治、民主主義の建前であるが、実体ではそうはなっていないのであり、政治における金の力は闇の部分(裏の部分)に転化してきたが、これは存続しているのだと思う。
capelaurig
が
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神と人間とは次元の違う存在だから、ふつうでは神との交流は不可能だ。そこで神社や家々の神棚を受像器とし、宇宙の本源なる電源につなぐ。真剣に祈るという行為は、スイッチを入れ神と向き合うこと。ここで初めて神との感合が可能になるが、チャンネルの合わせ方を間違えると、地獄界の想念を受け止めかねない。
人が困難に立ち至った時、神を信じぬ人でも目に見えぬ何かに対して祈る。それは人の本能だからだ。本能の要求があるのは、求めるものが実存するからであろう。のどの乾きに対して水が存在し、欲情に対して異性が存在する。平常は理性で押えていても、いざとなると思わず祈る心がおこるのは、神が存在すればこそである。王仁三郎は述べる。
「祈りは天帝(真の神)にのみすべきものである。他の神さまには礼拝するのである。私はそのつもりでたくさんの神さまに礼拝するのである。そはあたかも人に挨拶するのと同様の意味においてである。誠の神さまはただ一柱しかおわさぬ。他はみなエンゼルである」(『水鏡』「祈りは天帝のみ」)
神は尽きることのない電力をたたえた大電源であり、人の霊魂は一個の蓄電池にたとえられよう。祈りはその電源にコードをつなぐことであり、人の霊魂に神気がゆたかに充電されてこそ、勇みに勇んで活動することができる。
capelaurig
が
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政治資金の取得方法が問題で、そこでの政治資金規制法に反する記載ミスというこが摘発されているのだが、裏金を作るという自民党の政治活動が法的に政治道義的に批判されなければならないと思う。この根本には政治的代表や閣僚が、政治的理念や政策、あるいは見識、オルタナィブな構想力で選ばれというように政治の登場が希求される。政治が変わるということの最低限のことであるいえる。歴史的にみれば戦後の反体制運動や反権力運動は政治権力や体制を批判し、暴走を抑制するという意味での役割を果たしたが、好ましい政治に替えるという意味では敗退してきたと思う。政権交代した民主党のこともふくめてだ。
民主主義的な原則が政治において問われているのであり、それは政治的な理念や政策をオルタナティブな構想力として持つ政治である。金による政治というのはその対極にある政治であり、裏金づくりという政治は批判さるべき政治である。
政治資金の収得と支出をどのように規制するかといことは提起できるし、それは難しいことではない。今回も裏金づくりの実態を明るみに出す、それが権力やその政治主体の自民党に要求されていることだ、「派閥の解散」や「政治の刷新」などは問題のすり替えであり、逃げに過ぎない。裏金という言葉を使うな、という哀しすぎる振る舞いでなく、裏金づくりの事実を明らかにせよ。それが安倍派幹部の面々の最低の政治的責任である。
capelaurig
が
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神殿に 神はまさねど人びとの 斎かんたびに天降りますかも
いのるとも 心に曲のあるときは 神の救いのいかであるべき
霊顕(れいけん) の現われそうなはずはなし 錠をおろして祭りたる神
外面より 錠前おろし檻のごと 祠に閉じられし神憐れなり
礼なくて 黒(きたな)き心持つひとの いのる言葉にしるしあらめや
もみじなす 幼き児らの手を合せ 神に祈れる様いじらしも
神を信じない人たちは自分を無神論者だという。そうだろうか。ほとんどの人が唯物論的教育を受けて育っているから、無理もない。だがもう少しつっこんで考えてみよう。
自称無神論者にもいろいろなタイプがある。まず確信派と暖昧派だ。後者は非科学的迷信家と思われるのがいやさに、無神論者の顔をする。もともと神などのしちめんどうな概念は、チリほども思い浮かべない、関係ないといった文化人だ。彼らはさておきで問題にしたいのは確信派の場合だ。確信派の無神論者を生んだ多くの責任は、まず宗教が負わねばならぬ。宗教が今日まで人類に与えた功罪を比較すると、むしろマイナス面の方が大きい。自分の宗派を守るために異端への排他と憎悪をかきたて、どれほど多くの血を流し続けたことか、それも神の名において。現に今なおアラブ諸国では、目をおおう無残な殺戮(さつりく)が行なわれている。
capelaurig
が
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1989年のベルリンの壁の崩壊によってフランシス・フクヤマが「民主主義」の勝利を語ったのに対して、民主主義の危機を語り、その由来と未来を語ったものである。トランプの登場をアメリカ民主主義という体内に発生したガンのようなものだと指摘した。新しい民主主義革命もアメリカからはじまると論じていたのだが、再選を目指すトランプの動きをどう見るのであろうか。
capelaurig
が
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堕落した宗教は、神を鰹節(だし)にして肥え太る大なる悪魔である。確かに「宗教は阿片なり」だ。まともな人間なら、怒りをもって反宗教をとなえよう。反宗教が必然的に無神論者を作り出す。しかし宗教がいかに堕落しようが、在る神は在る。
世界の人口の何割かを占める仏教徒は、宇宙を創造した神など認めない。だが彼らは宇宙の大理法を仏と信じている。換言すれば、王仁三郎のいう宇宙の造化の働き、生成化育の力ではないか。
宇宙の活動力に意志を認め、それを「神」と呼ぶならば、宇宙意志の有無が有神、無神の決め手となろう。しかしたとえ意志を認めたとしてもこういう意地っぱりもいるに違いない。
「宇宙の活動力を、なぜことさら神といいかえる必要があるか。今さら手を合わせて拝まずとも、宇宙は勝手に動いている。ありがたがりやの宗教は、だから嫌いだ」。神という言葉には素直になれない。大半がアレルギーをひきおこす。「ヒト」という言葉もやめよう。ホモ・サピエンスで結構、時には「二本足で歩く哺乳動物」「万物の霊長類」などといい代えたりして。
ついでに「母」もしめっぽい。「私を生んだ女」でいいじゃないか。「父」なる言葉の代わりに、「私を生んでくれた女に私を生ましめた男」とはっきり呼ぼう。待てよ、生ましめたなんて、あの男はそれほどの明確な意志を持っていたかどうか。やっぱり生ましめるに至ってしまったかな。
capelaurig
が
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「構成的権力」は憲法制定権力のことであり、もとっと平たく言えば革命のことである。権力あるいは主権の移動ともいわれる。構成的権力の登場はフランス革命や明治維新であり、ロシア革命のことであると言っていいのだが、これは伝統的な権力を倒し、権力(国家主権)を変えた。この存在には多くの概念があたえられるだろうが、王権や神権という慣習的(伝統的な)な権力を変えたことは間違いない。それを代表する近代的なものは憲法制定権力である。フランス革命がその代表的なものであり、出発にあったといえるだろう。この憲法制定権力は、民主主義とは同一のものではないが、重なりあうものになっていった。
capelaurig
が
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宇宙なる一言葉は純理的、学理的、形式的であり、ひややかな体を思わせる。そこに霊がこもってこそ、力を発揮する。
神の実体を宇宙の活動力と断言する王仁三郎は、その活動力に深奥な神の意志を感じ、広大無辺、壮麗きわまる霊力を観る。その感動をこめて表現するには、「宇宙の活動力」という説明語では血が通わぬ。他に適当な日本語がない限り、やはり神というほかはないのだ。
神は世に 無きものなりと賢しげに 物識人が世迷言宣るも
一匹の 虫の研究に一生を ついやす学者の神知るべきやは
五官もて 究めも得ざる大宇宙 造りし神をいかで知るべき
無神論反 宗教論に没頭し 魂殺す人をあわれむ
「月」の人群万類森羅万象への慈愛を語っていますね。
王仁三郎の思想には、太陽は 神の実証、あるいは真の神は天国では太陽として姿を現し、霊国では月大神として姿を現すというのがあります。
太陽も月も星も霊体なのです。霊と体の結合した存在という意味では私たち人間もそうなのですが、人間の一霊四魂も、もとは太陽の一連四魂から来ています。私たちの心のルーツは太陽なのですね。
capelaurig
が
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構成的権力を源泉としながら、そこから生まれた構成された権力が疎遠になる状態としてこの問題をたてる。それはフランス革命においてテルミドール(恐怖政治)を生みだし、ロシア革命や中国革命において独裁的権力を生みだしたことしてある。レーニンや毛沢東が創出した権力が失敗した権力であるということとしてこのことを考えてきたが、フランス革命とそれに続いたヨーロッパの革命を起源的な問題として論じている。構成的権力が憲法制定権力として現れたとき、憲法規範や法の成立として構成された権力として結果したときに、構成的権力から見ればこの憲法体制は疎遠な対象となり、抗おうとするものになるというのだ。立法することは構成的意識(構成する意識)であるが、その結果として構成された憲法や法は疎遠な対象となるということだ。共同的なものとして生み出したものが、国家としてそれを生みだしたものにとっては疎遠なものとしてでてくる。
capelaurig
が
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霊のことを言霊学では「ひ・火」といい「ち」といいます。
体、すなわち元素のことを「水・み」とも読みます。
霊は「火」体は「水」 言霊学では「火・水」と書いて
「火・水」、これを「かみ」と読ませます。
「霊」は「火」・「ち」、「体」は「水」・「み」・「から」ですから
霊と体が結合して「ち・から」が生まれます。エネルギーが生まれます。それを活動力といいます。つまり神とは「宇宙意思」ですが。「活動力」でもあります。
神典・古事記に当てはめますと。丸い天・宇宙の正中に初めて存在した不完全なる霊を天御中主神といいます。
そしてその不完全なる霊が発達して、霊と体に分かれます。
その「霊」のことを古事記では高皇産霊神・「たかみむすびのかみ」 と言います。「体」のことを神皇産霊神・「かむみむすびのかみ」といいます。
capelaurig
が
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向うの国の極悪神の頭(かしら)が、日本の人民を一人もないように致す仕組をしているなれど、日本にも根本から動かぬ経綸がいたしてあるから、国も小さいし人民も少ないなれど、初発から一厘と九分九厘との大戦いであると申して、口で言わしてある事がドチラの国にもあるから、神力と学力との力比べの大戦いであるから、負けた方が従がわねならんと申して筆先に出してある通り、この先で神から許さずと申す事をいたしたり、我の一力でやろうと思うても、世がさっぱり変りてしまうから、是までの事はチットも用いられんぞよと度々気を付けてあるのに、聞かずに吾の我でやりたら、一つも思う様には行かんぞよ。
素直にさえいたせば何事も思うように箱差した様に行くのが神代の政治であるぞよ。今の人民は余り我が強いから、是までは神の申す事も聞かずに、地の上に誠の大将と申すものがなかりたから、世に出ておる方の守護神が、向うの国の大将に気に入る様な悪がる力がありたなら悪い事の仕放題、悪神の自由でありたなれど、モウ時節が廻りて来たから世は立ちて行かんぞよ。今までは物質の世でありたから、学がここまで蔓りて九分九厘までは成就いたしたなれど、もう往生いたさなならんように成りて来たぞよ。世界の大洗濯をいたして、元の水晶の身魂やら天地の大神の直系の御血筋の世にいたして、天におわします御三体の大神様におめにかからねばならぬ御役であるぞよ。来いで来いでと松の世を待ちておりたら、肝腎の悪の性来の改心をいたしてもらわんと、この世は水晶にならんから、ドウシテも聞かねば聞くようにいたすより仕様はないぞよ。
capelaurig
が
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ネグリは構成的権力という概念をその基盤の根源性、また民主主義と主権、政治と国家、力と権力の中で理解しょうとする。ネグリの構成的権力への問いかけが興味深いのは民主主義を人々の反権力や反体制の欲求にあり、それを実現すべき運動を推進しながら、民主的な体制や権力形態には批判を意識せざるを得なかったという矛盾的意識をもつからであり、そこが切実な思想的課題だと思ってきたからだ。
capelaurig
が
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主神、独一真神、造物主などは、真の神の属性からつけられた名前である。神道では天之御中主神と称え、キリスト教ではゴッド(天の父)、イスラム教ではアラー、ギリシャ神話ではゼウスの神という。中国では天、天主、天帝などといい、易では太極だ。仏教でこの概念に比較的近いのは、阿弥陀如来であろう。阿弥陀如来は西方にある極楽世界を主宰する仏陀の名で、信者は死後、その世界に生まれ変るとされている。
大本では大国常立尊であり、筆先は天の御先祖きまと親しく呼びかけ、救世主神としてみろくの大神ともたたえる。また霊界物語では、素盞嗚大神がそれにあてられている。「ルシャナ仏 阿弥陀如来も伊都能売も御名こそかわれ一つ神なり」と王仁三郎は歌うが、真の神を信仰の対象にする宗教である限りただ呼称が違うだけで、実は同じ神に祈っている。だから宗教によって「わが神尊し」と争うことほど、ナンセンスなことはない。同じ神を祈っているのに、なぜこうもいろいろな宗教に分かれるのかといえば、基本的には神をどう観るかという神観の相違に帰する
世界的宗教を大別すれば、一神教、多神教、汎神教になる。一神教は一神観にもとづく宗教である。一神観では、神はただ一柱あるのみ。その神は唯一絶対の存在であり、万物を創造し、時間を超えて永遠に生きる。すべての存在は神によって支配きれ、生かされ、神の経論の中にくみこまれる。神は被造物である人間と本質において相違する超絶的存在だが、同時に人間の心を理解し、人間に働きかける人格的存在でもある。イスラム教、キリスト教は典型的な一神教だ。
capelaurig
が
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政治的運動に関係したときに民主主義は根幹にある政治的主張であったが、同時にそれは批判の対象だった。それは議会主義や議会主義的な政治形態の批判だったと言っていい。この矛盾を解決する理念は民主主義やそれを体制の根幹におく国家をブルジョワ国家とみなす考えがあった。民主主義は階級的支配のイデオロギー装置(上部構造)であるという階級概念からする批判である。民主主義は階級的イデオロギーであり、理念というわけである。これは憲法をブルジョワ憲法ということでもあった。構成的権力を源泉として生まれた憲法や法は人々を抑圧する法であり、イデオロギーであり、体制的装置であるというわけである。その淵源は階級支配にあるとするのだ。そこでは社会主義権力という概念があり、そこからの民主主義批判があり、それがここでネグリのいう構成された権力の批判をなしていた。これは社会主義権力が構成的権力の歴史的発展段階であり、構成された権力への批判の継承を意味していたと考えられていたのである。この理念は長らく左翼や左派とみなされる人たちを支配してきたことだった。左翼や左派の人々に無意識というレベルまで浸透していた。しかし、この階級的な視点からする民主主義や体制批判は疑念にさらされ力を失った。構成された権力がブルジョワ階級の理念、もしくは国家理念だというのは取り残された左翼の教条としてあるが、力や影響力を失い減衰してきたのだ。
capelaurig
が
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汎神教は汎神論にもとづき、すべての存在(宇宙、世界、自然)が神であり、神はこれらすべてと同一という宗教観、哲学観だ。インドのウパニシャツドの思想、仏教哲理、ギリシャ思想、また近代ではスピノザ、ゲーテ、シェリングなどの思想は汎神論に属する。仏教の「仏性」思想はかなり汎神論的であり、特に大乗仏教にそれがいちじるしい。
真の神は「天地万有の創造主」であり、「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」であると称える王仁三郎の神観は、まぎれもなく一神観だ。複数の神も認めており、そういう意味では多神観に立つ。そして「宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり」というからには、汎神論である。宇宙根本の力を体現するものは、すでに述ぶるが如く、宇宙を機関として無限、絶対、無始、無終の活動を続けたまうところの全一大祖神天之御中主神、一名大国常立尊である。この意義において、宇宙は一神である。が、宇宙の内部に発揮さるる力はおのおの分担が異り、方面が異り、性質が異り、軽重大小が異り、千種万様その究極を知らない。
capelaurig
が
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ネグリは構成的権力という概念を問い理解を深めることで、あらためて構成的権の主体、その歴史、構成された権力の関係を理解しょうとしている。構成的権力は革命として登場したことは疑いない。それは人々の抑圧や疎外からの解放の欲求の表出であり、行動として立ちあわわれたものである。これは民主主義である。民主主義は反乱や抵抗、変革や法の構成と言ったものとしてあらわれるが、つぎのようなものとしても規定される。「民主主義は自由への絶対的手続きであると同時に絶対的統治である」。これはネグリの概念的規定なのだが、「従って、法学思想が閉ざそうとするものを開かれた状態にたもち続けることによって、そして法学の科学的用語そのものの危機を深く掘り下げることによって、われわれは構成的権力の概念に再会するだけではだけではなく、民主主義的な思想と実践の母体としての構成的権力に出会ことにもなる。不在、空白、欲望は民主主義の民主主義としての政治的ダイナミズムの原動力なのである」と。構成的権力とは憲法制定権力であるが、それは憲法的規範や法に連れていかれるようなものではなく、それに対して開かれそこからあふれてあるものである。
capelaurig
が
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この意義において天地、日月、万有、一切ことごとく神であり(汎神)、神の機関である。小天之御中主神である」(『大本略義』「天地剖判」)
宇宙を一大人格ととらえてみよう。宇宙は一つ、その本体は宇宙の活動力の本源である真の神一柱、一神観である。
しかし太陽も月も地球も星も、その他いっさいが宇宙の懐にあって活動しているように、真の神の力徳の大小の変化にいちいち神名をつけた時、それが八百万の神々となる。また真の神から生まれたいろいろのエンゼルや古代の英雄を神と呼ぶ場合もある。つまり多神観だ。巻けば一神、聞けば多神で一神即多神、多神即一神である。
宇宙間のすべてが真の神の霊力体で作り出され、分霊、分力、分体を受けている。これは汎神論である。ただ王仁三郎の汎神論で注意すべきは、「石ころ即仏」、「木の葉即仏」ではく、石ころも木の葉も真の神の一部分だということである。
ここに一冊の本がある。つらぬかれているテーマは一つだ(一神観)。だが開けば何百ページに分かれ、それぞれに意味がある(多神観)。そしてどのページも本の一部分だ(汎神論)。ただし本そのものではない。
地の上に 数多の国はありながら 信ずる神は一つなりけり
一はしら 神のいさおを八百万 わかちてとける大本の道
八百万 神はいませど伊都能売(いづのめ)の 神の分かちし霊魂なりけり
西東 南も北も天地も わが身も神のふところにあり
capelaurig
が
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民主主義に立つという政治家が法の支配というとき、感じる矛盾観というか、疑念を思い浮かべるといいのかもしれない。この場合には政治的道具として法が、つまりは民主主義が使われても、それは現実の民主主義感覚からは疎遠なものに思われるからである。民主主義の構成された存在として憲法や法と現実存在としての民主主義(現存感覚としての自由や民主主義)が二元的なといわなくても距離があることは疑いない。
「共産主義とは、われわれにとってつくりだされるべきあるひとつの状態でもなければ、現実が則るべき理想と言ったものではない。われわれが共産主義とよぶところのものは、現在の状態を廃止しようという現実的運動のことである。この運動の諸条件は、今、存在している前提から生じるものである」。ネグリはマルクスのドイツ・イデオロギーで展開した共産主義の定義をもちだすわけだが、彼の言う構成的権力、あるいは民主主義はマルクスのいう共産主義と同じことである。マルクスが現実的運動と言ったのは現実的意識のことであって観念的なイデオロギーではないということである。
capelaurig
が
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なでるとか、くすぐるとか(多神観)。そして指もまた太郎の一部分である(汎神論)。ただし太郎そのものではない。このように王仁三郎の多神観も汎神論も、真の神の本質を説明する便宜のためであり、本質的にはあくまで一神観である。
「反可通学者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だといっているが、かかる連中はわが国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主神と称え奉り、その他の神名はいずれも天使や古代の英雄に神名を附せられたまでであることを知らないからである。
真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にわが神道は一神教であるのだ」(『筆のしずく』五)
capelaurig
が
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構成された権力が構成的権力と二元的関係ならないで、そこに統合されていくには、国家をどのように方向づけるかの思想が重要である。国家変革、政治革命の思想である。民主主義とは(自由意志)による共同体の構成である。自己統治を人類が最初にやったのはギリシャの都市でのことだ。この自己統治として民主主義はコンミン的な国家、共同体の統治である。かつてマルクスはパリコンミューンのなかでプロレタリア独裁(階級独裁)としてこれを発見したといわれるが、この理念を受け継いだとされるレーニンの政治革命論はコンミューン的な統治とは似つかわしくないものだった。
capelaurig
が
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「神は万物普遍の霊にして、人は天地経論の主体なり。神人合一してここに無限の権力を発揮す」
第一段は神について。万物に普遍している霊が神だというのだから「巻けば一神、開けば多神」という王仁三郎の神観に立つ時、万物に普遍した霊は、総根源たる真の神から分け与えられたものだということを、理解しておく必要がある。
第二段は人について。天は地上に対する宇宙、現界に対する霊界を意味するから、天地とは霊界現界を合わせた全宇宙である。経論とは、「唯天下至誠、為能経論天下之大経、立天下之大本、知天地之化育」(『中庸』)、「上下心を一つにして、きかんに経論を行なうべし」 (「五箇条の御ご誓文」一八六八(慶応四)年とあるように、天下国家をととのえ治めるための雄大な構想の意味がある。つまり人は字宙全体を立派にととのえ治めるために構想し実践すべき主体であり、これほど人間としての存在を高く評価した哲学は他にあるまい。
第三段は神と人との関係について。大本教旨にある「神人合一して」は、「霊体一致して」と表現される場合もあるが、この方がより広い意味を持つ。神は霊であり、人はその霊を容れる体だ。いくら霊で自の前のグラスを取ろうと念じても、体が協力せねば取ることができぬ。
だが霊の働きが停止すれば、ただこんこんと眠る植物人間になるよりあるまい。霊と体と合して初めて力が出るように、神と人とが一体になってこそ、初めて無限の力を発揮できるのだ。
真神は 万物普遍の霊にして 人は天地の経論者なる
大神の みたまをうけし人の身は 天地経論の主宰者なりけり
主の神は 万物普遍の霊なれば 人を造りて世を聞きましぬ
capelaurig
が
しました
御指摘有難うございます。
頓首。
capelaurig
が
しました
ネグリはこの問題をレーニンなどのマルクス主義的な国家論の検討としてやっている。ネグリは5年ほど前に朝日新聞のインタビユーで、自由と平等の意識民主主義の裾野として浸透することを民主主義の基盤として大事だと語っていた。そして別の個所では「自治」のことを語っていた。過ぎし日のあの1960代の末にネグリは「赤い旅団」を引きつれ的に闘っていた。あの時代に大学でバリケードを創り、誰からともなくこの状態を学コンミューンと名付けようとする声が上がっていた。ボロニア大学のことが語られていた。ネグリは1960年代の日々、自由都市のことを思い浮かべていたのだろうか。当時イタリアの闘争から大学全学評議会(全学評)という高層を示唆されていた。バリケードで占拠した大学の運営(自治)の方法として。ここには無意識にせよ自治という概念の現実化のことが考えられていた。民主主義といえば選挙でだけでなく「自治」もあることを考えていいのだと思う。
capelaurig
が
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天にかがやく月日の玉を/取ってみようと野心をおこし/天教地教の二つの山を/足の台にして背伸びをしたら/雲が邪魔して一寸にや見えぬ/見えぬはずだよ盲目の企み/そこでちょっくり息してみたら/雲が分かれて銀河となった/左手に太陽わしづかみ/右手に月をばひんにぎり/顔にあてたら目ができた/顔にあてたら目ができた
日地月丸めてつくる串団子 星の胡麻かけくらう王仁口
日地月星の団子も食いあきて いまや宇宙の天海を呑む
「神が全智全能ならば、なぜかかる不公平なる世界をいつまでも放置しておかれるのか。賛沢三昧に暮らしている国があるかと思えば、一方では飢えに苦しむ国がある。この世界には差別がいっぱいだ。これでは人類の苦しみを眺めて喜んでいるとしか思えない」 という疑問に出合うことがある。
神は「隠身」、つまり肉体を持たぬ存在だ。そこで神は全智全能なるが故に、人を地上に下して、自分の代行者として天地経輸の働きをになわせた。いわば人は地上における神である。この現界においては、人が主体なのだ。神と人とがあいまって初めて、神の全智全能の威力を発揮できる。
神は山河草木を造り出したが、人間の力が加わらねば、山河草木は依然として太古のままであろう。神はこの宇宙を生成化育、無限に発展させようという大欲望がある。そしてこの地上にすばらしい楽園、みろくの世を造ろうと望んでも天地経総の主体としての大使命をになう人が協力せねば不可能なのだ。ただ祈っていれば理想的世界が到来すると考えているような宗教があるが、それは神と人との関係を理解しないからにほかならない。
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
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こんな笑い話がある。「大坂城は誰が造ったかね」「もちろん豊臣秀吉だ」「違うな。大工や左官が造ったのだ」
確かに大坂城は大工や左官が造った。秀吉がいかに権力があろうと、大工や左官がいなければ、大坂城はできなかった。しかし大工や左官が何万人いようと、あの時、秀吉が築城を決意せねば、大坂城はできなかった。働き手は大工や左官だが、しかし誰が造ったかといえば、やはり豊臣秀吉が造ったというべきであろう。
みろくの世の建設のための働き手は人だが、絶対的な権限はやはり神にある。革命は人の知恵の限界内で、人の力で理想世界を築こうとするものだが、それが実現してはたして人類が幸福になれるかどうかの保証はない。あるいはジョージ・オーエルの『一九八四年』のような、人間ががんじがらめに管理されるような状況にならぬとも限らない。王仁三郎のいう世界改造は、神人合一、神と人との協同作業で理想世界を築こうとする。それが立替え立直しである。
ちはやふる神の霊魂をわかたれし 人は神の子神の宮かも
いと小さき人間なれど魂は 全大宇宙に感応するなり
世の中の一切万事の出来事は 神のよさしの経倫としらずや
手も足も動かさずしてみろくの世 はやこよかしと祈る曲神
延び縮み心の船のままぞかし 神の経倫は人にありせば
体も霊魂も神のものなれば 仰ぎうやまえ我とわが身を
capelaurig
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ロシアが外から侵略されるというような安全保障上の危機を感じたということではなく、プーチンの国家統治の危機があって、それを乗り切るための方法として戦争を取ったのではないか。2024年の選挙もあり、終身大統領を目指すこともあるが、これまでの政治では乗り切れないという不安があって戦争の道を取ったという認識をした。プーチンの政治的方向がつかめにくいということもあった。彼の政治理念、あるいは政治戦略をもう一つ明瞭にできないということもあった。あるいは20年に及ぶプーチン政治が続いてきたこと、そこでの危機の問題が明瞭にしにくいと思えることもある。
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善悪美醜は人によって価値観が異なり、それをはかる尺度のないものだが、王仁三郎は、「善というのは、透明体である霊魂だ」という。「天帝(神)から贈ったところの至粋至純なる清い清い霊魂」なのだ。そして体とは物質そのもので、これを善である霊と対照して悪と呼ぶ。美もまた、神の目からみた美が真の美で、それと対照したものが醜となろう。
「天主一物を創造す。ことごとくカ徳による。故に善悪相混じ美醜互いに交わる」(『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」)
王仁三郎は善悪一如、善悪不離を説き、「悪の中にも善があり、善の中にも悪があり、善悪美醜混交しているのが世の中だ」(『道の大原』二章)という。人聞は肉体と精霊で成り立つ。言霊学では、霊をヒ、またはチと読む。人は精霊を止める存在だから、霊(ヒ)止(ト)なのだ。体はカラ、カラタマだ。もともと肉体は精霊を入れるために作られた中身なしの容器である。だから殻、空と同義で、カラタマは「霊魂が空(から)」とか、「霊魂の殻」などの意味がある。また現身(うつしみ・うつせみ)のことを「空蝉」と形容したりするのも、生きがいを失った肉体は、いわば蝉のカラのようなものだからであろう。
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ソビエト連邦国が崩壊したのは1991年である。1991年にエリチィンが大統領になるが、エリチィンは1991年にベラルーシとウクライナとロシアをロシア連邦からの離脱とそれぞれ独立国家になることに合意し、ロシア共和国を成立させた。これはスターリン政治からの改革と離脱を志向したゴルバチョフ改革の帰結だった。
エリチィンは計画経済から市場経済への移行と西欧型の民主政治への移行をしたのであるが、経済的にはソ連型インフレ(ハイパーインフレ)を招き、ロシア経済をドン底状態に陥れた。また、議会側と大統領側の対立とクーデター騒ぎもあって不安定な政治状態を生み出し続けた。また、チエチエン戦争での敗北もあり、ロシア国家を苦境に追い込んでいた。このエリチィンの時代は社会主義権力の時代からから離脱とその改革が目指されながら、経済的にも政治的にも成功せずに不安体な状態を現出させたといわれている。
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「世の中には神はなにゆえ善ばかりをこしらえぬかと理屈をいうものがあるが、神は大工や左官でないから、指金は持ち給わぬ。善になるも悪になるも、みなそのものの力徳である。それで誠の道におもむいて神力をうけねばならぬ」(『道のしおり』「一巻」)
人間は誰でも霊能(霊的性能)と体能(体的性能)というニつのあい反する性能を具備している。霊能とは、向上、正義、純潔、高雅、博愛、犠牲などという、最高の倫理的、審美的感情の源泉であり、体能とは、呑みたい、食いたい、着たい、寝たい、犯したいなどの欲望をおこさせ、はては人間をして堕落、放縦(ほうじゅう)、排他、利己などの非道徳的行為に導く。ならば霊能が善、体能が悪と思えるが、善と悪とは対照的な符号に過ぎず、絶対的な善の基準がきまらぬかぎり、対照語である悪が、悪いとも不必要ともいえない。
もし霊能がなければ他の動物と変わりなく、人間としての価値を失う。人間を人間たらしめているのが霊能だ。だが体能がなければ自己保存もおぼつかなくなり一ヵ月をへぬまに人間はこの地上から滅び去るであろう。
人間が人間として生きて行くためには、霊能体能いずれも不可欠であり、両性能に優劣の区別はない。「陰滅すれば陽減す」で、体能が滅びれば、霊能もまた滅びてしまう。霊能も体能もともに宇宙の大元霊から分れ出る二大元質で、甲乙軽重の差はないのだ。霊(善)と体(悪)が合してカを生ずる時、そのカ徳によって善悪美醜がまじり合う。つまりその時の力の配分によって、善悪美醜がきまる。同じ夫婦の子供でも、その時の互いの体や心理状態の都合もあり、霊の状態のよしあしもからんで、男ができたり、女ができたり、美人ができたり、不美人ができたりする。
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長らくロシアを支配してきたのは「プロレタリア独裁による統治」とそのもとで一国社会主義(国家社会主義)を進めることだった。これはスターリン主義(起源はレーニン主義)で社会主義といわれるものだった。この後に、経済的には国家資本主義へという道と民主独裁という政治の道を取ろうとしたのがプーチンの路線だった。このプーチンの路線というか、政治は1990年代(エリチィン時代)の経済的・政治的混乱を安定させた。ロシアの反体制政治家でプーチンの片腕となり大統領理にもなったメドヴェージエフはプロセスを『プーチンの謎』として書いている。
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神は人間をその代行者として造ったが、他の動物と違って特に優れているのは、
一 霊魂の働きが複雑精妙であること。
二 幅広い自由意志を持つこと。
霊魂については「一霊四魂」で述べたが、人間が幅広い自由意志を持つとは、善人はなお善人に、また悪人はより悪人になるのも自由、逆に善人に立ち返ることも自由ということだ。だから人間は、生まれながらにして創造的、自律的に悪を行う自由を内包している。
悪のできない人間を造ったとしても、それは神の代行者としての自由の資格を失った動物に過ぎぬ。猫でも黙って鰹節を盗んだ時には逃げ、鼠(ねずみ)を取ってくると手柄顔して家人の前で食べる。彼らにも多少の善悪の観念はあろう。
罪の意識は、良心の有無と結びついており、良心がなければ、罪の意識は生まれぬ。猫に良心はない。彼らが肉や魚を盗んだとき、人間をみたらパッと逃げるのも、それは罪の意識ではなく、人間の体罰を恐れるからだ。ところが虫や魚になると、善悪の観念すらない。害虫は畑の作物を荒すが、悪いことをしているという意識はなく、逆にまた益鳥は害虫を食ってくれるが、善をなしたという意識もない。ただ生存するための行為でしかないのだ。
岡本かの子が「神さまはなぜ罪を犯す人間をお造りになったのですか。人間の罪を悪となさるなら、初めから全智全能のお力で、罪を犯さない人間を作って下さればいいのに」というようなことを書いていたが、これは誰もが抱く疑問であろう。だがもともと悪を行えないように造られた人間が善をしたとしても、本能的善、機能的善であって、はたして善の名に価するかどうか。
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ナワリヌイは「西欧化を目指す。つまり民主主義と法の支配」を志向する。その点では社会主義をめざす反体制の政治家ではない。その意味では彼のイデオロギー的立場は大きな意味でのリベラル派であるが、内容的にはそれゆえに明瞭ではない。彼に様々な評価があるのはそのためである。彼は民主主義派の英雄でもあるが、一方で扇動家、また差別主義者という批判を課せられる。彼の像は複雑であると記せられているが、そうならざるを得ないと思う。それには二つの理由が考えられる。その一つは現在の体制(資本主義)を超える社会のビジョンを描くことが困難であること。もう一つは現在の政治体制をこえる政治的ビジョンを描くことが難しいなことである。かつてなら社会主義(政治・経済)は反体制理念たり得たし、それなりのビジョンも描けたかもしれない。「プロレタリア独裁による統治」という社会主義政治のビジョンは完全に破産した。ロシアのような旧社会主義国では西欧の民主主義や市場経済などがかつてなら反体制の理念たり得たろうが、今はそう簡単ではではない。市場経済や民主主義が不十分であれ、取入れられそれを経験してきたのだかである。ナワリヌイがイデオロギー的にはそれが曖昧で複雑になるほかないのは、世界中の反体制運動家が遭遇していることでもある。
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『スキャンダル』は、文壇からは、黙殺とは言わぬまでも、中村真一郎氏の批判をはじめ、あまり称賛はされなかった作品だったように記憶いたします。文学の専門家からご覧になると、少しく物足りなかったのでしょう。私のような素人読者からは、「もう一人の私」の問題を追求し、ルドンの作品で飾られた装幀もまことに見事な、遠藤周作氏のチャレンジングな傑作とばかり、いやはや興奮したものですが。
そのような毀誉褒貶ある『スキャンダル』を、稀代のユング心理学者河合隼雄氏は、評価しました。蓋し、河合氏は、『スキャンダル』を文学作品として高く評価なさるのみならず、臨床家の前に佇む「クライエント遠藤周作」の、その稀有な無意識の報告として、行間にかすかに響く遠藤氏の聲ならぬ聲を耳ならぬ耳にて傾聴なさったのではないでしょうか。申しかえますと、自らの心の襞に分け入る遠藤氏の命懸けの内的冒険に、河合氏は臨床家として、独自のスタイルで真摯に、自らの存在を無にするかたちで、寄り添われたのではないでしょうか。(この姿勢は河合氏が埴谷雄高氏の『死霊』や梶井基次郎氏の「Kの昇天−あるいはKの溺死」を高く評価されていることにも通じるのではと私は愚考いたします。)
その透徹し、深みのある、臨床家の誠実さに、わたくしは敬慕のおもいを抱きつつ同時に、河合氏に、底無しのまさに底無しのような、畏れ、恐れをも感じます。
それは作家遠藤周作氏がその生涯を通して向き合ってこられた大きな、それは偉大なと申してもよいような巨大な無意識の光と闇への、私の敬意と畏れでもあります。
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純潔をぜひ守らなければならぬとあれば、神は人間を性的不能に造られたらいい。だがそれでは、人類は子孫を残すこととはできないし、生きる喜ぴすら半減するだろう。罰せられない保証さえあれば、悪の喜びを思うさま味わってみたいと、心の底で願っている人も少なくはあるまい。自分の自由意志で悪への誘いをはねのけ、あるいは悪のどろ沼から這い上がって善をなしとげてこそ、その喜びは大きいのだ。
神が代行者として人間を造ったように、人がその代行者としてロボットを作る。この場合、人はロボットに対して神の立場に立つ。今使われている単純な産業用のロボットではなく、選択の判断もできる複雑なロボットが完成されたとして、善悪を考えてみよう。有名なSF作家のアイザック・アシモフが作品の中で、「ロボット工学の三原則」というのを作っている。これは手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』に使われており、人工知能の専門的な本にも論じられている。
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イデオロギー理念よりも具体的な経済や政治の動きの批判から出発するということがナワリヌイの活動であり、反体制的行動である。彼の政治内容が複雑でいろいろ変わると言われるのは彼が統治権力の動きに合わせているためであり、権力の動きが変わるからである。反汚職活動家として、抗議者として、クレムリンに対する批判者としての彼の行動は理念ではなく、現実意識から出発する(そうするほかなかった)彼の軌跡をあらわしている。「はじめはただの投資家だった」「ナワリヌイはロシアの企業の内情をのぞいて活動家になった」「それはそのうち信念になった」。企業の汚職の摘発から。汚職を権力保持のシステムに組み込まれた構造の批判に発展させたのである。彼は巨大な権力の裏側を暴くことにになった。彼はプーチンの党(統一ロシア党)を「詐欺師と泥棒の党」名付けて挑むようになり、統治の内実を暴かれることにプーチンは恐れるようになる。
汚職の問題はロシアの官僚制権力と深く結びついた事柄であり、根の深い問題である。プーチンの政治が共産主義批判にもかかわらず、引き継いだ形のスターリン型の独裁(専制)政治はロシアの伝統的な官僚政治であるが、それは汚職と結びついていたのである。強い軍隊と言われたロシアの軍隊がウクライナの人々の抵抗のもとに弱さをさらした原因として、汚職による軍隊の力の脆弱化が指摘されていた。
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作家の無意識を追求する、魂のドラマが始まります。
「青年の時には人間は肉体で生きる、壮年の時は智恵で生きる、老年とは次の世界に行くための心そのもので生きるとむかし何かで読んだことがある。老いれば老いるほど心は次の世界の投影に敏感になるのだと言うが、今のぼくに展げられたこの醜悪の色の世界も次の世界に行くための通過儀礼であり準備なのだろうか。醜悪世界は、何を教えようとしているのだろうか。それがまったくわからないのだ。ただぼくのかすかな希望は、その醜悪世界をも光が包んでくれるのではないかということだ。」
「その二年半(河合隼雄氏との教育分析)はただただ苦しいのみであった。文字通り死にかけたこともあった。分析が進んでいくと夢が深まっていく。恐ろしい夢を見るようになるのだ。大量の汗とともにうなされつつ飛び起きたことも何度かあった。そのうちの一度など、心臓が本当に止まった、と思った。分析でこのような凄い夢を見て死にかけました。などと言っても先生は『はあ、そうですか』とおっしゃるくらいでさほどの反応はない。周囲の者は『徐々に影が薄くなっていく、大丈夫か』などと言い出す始末である。」
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一 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一原則に反する命令はその限りではない。
一、ロボットは、自らの存在を護らなくてはならない。ただしそれは第一、第二原則に違反しない場合に限る。
それらの原則に反さなければ善、反したら悪と仮定しよう。人間でいえば第一第二原則が霊能、第三原則が体能に対応する。
さらにアシモフの三原則を拡張し、「ロボットはロボットに危害を加えてはならない。危害を受けるのを黙視していてはならない」という。
アシモフの小説の一場面。ロボットが人聞を危害から助けださなければならなくなった。人間を救おうとすると、ロボット自身が破壊されてしまう状況だ。自分が破壊されると人間を救えぬ。見すごせば第一原則に違反する。どの原則を優先すべきかの判断力を失って、身動きができなくなる。単純なロボットであれば、間違いの少ない、完全に近いものはできる。だが単純なことしかできないから、使い道は限られてしまう。複雑なまわりの状況を判断して行動するロボットを作ろうとすれば、状況のさまざまのレベルから得た情報を総合して、判断させねばならぬ。
そこで判断の優先順位をいろいろ決める。そのロボットにいちいち全部教えていたらたいへんだから、失敗やまわりの状況から自分で学習し主体的に行動する判断力があって欲しい。
それだけの精巧なロボットができたとしても、たくさんのロボツトが動いていれば、お互いの聞で協力がうまくいかない可能性がある。複雑さが増せば、それだけ判断がむずかしくなる。おまけに一回失敗すると、影響が後に残る。物理的な時間などの制約によって、完全な判断はできない。
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これがオカルト現象とか言われているものかなあという体験が、甚だ鈍感なわたくしにも、幾度かありました。そのような現象にも、私は心をひらいておきたいと考えております。
作家三島由紀夫氏や映画監督北野武氏は、そのようなご体験を幾度もなさったようですね。
三島由紀夫氏が、昭和45年の三島邸新年会にて、226事件の首謀者の一人である陸軍一等主計、磯部浅一氏の霊に憑依されていると、美輪明宏氏(当時、丸山明宏氏)の指摘を受けたことなど、その有名な例となりましょう(平岡梓『倅・三島由紀夫』文春文庫、村松剛『三島由紀夫の世界』新潮文庫他)。
小林秀雄氏も、ベルクソン論『感想』(『小林秀雄全集』新潮社)にて、亡くなられたお母様をめぐる、不思議な蛍のエピソードを、冒頭あたり、静かに述べておられましたのも、心にのこりました。
祖母に関して、不思議な体験をしたことがございましたが、それ以来、能における、死者のかたりを真摯に傾聴するワキの、そのプレゼンスの重みを、しみじみ、感じたりしております。
生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら、同じなのかもしれないとは、宮本輝氏の名作『錦繍』の中の、忘れがたい言葉ですが、亡くなった方々から、教えていただくことは、実に、多い。
死者への尽きない敬慕、感謝とともに感じます。
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その時点時点で良いと思って判断しても、全体の流れでは悪いかもしれない。その時点で悪い判断をしたと思っても、全体の流れでは良い判断なのかもしれない。ロボットを方向性として善を行うように作ることはできても、完全に求めるのは不可能だ。ロボットに自主的な判断力を与えず、全部人間が面倒を見るしかない。そうすると何のためにロボットを作ったのかというジレンマに陥る。
人間のすぐそばでロボットを働かせれば問題はないが、もし遠くで作業させる場合、人間とロボットが電波で通信することに仮定しよう。「判断に困れば人間に相談しろ」といって送り出しても、電波の妨害物や雑音が入ると、ロボットの判断が狂ってしまうおそれもある。
そうなると、人間がいくら「それをしてはダメだ」といっても、やってしまう。あるいは誰か他の人間が、そのロボットを自分のものにしようと偽の電波を送れば、そっちのいいなりになってしまう。
ロボットに自由意志を与えないと単純なことしかできず、他からの悪にも従うおそれがある。自由意志を与えても、やっぱり悪を犯す可能性がある。親の立場と似ている。自由意志さえもたない子供なら、「この子はどうなっているのか」と先ゆきが不安だし、子供の自由にゆだねたい気があっても、悪に染まる可能性がいっぱいで、やはり心配だ。
悪人だ、善人だと決めつけるのは人間の勝手、神の目には善人も悪人も同じ神の子だ。親はできの悪い子ほどかわいいというが、まして神は善人、悪人の分けへだてなどなさらない。ロボットを作る人間なら失敗作はあろうが、むしろ神は人間を巧妙に造り過ぎたのかも知れない。
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例えば、チエチエン戦争をうまく使ってきたということである、この本で言えばクリミア合併がナショナリズムを高め、プーチン支持を高めた記述がある。
チエチエン戦争について、プーチンはナショナリズムの喚起のためにやり、自己の政治的支持につなげた。彼の人心掌握に戦争(第二次世界戦争-彼らには祖国防衛大戦争も含めて)が使われてきた。プーチンのロシア帝国復活という政治構想(戦略)には彼のナショナリズムの復活が張り付いているのであり、両刃の刃ということもある。その賭けに出ざるを得ない政治状況があったが、ナワリヌイ等の存在や支持の広がりに危機感を抱いていたともいえる。
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当時の雑誌を幾冊か、古書店で贖って知ったのですが、そのような状況のなか、遠藤周作さんが、「三島さんの思想と行動は最後の一点で完全に結びついた。壮烈であり、清潔である」と早い時期に、コメントなさっておりました。
事件直後、誰もが、三島由紀夫から距離を取るなかでの、このコメントです。
文壇以外では、多変数解析函数論の世界的数学者、岡潔氏が、「私は夕立ちの爽やかさを感じる。このうっとうしい世相の中に」とコメントなさいましたが(『週刊現代三島由紀夫特集』)、文壇関係者で、三島由紀夫に肯定的な言説を述べた方は、管見では、澁澤龍彦氏、石川淳氏、小林秀雄氏、村松剛氏、保田與重郎氏、円地文子氏、森茉莉氏、倉橋由美子氏、林房雄氏、辻井喬(堤清二)氏など少数でしょうか。
国文学者では、三島氏の恩師清水文雄氏、『日本文藝史』の小西甚一氏、独逸文学者では、西尾幹二氏、国史学者では、奈良本辰也氏、宗教家では、「ただひとり谷口先生だけは我々の行為の意義を知ってくれると思う」と、自刃数日前、三島氏に言わしめたという谷口雅春氏らのお名前が浮かびます。事件直後、その発言には慎重にならざるを得なかったのでしょう。そのなかで、遠藤周作さん自身、三島由紀夫さんを個人的にお好きだったということもございましょうが、しかし事件後の早い段階で、三島由紀夫の行動を「壮烈であり、清潔」と表現し得たことは、凄い。
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何が善で何が悪なのだろう。釈迦が八O歳で入滅するとき、修行者スバッダに「私は二九歳で善を求めて出家し、ここに五O年余となった」と語っている。
釈迦は三五歳で仏になったから、その後は善を求めて求道生活をする必要はないはずだ。にもかかわらず、仏となった以前も以後も、生涯かけて善とは何かを探究し続けたのはなぜなのか。
聖徳太子はこれについて、「修行の結果得られた善はあらかじめ果報を期待して得られたものだから、なんらの果報を求めず、ひたすら身に修めていこうとする善にくらべて逢かに劣るもの」と解釈している。しかし釈迦の求めた善とはどんなものなのか。なぜならば、善悪美醜は時所位によってかわるからだ
時所位とは、文字通り、時代と、場所と、その置かれている位置(立場) である。美醜でいえば、平安時代の美人が現代の美人として通用するかどうか、今日の美人なぞ万葉時代には顔をそむけられるかもしれない。時代によって美意識は移り変り、国によっても美醜の基準は違う。
中国では、昔は纏足(てんそく)といって、人為的に足の成長を止め、よたよた歩く小さな足が貴婦人の美だった。ホッテントットを持ち出すまでもなく、人種により、個人によっても美の好みは違う。
善悪もまた、時と所と位置によって逆転さえする。
宗 教、哲学、倫理学の立場からも、善悪の問題は常に追求されてきた。プラトン、カント、ショーペンハウアー、ニイチェと、それぞれの持つ善悪観は違う。キリスト教や仏教、神道、イスラム教などの説く善悪感も明確に違う。だから哲学や宗教の違いがまき起こす争いも、根強く絶えぬ。ヒンズー教徒は牛を食わず、イスラム教徒は豚を食わない。
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戦後の国際政治の中での日本国家の対応(戦争について対応)は基本的には非戦・平和(戦争の放棄)を軸にしていた。核戦争への対応には非核による不参加、地域戦争には不介入ということを軸にしていた。これらは主権国家間の戦争の回避に大きくは依存していた。主権国家間の戦争は潜在的には可能性があるから、侵略には防衛体制をとる、いわゆる専守防衛策が国防策としてとられていたにしても。
戦後の日本は憲法9条に象徴されるように国家意志の行使としての戦争を放棄してきた。(侵略からの抵抗としての戦争は放棄してはいなかったが)。主権国家間の核による戦争の回避と地域戦争の激化という世界関係の中で日本国家がとってきた対応(基本戦略)は転換を迫られるのか、どうか。従来の枠組みの中で専守防衛対応を強めるということだけなのか。戦争放棄(国家意志としての戦争放棄)の放棄になるのか。
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1970年7月6日付、川端康成氏宛書簡では、「時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました。この夏は又、一家揃つて下田へまゐります。美しい夏であればよいがと思ひます。」と、撮影日前日の7月5日には、山の上ホテルにて、蹶起決行の日を、11月楯の会例会の日とすることを、森田必勝氏らと話し合いました。
秋には死ぬことを思い定め、「時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられる」人の肖像写真が遺されました。遠藤周作氏は、同世代の安岡章太郎氏、吉行淳之介氏、安部公房氏らが、三島事件に距離を置いていたのに対し、事件発生から間髪を入れず、三島由紀夫の行為を肯定する、透徹した言説を述べました。
安岡章太郎氏が、俺たちは文士だが第三の新人の中では遠藤だけは思想家だと語ったことは、いろいろな意味で、正鵠を射ている。「同じ時期、私は遠藤周作『沈黙』を映画にしようと苦戦を強いられていた。
資金の調達に失敗して、製作中断を余儀なくされ、主人公の宣教師を演ずるはずの俳優デイビッド・ランプソンに延期を告げるために彼を銀座に誘った。
三島はデイビッドに『遠藤のあの小説はすばらしいから、必ず成功してくれよ』と言った。
私の顔を見つめながら『さよなら』といった。昭和四十五年十一月二十五日はその直後であった。」
死の数日前に、「遠藤のあの小説は素晴らしいから」と三島由紀夫氏が語った事実が心に沁みいります。
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州によって法律が違うアメリカでは、国内でも善悪の碁準が分れるということだ。ただ何事も神の手に/任せまつるにしくはない/善悪同体この真理/胸に手を当てつらつらと/直日に見直し聞き直し/人の小さき智恵もちて/善悪正邪の標準が/分かろう道理のあるべきや/この世を造りし大神の/心に適いしことならば/いずれ至善の道となり/その御心に適わねば/すなわち悪の道となる/人の身にして同胞を/裁く権利は寸牽も/与えられない人の身は・・・
法律上の善悪というのは社会の運営には必要でも、心の内面の善悪とは一致しない。王仁三郎によれば、法律上の善とは「仮の善」で、最低の道徳を基本にしたもの。法律にそむかねば善かといえば決してそうではないし、法治国家の良民というわけでもない。
「今の法律は行為の上の罪ばかりを罰して、精神上の罪を罰することはせないのですが、万一霊魂が罪を犯し、肉体が道具に使われてもやっぱりその肉体が罪人となるというのは、神界の上から見れば実に矛盾のはなはだしいものではありませんか」
「そこが人間ですよ。ともかく法律というものは人間相互の生活上、都合の悪いことはみな罪とするのですから。たとえ法律上の罪人となっても、神界においては結構な御用として褒めらるることもあり、法律上立派な行いだと認められていることが、神界において大罪悪と認められることもあるのです。それだから何ごとも神さまが現われてお裁き下さらぬことには、善と悪との立別けは人間の分際として絶対に公平にできるものではありません。
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戦後の日本の国家理念としての戦争の放棄は現実的にはかなり矛盾のあるものだった。戦争放棄は世界の体制が戦争の保持にあるとき、体制の戦争は保持は体制下の人々支持されているものではないという意味で、世界の国家体制から孤立していても、世界の人々からは孤立しているものではないということで支えられもした。日本国家の支配層にある部分と国民(市民や地域住民)とでは大きな違いがあった。地域戦争に金を出すだけだった日本の行動に「一国平和主義という批判がおこった。政府などの支配層にはこの議論は影響をあたえたが、国民にはひろがらなかった、世界の動きに対応して日本の戦争放棄を放棄しようという動きに抵抗してきた。戦争放棄がオルタナーテイブな国家構想であり、戦争に進む、戦争を国家の中心として保持しようとするものとの不断の闘いだったからだ。それは戦争を軸にした伝統的な国家主義との闘いだったからだ。安倍政権が「戦争のできる国」に国家を変えようとすることとの闘い近々のことだった。
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