コノハナノサクヤヒメの神話には続きがあります。続きというより、似た話というべきでしょう。
垂仁天皇25年、ヤマトの大神が大水口宿禰に乗り移って次のように言った。
先皇の崇神天皇は神祇をお祭りなさったが、詳しくその根源を探らないで、枝葉に走っておられた。それで先皇は命が短かった。今汝は先皇が及ばなかったところを悔い、よくお祭りすれば、汝の命も永く天下も太平であろう。
垂仁天皇はヌナキワカヒメに命じてヤマトの大神を祭らせましたが、ヒメは体が弱ってお祭りすることができなかったそうです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
垂仁天皇25年、ヤマトの大神が大水口宿禰に乗り移って次のように言った。
先皇の崇神天皇は神祇をお祭りなさったが、詳しくその根源を探らないで、枝葉に走っておられた。それで先皇は命が短かった。今汝は先皇が及ばなかったところを悔い、よくお祭りすれば、汝の命も永く天下も太平であろう。
垂仁天皇はヌナキワカヒメに命じてヤマトの大神を祭らせましたが、ヒメは体が弱ってお祭りすることができなかったそうです。
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自刃数年前、小林秀雄邸を、親しい編集者に(自衛隊入隊に危惧を抱いて、計画的に)誘われて訪れた三島由紀夫氏に、小林氏は、今は忍耐するようにと諭しました(村松剛『三島由紀夫の世界』新潮社)
「事件に大変孤独なものを感じる」
「あなた、(三島由紀夫自刃)日本の歴史を病気と言うか」(江藤淳との対話)など、凛とした優しみをもって、小林秀雄氏は三島由紀夫氏に常に寄り添う姿勢を堅持しました。
『本居宣長』の日本文学大賞授賞を銓衡委員として強く推した遠藤周作氏は、小林秀雄追悼の「私の感謝」の中で、「私は言語的阿頼耶識をあの『本居宣長』に感じ、今後の小林さんがその信じる認識をどの方向におむけになるか、心待ちに待っていたのである。」『新潮小林秀雄追悼記念号』(153ページ)と心情を吐露しました。
言語的阿頼耶識を補助線にいたしますと、三島由紀夫、遠藤周作、小林秀雄、井筒俊彦、など、新たな絆があらわれそうですね。
capelaurig
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法律は 世人を救うものでなし ただ罪人を罰するのみなり
宇宙のいっさいは、顕幽一致、善悪一如で、絶対の善もなければ絶対の悪もない。絶対の極楽もなければ、絶対の苦難もない。歓楽のうちに艱苦があり、艱苦のうちに歓楽がある。また悲観を離れた楽観はなく、罪悪と対立した真善美もない。善悪不二というのは浄土教では「ぜんまくふに」禅宗では「ぜんなくふに」と読むが、本来、善悪の差別対立などないことを意味している。仏典の「煩悩(ぼんのう)即菩提(ぼだい)。生死即涅槃(ねはん)。裟婆即浄土。仏凡本来不二」は、神の道からいえば「神俗本来不ニ」であろう。
山一つみても、頂上もあれば谷もある。木をみても、幹もあれば根もある。人間の体も、頭もあれば足もある。男があれば、女もある。どんな美女でも尻の穴があるから美を保てるので、もしなかったら、美どころか、命さえ保てない。善ばかり思っていたのでは、霊界のことよりできぬ。善悪、美醜上下、明暗すべて裏表。
「信者の中には善悪不二とか正邪一如という聖言を楯にとって、自分の勝手のよいように解釈している人もあるようだが、これは神が善悪不二といわれるのは中有界に迷える人間に対していわれるのであり、かつ神は善悪にかかわらず慈愛の心をもって臨ませられる見地からおおせられる言葉である。決して人間がうんぬんすべき言葉ではない」
capelaurig
が
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この国益(国家エゴイズム)を露骨に打ち出す動きは、グローバリズムに対する対応である。国家主義の前面化である。これはそれぞれの国家で出てきている。アメリカで言えばトランプである。国家主義が高まり戦争(第一次世界大戦・第二次世界大戦)となり、そのあとに国家主義の抑制があったが、それの時間が経て再び国家主義が露骨になってきていると言える。これはグローバリズムが国家的共同体内にある人々の経済的、心的不安の心理、恐怖感を生みだしていることが背景にある。新自由主義はグローバリズムが生み出す格差の増大、貧困の増大、市民や地域住民の経済的・心的不安を解決する道を提示できない。それを国家不安として誘導する政治的存在が各国で生まれていること、あるいはそれが政治力を高めている。これは各国で強権的で非民主的な政治が強まることを意味する。戦争は国家を立憲的で民主的な国家を強権的で非民主的な国家にかえる、その動きが強まる。
capelaurig
が
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文壇から徹底的に批判された『鏡子の家』に秘められた謎を剔抉してみせた佳品です。
新婚の知人宅に食事に招かれた渡部昇一氏は、主の書棚に並ぶ発売されたばかりの三島由紀夫著『鏡子の家』の背表紙が目に入りました。「評論家たちの悪評もあって」「その時まだ『鏡子の家』を読んでいなかった」渡部昇一氏は、早速それを借りて帰ります。
山口二矢による浅沼稲次郎氏刺殺事件の際、「山口少年を解く鍵はあの小説の中にあると直観し」た渡部氏。
山口二矢の行為の謎の解明に始まり、戦後民主主義の欺瞞の正体に刃を向けるに至る三島由紀夫の内面に秘められた心情に迫るその筆致は、縦横無尽にして大胆不敵、「啓蒙主義者はキチガイと嗤うべく、霊の不滅を信ずる者は瞑目して鎮魂の祈りを捧ぐべし」と真摯にして苛烈な言説で結んだ渡部昇一氏。まさに氏の隠れた秀作と申せるかと存じます。『鏡子の家』を挙げた 岸田今日子氏、吉田知子氏、矢川澄子氏の女性3名です。
直観鋭き、女優、小説家、詩人の、女性3名のみに『鏡子の家』が三島作品ベストワンに挙げられたことは、たしかに何事かを語らずして語っており、かつて文壇から黙殺されたこの作品と泉下の三島由紀夫氏にとりまして、華やかな「虚無に捧げられた供物」となりましたことでしょう。
三島嫌いで有名な哲学者梅原猛氏が「海と夕焼」を、そして、天才的な掌編である「仲間」を挙げた方、印象にのこりました。(最多得票は、「仮面の告白」6人)
capelaurig
が
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みろくの世になると至善、至美、至真、天はあくまで青く、明るく、水は水晶のように澄みきって・・・と思う人もあろうが、そうばかりではない。やはり昼もあれば暗夜もある。月夜には水気が大地に下がって露ができ、植物の成育を助ける。だが月夜ばかりだと、水気が多過ぎてかえって害になる。そこで暗夜があって調節する。人間もまた、昼ばかりでは体を十分に休めることができぬ。光には影があり、時には光をさけて影にやすらう。肉体のある限り、みろくの世になっても影の部分、必要悪はなくならぬ。
今の世は、悪いことをしても世間をごまかし表を飾れば、立身出世もできるし、大もうけもできる。正直でくそまじめなばかりに虐げられ、苦しめられ、悲惨な境遇に泣く人がたくさんある。それは悪魔が君臨する世だからだ。
これからは、もうこんな不合理は許きれない。善いことをすればどんどん善くなり、悪いことをすれば片端から打ち砕かれ、悪の思惑の一つもたたぬようになる。それがみろくの世である。
正しい神と正しく向き合えば、当然に神格が内流する。航路を見失った船が、北極星によって正しく向きをとるように。だが内流を受け止めるために、人はどうやって向きを変えるのだろう。理屈でわかっでいても悪をやめられないのが人間の弱きだからいろんな宗教は戒律でしめつける。
capelaurig
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ロシアのウクライナ戦争→国家主義の全面化。中国の動向。日本国家のあり方。国家主義は復活するか。国家と戦争についての戦後の日本の存在は変わるのか、どうか。中国の動向、中国との関係を含めた日本の国家はどうなるかわからない。それが実感しているところである。大きなスパンで考えれば明治から1945年の77年、それから2024年までの77年、その中での国家がどうあったかをとらえながら、次の77年の国家構想をどう持てるか、ということだが、その展望というのはよくわからない、というほかない。わからない中でどう探索すればいいかは歴史的な経験を探索する中でみえてくる、と思う。非戦・戦争放棄はその孤立をさらに進め、戦争放棄の放棄を強める、その動きは強まる。世界的な非戦の動きは世界的な自由と民主主義の抵抗と結びついて、戦争と強権体制に抗し続けられるのか。
かつて日本経済は貧困の時代を脱し経済大国になったと言われた。GDPが世界第二位になったと言われた。経済大国になり、経済的にゆたかになったといわれた、高度成長経済が停滞に直面し、日本はGDPでドイツに抜かれ第4位に転落したと言われている。アジア関係の中で見てもそのことは明瞭である。戦後に軽武装―経済重視の政策で高度成長経済が頂点から転落、いわゆる「失われた30年」を経て現在に至っている。
capelaurig
が
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川端康成氏から「実にみごとな大文章」と褒められて欣喜雀躍した三島由紀夫氏、その喜びが溢れる川端宛返信が遺されておりますね。
この頃がお二人の関係の良かった最後の頃でしょうか。市ヶ谷にて共に蹶起された楯の会の古賀氏と小賀氏、お二人の信仰上の師である宗教家谷口雅春氏は、「三島由紀夫氏の霊に捧ぐ」の献辞を記した自著にて、佐藤栄作総理、中曽根康弘長官らの「三島由紀夫狂気の沙汰」発言を、「世俗的な皮相な放言」と一蹴し、三島由紀夫は「自分の遺した殉国の精神が、日本の後世に於いて、日本民族に何らかのインスピレーションを与える時が必ず来ることを信じて、」自刃したと指摘、「谷口先生だけは我々の行為の意義をわかってくれる」という三島由紀夫氏生前の言葉に、没後一年、正鵠を射抜く言説にて応えました。
三島由紀夫氏の祖母なつ氏も戦前、生長の家の信徒として谷口雅春氏に尊崇の念を抱いていました。森鷗外の長女で作家の森茉莉氏も「首相や長官が、三島由紀夫の自刃は狂気の沙汰だと言つてゐるが、私は気ちがひはどつちだ、と言ひたい」と佐藤総理らを痛烈に批判しました。「彼を解釈した森田必勝は、彼についで自刃した。これは、幾分彼への殉死の意味合いがあるやに思われる。いずれにせよ、四人の青年が彼と行動を共にした。この青年をつくった彼の力は恐るべきである。狂気の者に、行き詰った者に、そんな真似は出来ない。」
capelaurig
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みろくの世になると至善、至美、至真、天はあくまで青く、明るく、水は水晶のように澄みきって・・・と思う人もあろうが、そうばかりではない。やはり昼もあれば暗夜もある。月夜には水気が大地に下がって露ができ、植物の成育を助ける。だが月夜ばかりだと、水気が多過ぎてかえって害になる。そこで暗夜があって調節する。人間もまた、昼ばかりでは体を十分に休めることができぬ。光には影があり、時には光をさけて影にやすらう。肉体のある限り、みろくの世になっても影の部分、必要悪はなくならぬ。
今の世は、悪いことをしても世間をごまかし表を飾れば、立身出世もできるし、大もうけもできる。正直でくそまじめなばかりに虐げられ、苦しめられ、悲惨な境遇に泣く人がたくさんある。それは悪魔が君臨する世だからだ。
これからは、もうこんな不合理は許きれない。善いことをすればどんどん善くなり、悪いことをすれば片端から打ち砕かれ、悪の思惑の一つもたたぬようになる。それがみろくの世である。
正しい神と正しく向き合えば、当然に神格が内流する。航路を見失った船が、北極星によって正しく向きをとるように。だが内流を受け止めるために、人はどうやって向きを変えるのだろう。理屈でわかっていても悪をやめられないのが人間の弱きだからいろんな宗教は戒律でしめつける。
capelaurig
が
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アメリカ経済は金融と軍事という二つの領域を中心にして脱高度成長時代を生き延びようとしてきた。
日本は高度成長の限界に到達したとき、先行するアメリカ経済をモデルにした経済転換はできなかった。アメリカ経済を模しての経済転換は不可能であり、その結果として経済的混迷がつづいてきた。この過程で生産力主義(技術革新による生産力の発展、高度成長)批判も現れたが、結局のところ転換は結実しなかった。アベノミクスが登場した。これは失敗だった。
アベノミクスは高度成長の復活というところに矢を向けたが、それはならなかったからである。かつての重化学工業と製造業にかわるものを登場させなかったからである。産業構造の転換は不可避であり、かつて重化学工業や製造業が中核に経済の高度成長があるというのは失われた夢であり、失われた夢にしたのは高度成長だったのだ。
生産力至上経済から消費経済への転換を含め生産と消費の構造の転換を不可避にしたということである。ここでの具体的な構想を打ち出せなかったことにある。これはアベノミクスの失敗の要因だった。消費を含めた経済(産業構造)への転換、その試行錯誤といくつもの構想の提案がなされてきたが、有効な発見は成し遂げられてはいない。
capelaurig
が
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「もう一人の私」の問題を追求し、ルドンの作品で飾られた装幀もまことに見事な、遠藤周作氏のチャレンジングな傑作とばかり、いやはや興奮したものですが。
毀誉褒貶ある『スキャンダル』を、稀代のユング心理学者河合隼雄氏は、評価しました。蓋し、河合氏は、『スキャンダル』を文学作品として高く評価なさるのみならず、臨床家の前に佇む「クライエント遠藤周作」の、その稀有な無意識の報告として、行間にかすかに響く遠藤氏の聲ならぬ聲を耳ならぬ耳にて傾聴なさったのではないでしょうか。申しかえますと、自らの心の襞に分け入る遠藤氏の命懸けの内的冒険に、河合氏は臨床家として、独自のスタイルで真摯に、自らの存在を無にするかたちで、寄り添われたのではないでしょうか。(この姿勢は河合氏が埴谷雄高氏の『死霊』や梶井基次郎氏の「Kの昇天−あるいはKの溺死」を高く評価されていることにも通じるのでは。)
その透徹し、深みのある、臨床家の誠実さに、わたくしは敬慕のおもいを抱きつつ同時に、河合氏に、底無しのまさに底無しのような、畏れ、恐れをも感じます。
作家遠藤周作氏がその生涯を通して向き合ってこられた大きな、それは偉大なと申してもよいような巨大な無意識の光と闇への、敬意と畏れでもあります。
精神科医、ユング派分析家の秋田巌氏は、名著まことに名著の『写楽の深層』(NHKブックス)にて、河合氏との、命の危機を感じるほどの数年間にわたる教育分析の凄みを記していらっしゃいましたね。
capelaurig
が
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小乗仏教の僧の場合、五戒を守っている人もいる。インドのジャイナ教の空衣派は空気を衣としているから、まっぱだかで、口に布を当てている。息を吸った時、誤って小虫を口に入れ殺さぬようにだ。うっかり足を出し、蟻を踏み殺したら一大事。息をするのも歩くのも大変だ。戒律を完全に守れれば確かに聖者だろうが、それで神と向き合えたろうか。五戒に意識を縛られて、生活しているとはいえまい。
王仁三郎は「生存と生活は違う」 という。生活とは、神から与えられた命を完全に活かすことだ。多くの人が生存と生活を混同している。王仁三郎流にいえば、文化生活など、文化風をよそおった生存に過ぎない。大部分の人聞がたくましく生存しているか、弱々しく生存しているかの違いだけで、はたして生活しているといえるかどうかを蚕は繭をつくって蛹となり、孵化して蛾となって子孫を残そうとの本能はあっても、蒸されて絹糸にされようなど思ってもいない。
しかし蚕を殺さなければ人の身を包む絹布はできぬ。人は絹を着なくても生きてはいけよう。生きものの皮をはがさずとも、凍え死なない方法はある。
capelaurig
が
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今年の「大河ドラマ」は面白い。それに関連する本もいくつか読んでみたが面白かった、一つは女性たちに勢いというか活力があるということだ。本屋に行けば女性作家の本はあふれているが、どうも男の作家はそうではないことがすぐにわかる。
日本は外に価値を見いだせなくなっていることがある、日本は歴史的には外に価値を見出し、それを取り入れることを旨としていた、これは文化や価値の問題の産出の問題である、かつては中国文化の生み出した価値(思想制度)などを採り入れ、明治維新後はそのチャンネルを西欧近代に替えた「大河ドラマ」に平安王朝期に活躍した女性たちが取りあげられているのはそんな試みの一つと言える。平安期は中国の唐の交流が薄くなり、中国文化を取り込み移植させる試みの時代から、独自の文化を生みだそうとした時代であるが、そうしたことが生みだされた時代でもあった。女性たちの「物語」が産出されたのはそうした時代と言っていい。
capelaurig
が
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作家の無意識を追求する、魂のドラマが始まります。
「青年の時には人間は肉体で生きる、壮年の時は智恵で生きる、老年とは次の世界に行くための心そのもので生きるとむかし何かで読んだことがある。老いれば老いるほど心は次の世界の投影に敏感になるのだと言うが、今のぼくに展げられたこの醜悪の色の世界も次の世界に行くための通過儀礼であり準備なのだろうか。醜悪世界は、何を教えようとしているのだろうか。それがまったくわからないのだ。ただぼくのかすかな希望は、その醜悪世界をも光が包んでくれるのではないかということだ。」
「その二年半(河合隼雄氏との教育分析)はただただ苦しいのみであった。文字通り死にかけたこともあった。分析が進んでいくと夢が深まっていく。恐ろしい夢を見るようになるのだ。大量の汗とともにうなされつつ飛び起きたことも何度かあった。そのうちの一度など、心臓が本当に止まった、と思った。分析でこのような凄い夢を見て死にかけました。などと言っても先生は『はあ、そうですか』とおっしゃるくらいでさほどの反応はない。周囲の者は『徐々に影が薄くなっていく、大丈夫か』などと言い出す始末である。」
capelaurig
が
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仏教の場合、植物と動物は区別しており、動物を食べるのは畜生道だが、植物を食うのは戒律にふれない。仏教用語に有情とあるが、情は心の意で、いっさいの生類の総称だ。つまり無感覚な草木や山河を非情とか無情というのに対しての言葉だ。しかし命という意味では、動物も植物も同じこと。植物の命は殺してもよいが、動物の命ならいけないという差別を、神はしていない。宇宙を一つの大生命体とみた場合、それぞれがその中でどう役割を果たすかが大事であろう。
戒律を完全に守る医者は嘘をつけない。癌患者には、お釈迦さん流に「病気ではあるが、癌であるかないか、そういうことには答えません」と告げる。少なくとも嘘はつかなくてすむだろう。患者はその返事を癌と同義語ととろうし、そのショックで患者が死ねば、不妄語(ふもうご)戒をまぬがれでも、不殺生戒を犯すことになる。
開けたる 御代の恵みを浴びながら 生存難に苦しめる世なり
生活は 世の人のため国のため 活きて働く人の業なり
衣食住 外に望みのなき人は 生存競争の衡(ちまた)にさまよう
capelaurig
が
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capelaurig
が
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「愛でてめで痴れて」とは、何と、暗い華やぎのある、官能的なことばでございましょうか。
世間一般の「正論」「常識」から未熟さを指さされましたとき、折口信夫氏の文藝にまだ年若いわたくしは、静かに、鼓舞されたものです。それは、かそけくも、勁き楯のような存在でありました。
処方箋に、治療薬は「文学」と書いていただいて、心の危うい季節に、服用したかのような、ありがたさ。
精神科医の中井久夫先生は、患者様に処方するお薬、医師自身で嚥んで確かめてみるとよいと座談会にて話しておられましたが、口に含みましたときの苦さ、あるいは、なんとなくの嚥下のしにくさなど、じかに体感した者のことばで、患者様のお耳からお心へ届き得るのではと。
capelaurig
が
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善悪の問題には、全体と部分といった関係があるようだ。自己にとっての善がその属している集団にかかわれば悪になりうる。一集団にとっての善が、もっと大きな集団に、たとえば国にとっては悪かも知れない。ある国の善が世界全体からみて恐ろしい悪になることだってある。神の目から見ての善がそれぞれの段階で一致して善となればすばらしいが、なかなかできない。
完全な悪などは、人間の分際として、したくてもできない。万類を絶滅させかねない核兵器にしても、持っている者は核抑止力という理屈によりかかり、世界の平和を守る手段としての善だと主張する善悪が時所位によって異なるとしても、せめて最低限の善悪の基準がほしい。それは何か。
「善は天下公共のために処し、悪は一人の私有に所す。正心徳行は善なり不正無行は悪なり」(『霊界物語』一巻、一二章「顕幽一致」)
どんな善であれ、私欲を肥やすためのみに行うのは、真の善とはいえないし、たとえ多少の悪が混じっていても、天下公共のためになる行為は善といわねばならない。
「文王一度怒って天下治まる。怒るもまた可なりというべし」で、ときには怒ることも必要だ。また何もしないのは、かえって悪に通じる。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)などは、せっかく恵まれた天分を活用もせず、行動しないのだから、神の目からはやっぱり悪だ。
capelaurig
が
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文化という概念はどのように規定するかは難しいが、経済や政治的価値とは独自の位相を持ちながら、それを包摂するようなところがある。三島由紀夫は「文化概念としての天皇」と言ったことがある。この場合の文化概念は包括的概念であり、吉本の幻想概念をヒントにしたと思う。三島の文化概念は政治や経済を包摂するものだし、吉本の共同幻想ということも同じである。文化や価値ということを語るには経済的価値や政治的価値とは独自の位相を持つ価値概念があり、ここは検討するに値することだと思う。
capelaurig
が
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海は見えないはずですのに、病院の屋上から、なぜか、小さな青黒い海を、主人公が見る場面があります。
吉行氏の旧制静高時代の仏蘭西語教師、恩師岡田弘氏をモデルとした男性も同作に登場し、主人公が海を見たくなるきっかけとなった洒落たお見舞いの品を病室に持参します。
山に囲まれた、盆地の町の病院の屋上から、海が見えることが、矛盾しながらも、やわらかに、何となく、成立してしまっているところが、甚だ面白く、吉行文学の秘密を垣間見せてくれるようです。
玲瓏な吉行氏のこと、とりわけ昭和58年から刊行された2次全集の校正は、綿密になさったようです。おそらく見過ごしてしまわれたのでしょうし、それで良かったとも、おもわれます。なぜなら、そこから海は絶対に見えなくとも、たしかに、そこに、海は、必要だったのですし、この錯誤が、吉行文学における、海のおもみ、ありがたみを、かえって、淡いけれど綺麗な、透かし絵のように、見せてくれているからです。
capelaurig
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仏の大慈悲とか神の恵み幸いといえども、凡人の欲望と本質的に変わらない。だがその働きに、無限と有限という天地の差がある。凡人は自分の妻子眷属だけを愛して満足し、他をかえりみない。神は、三千世界のいっさいをわが子とし済度しようという大欲望がある。凡人は小楽観者であり、小悲観者で、神は大楽観者であり、大悲観者だ。
天国は大楽大苦、裟婆は小楽小苦の境域である。理趣経に「大貪大痴(だんどんだいち)是三摩地(さんまぢ)。是浄菩提(じょうぼだい)。淫欲是道(いんよくぜどう)」とあるように、世間のさまざまな姿がそのまま深遠な道理をあらわすという、当相即道(とうそうそくどう)の真諦(しんてい)である。
人間の霊魂は本来、これを宇宙大に活動させることのできる天賦的性質を与えられている。だから神俗、浄穢、正邪、善悪などというのも、この素質を十分に発揮して活動するかしないかにつけられた符合にずきない。
天の下 公共のために身をつくす 人は誠の善神にぞありける
私欲(わたくし)の ために力をつくす人は 悪魔の神のかがみとぞなる
公の ために争うひとびとは 神の御眼(みめ)より罪とはならじ
国のため 世人のためといいながら 世の大方は身のためにする
capelaurig
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本当にまたかいなとも思う。言葉を言い換えることで事実隠し、問題を曖昧にする、それを政治的と言えばこれは日本の政治の根本にあるものだ。羊頭狗肉ということだがある。この場合は直ぐにばれるというか、事実が分るのだが、権力のする言葉の言いかえは事実が分かるまでに複雑なところが厄介である。
正当な政治資金の獲得だったといいたいのか。自民党の仲間内では通用しても社会には通用しないし、できないだろう。放射能汚染水を処理水と言い換えて丸め込んだようなことはできない。今度の裏金つくりに舞台となった安倍派のみならす、自民党の面々はこうした金つくりを悪いことだとは思っていないのだろう。どこかやましいことと思っているのだろうとも思う。取得してはいけない金であることの意識張るのだと思う。ロッキード事件で金の問題を堂々と語ろうとした田中角栄のことを想起するのだが、今の自民党の政治家にはそんな度胸もないのだろうと思う。必要悪でも何でもいい。この裏金取得を堂々と語ってみたらどうだ。自分たちの政治活動の中で、金の問題をめぐって感じている問題、あるいは矛盾として意識していることを語ってみたらどうだ。今の政治家たちにそんな度胸も見識もないのだろうが、政治的な誠実さがない。派閥のせいや、死者のせいにし、また会計責任者のせいにして逃げを打つ政治家たちに怒りというよりは哀れみを感じる。
capelaurig
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吉行文学の男たちは、海あるいは夕暮れを見ると、子どものように、歓んだり、安堵したり、恍惚となったり、茫然としたりいたしますね。
「寝台の舟」の「私」、『闇のなかの祝祭』の沼田沼一郎、『砂の上の植物群』の伊木一郎、『夕暮まで』の佐々、もちろん、「白い神経毬」の手術後の主人公も、「海が見たくなった」のでした。
疲弊して、枯渇した心が、クレーの抽象画のような海を求めている姿は、孤独であって、きわめて切実、そこに、不思議な可愛らしさ、さえも感じてしまいます。
海をみつめることは同時に、吉行世界にだけ存在する、小さな、青黒い海から、疲れて猫背になっている男たちもまた、優しみをもって、みつめられることでもありましょう。
capelaurig
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今日「最善」と思ったことが、明日は逆に「非常な悪」だったと気がつく。今日としては今日の最善を行なうよりない。明日になって過ちに気がついたら、悔い改めて正せばいい。悪と知りながら行うことは、もっとも悪い。
善と思うところを行なう日々にも、ふと迷いはあろう。神の目からはたして善かどうか。だからこそ、神の教えを求める必要がある。
「教えとは人の覚(さと)りのおよばざる 天地の神の言葉なりけり」
また大本の『基本宣伝歌』の中にこういう一節がある。
「神が表に現われて、善と悪とを立別ける、この世を造りし神直日、心も広き大直日、ただ何事も人の世は、直日に見直せ開直せ、身の過ちは宣り直せ」
善悪を裁くのは人ではなく、神である。我執(がしゅう)にとらわれて過ごした日々を省み、神の目を恐れるあまり縮(ちぢ)こまっていてはいけないのだ。わが心に見直し聞き直しながら最善と思ったことは勇んで実行し、知らずに犯した罪けがれは神に祈って見直し聞き直していただく。そこに信仰の喜びもわいてくる。
capelaurig
が
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検察は告発を取り上げた形で捜査をやったのだろうが、ここには、安倍の検察への介入という行為に対する反発があったのだ。あるいは安倍はこうした事態を見込んで検察の人事を掌握したかったのかもしれない。いずれにしても安倍政治が権力の内部からも反発を喚起する呈のものだったことがわかる。政治の中の金の問題はいつも不法状態にあって、それを摘発するのは検察である。この検察の動きには国策捜査も含め、この不法状態を権力が利用しようとするとき動きがある。権力の座にある部分が自己の政治的敵を葬るものとしてこれを使うことがある。ときには権力の座にあるものへの権力内部(官僚)から批判として使われることもある。今回は検察(検察に代表される官僚)からの安倍政治に対する反発があったのだと推察される。検察はこの事件で安倍派の批判を徹底的にやろうとしたのではなく、反発程度だったのだから、安倍5人衆の立件なんてやる気はなかったのだし、記載ミスの問題に矮小化してことを収拾した。検察の動きパンドラの箱を開けるようなところもあったのだ。
capelaurig
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須賀氏に関しましては、勤務されていた上智大学の教室での、吉行氏の「樹々は緑か」(全集未収録、『砂の上の植物群』の原型のような短編)をテキストにした、文学の授業の描写が、とても愉しいエッセイ「古いハスの種」がございました(『須賀敦子全集』第3巻に収められております)。そのなかで、須賀氏は、吉行淳之介の文学における、夕暮れどきの登場人物の逡巡、心の揺れに、新しい、宗教の一つのかたちを、見い出しておられ、須賀氏独自の炯眼に、ああ、いいなあと感じ入りました。
1994年7月、世田谷区上野毛の吉行さんのご自宅でのご出棺をお見送りした後、夏の日盛りの坂道を上って、辿り着いた、東急上野毛駅にて、不思議な光景を見ました。
プラットホームにて、俯いたまま、地面を凝視し、幾度も幾度も、同じ場所を往復する男性がいらっしゃいまして、まるで吉行さんの短編「暗い道」(『鞄の中身』所収)で「海は、まだ、遠いですか」などと、不意に尋ねてきた、あの少しく面妖な男性のようでもあり、また、これから荼毘に付される吉行さんを、そのような行為で哀悼する、吉行さんを思慕する方のようでもあり、感じるものがありました。
capelaurig
が
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三千世界の梅の花/一度に開く神の教/聞いて散りて実を結ぶ/日と地の恩を知れ/この世を救ふ生神は/高天原に神集ふ
神が表に現はれて/善と悪とを立別ける/この世を造りし神直日/心も広き大直日/ただ何事も人の世は/直日に見直せ聞直せ/身過ちは宣り直せ
鬼も大蛇も料理する
王仁三郎は、世間で悪人といわれる人でも上手に使った。「毒にならぬものは薬にもならぬ。毒もうまく使えば、たいした働たきをするものである。毒にならぬものは、ただ自分だけのことができるぐらいのものだ。
『聖師さまのそばには悪魔ばかりがついている』とののしるものがあるそうだが、よし悪魔であってもさしっかえないではないか。毒になるものは薬になる。かのいわゆる善人なるものは、ただ自分自身を救うことができれば関の山だが、悪魔が一朝大悟徹底改心すれば、多くの人を救う働きをするものである。
鬼も大蛇も救わにゃならぬこの神業に、尻の穴の小さい、毛ぎらいばかりしていて、他人を悪魔あつかいする人たちが、信仰団体の中にもたくさんあることは嘆かわしいことである。また悪魔を料理しうる人材がいかにもすくないことも、嘆かわしいことの一つである。お人のよいばかりが能ではない、私も本当に骨が折れる。誰か私に代わって、鬼も大蛇も料理するという偉才が早く現われないものかなあ。このワニ口は、鬼や大蛇はまだおろか、どんな骨の固い、腕節(うでっぷし)の強い獣物でも、かみこなすだけの強い歯を持っておるつもりだ。御心配御無用」(『水鏡』「毒と薬」)
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今回の事件はいつも不法状態にある保守政党(自民党)の政治資金づくりの一角を、とりわけ安倍派の政治資金パーティーを舞台とする政治資金作りの活動明るみに出したことなのだが、自民党政治における政治資金の集めの闇の部分というか、裏の分を明るみにしたということだ。安倍派だけのことではない。個人(政治的な首領と目される政治家)がその資金の取得を担ってきたし、田中角栄はその際立ったやり方をした。政治的資金作りのパーティーというのは金権批判のあとに生みだされてものだが、安倍派はそれを巧妙にやってきたのだ。
金づくりは政治的には許されていることだが、裏金つくりは不法で道義的に許されないことである。どのような枠づけをするかで政治資金法という規制がある。政治改革の名で規制が強化されてきた。それは資金の獲得(取得)と、使い方(支出)の双方にわたってのことだが、この規制からは許されない取得と支出が裏金である、裏金つくりは政治資金つくりの根の部分にあり、かつては合法であったもの、法的規制を受けなかったものが規制されるに従って、地下(闇)化して存続してきた。地下化した金の取得と支出が裏金といわれるのだ。この裏金の使いかたは追及されていないが、そこに広がりは見せている。政治活動費の使われ方の追及などである。
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山口瞳氏も、「新聞、週刊誌は、どれもこれもが粋な人、ダンディ、シャイ、お洒落な人と書く。そのたびに冗談じゃないと腹を立て血圧が上り発熱する。馬鹿を言っちゃいけない」と、甚だ憤慨なさって、「吉行さんは飾りっ気がなくて男らしく剛毅木訥の人である。本質がそれだ。」(『江分利満氏の優雅なサヨナラ』新潮社)と書いておられますのも、心に響きます。
岡山生まれの吉行氏は、同郷岡山の、詩人泣菫先生薄田淳介氏、百鬼園先生内田栄造氏、あるいは、木山捷平氏、正宗白鳥氏、柴田錬三郎氏などによく似た、繊細頑固偏屈、岡山文士の血脈に繋がる方とも申せましょうか(私の亡父も、岡山なものですから、穏やかで、頑固偏屈、少しく皮肉屋さんという、微妙な按配が、なんとなく伝わって参ります)
淳之介という名前を命名したのは、祖父の、陽之助命名を一蹴したエイスケ氏であるそうですが、エイスケの中学の先輩でもある詩人、随筆家、泣菫薄田淳介をどこまで意識なさっていたのかなど、興味は尽きないところでございますね。
「歳を取ると、自分は宇野浩二のようになるかもしれない」とは、吉行氏が、河野多恵子氏に語った言葉とのことですが、これも、とても感じのある台詞で、なるほどでございます。
capelaurig
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この先語られる神代史はまさに記紀神話を裏返し、問い直す対抗神話といえる。
『古事記』では、素盞鳴尊は、父伊邪那岐尊に命じられた大海原を治めきれず、ただ手もなく長い年月を泣きわめく。あげくに父神にとがめられ、地上を捨てて荒々しく高天原に上り、姉である司神天照大神に抵抗し、乱暴狼籍を働く。たまりかねて姉神は岩戸にこもり常暗の世を招くに至って、万神は智恵をかたむけ岩戸を聞き、素盞嗚尊を弾劾の上、追放する。何ともあきれはてた悪神なのである。
高天原を追われて出雲国に降った素盞嗚尊は、どうしたことか突如、詩的で英雄的な神に変神する。粗暴で無能で女々しくて何ひとつ取柄のなかった神が、ここでは恐ろしい八岐の大蛇を退治して悪の根を断ち、櫛名田(くしなだ)姫を救け、大蛇の尾から出た名刀を天照大神に献上する。勇気凍々、優れた智謀、果断な処置、自分を疑い追放した姉神へさらりと向ける崇敬の志。
出雲の地に須賀宮を建て、妻を得た喜ぴを
「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」と美しい歌に託す詩情。いったいどちらの素盞鳴尊が実像なのか
素盞鳴の 神世にいでてはたらかば がぜんこの世は浦安の国
伊邪那岐の 神の鼻より現れましし 素盞鳴の神先端の神
先端の 先端をゆく素盞鳴の 神のいでます世とはなりけり
素盞鳴と いう言霊は現代語の 先端を行く百破戦闘よ
蓑笠を つけて国々まわりつつ 霊魂しらべし神ぞとうとき
素盞鳴の 神は神代のエロの神 三十一文字で世をならしましぬ
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ここで大事なことはこの場合の政治活動に必要な金がどのような金かということである。政治活動は生活の金を稼ぐ機会を困難にし、政治活動を続けるための金をどうするかということだった。職業政治家の一種として政治集団が専従活動家に金を提供する方式(職業革命家)があった。これに代わる形で金の問題を解決する道は見つけえずに終わってしまったが、政治活動を続けるに必要な金を規定し、その獲得と支出を規定すべきだと思う。職義革命家のような方式はいいと思わないが、政治活動の具体的な時間などを規定して、献金でこの問題を解決すのはいいと思う。生活の金は自分で稼いで、その残った時間を政治活動にというのは理想だが、そういう政治活動では許されないような場合(専従的な活動が要求される時)はこの方法は解決にはならない。
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「小説(吉行淳之介「樹々は緑か」)がその先、どういう展開になったのかどうか、鮮明な記憶はない。なんとなく終わってしまったような気もするが、私はほとんど泣きふしたいほどの感動につつまれた。そのとき、なんの脈略もなくダンテの神秘の白い薔薇があたまに浮かんだ。
これといった筋もないまま、思いの揺れだけで進行するこの作品の底に重く置かれた性の孤独ーそれはとりもなおさず生の孤独なのだがーに、私はいきなり突き刺された感じだった。古いハスのタネのせいかもしれない。
もしも、いま、宗教といってよいものがあるとすれば、この小説に似ているのではないだろうか。橋のうえで、どうしようかと靄のかかった街を眺めている伊木一郎に、私はかぎりなくなぐさめられていた。」
(「古いハスのタネ」『須賀敦子全集』河出文庫、第3巻598ページ )村松氏は、現代詩の雑誌「ユリイカ」での対談で、吉行作品の中の「厄介」という言葉に、鋭く着眼して、独自の吉行論を語っていらっしゃいます。
そういえば、「厄介」な状況にいる男たちの前に、海は不意に、あらわれましたね。
また、慧眼の村松氏は、『やわらかな約束』の中で、吉行氏が三島由紀夫氏を強く意識していたことを、指摘されました。
三島由紀夫氏と吉行エイスケ氏と椿實氏とを、文士吉行さんは、それはそれは複雑な按配で、常に意識なさっていたのではないでしょうか。
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特選
・虐殺を防げず何がグローバル - 芒野
秀句
・家つぶれ汚染を防ぐ術は無し - 原子力ガリレオ
・死の灰を原発止めて防ぎます - ヤソキリシタン
・自民党不正を防ぐ手だてなし - 水蓮仏
・琉球弧軍事基地化を食い止めよ - 芒野
・核水より世の不条理に汗涙 - ふ64
「活用」
特選
・原発を活用すれば事故が起き - 原子力ガリレオ
秀句
・事故さえも活用します金もうけ - 原子力ガリレオ
・使い捨て奴隷労働修飾す - ふ64
・原発の廃水活用するすべなし - 水蓮仏
・東大の知識を活用国ほろぶ - 水蓮仏
・法律で閣議決定取り締まれ - 芒野
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