三島由紀夫が辞書好きだったことはよく知られています。ふつう辞書は「引く」ものですが、三島にとって辞書は「読む」ものでした。
辞書は言葉の世界で完結しているので、もちろん落とし穴もあります。三島は蛙の鳴き声が分からなかったという話もあります。現実の世界と合わせて理解する必要があるのでしょう。
言葉の世界と同じように、数学の世界も閉じた世界です。お金の世界もそうでしょう。お金は一見すると現実そのもののように受け取られやすく、非常に注意が必要です。
歴史もそうかもしれません。歴史書だけで閉じた世界を作ることは慎むべきでしょう。深く自戒したいものです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
辞書は言葉の世界で完結しているので、もちろん落とし穴もあります。三島は蛙の鳴き声が分からなかったという話もあります。現実の世界と合わせて理解する必要があるのでしょう。
言葉の世界と同じように、数学の世界も閉じた世界です。お金の世界もそうでしょう。お金は一見すると現実そのもののように受け取られやすく、非常に注意が必要です。
歴史もそうかもしれません。歴史書だけで閉じた世界を作ることは慎むべきでしょう。深く自戒したいものです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
コメント
コメント一覧 (4)
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している)
さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこのことから「無自性空」とも呼ばれる。
しかし、空である現象を人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に知覚するということだけではなく、概念や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
この説を、既成概念を離れた真実の世界と、言語や概念によって認識された仮定の世界を、それぞれ第一義諦 (paramārtha satya) と世俗諦 (saṃvṛti-satya) という二つの真理に分ける。言葉では表現できない、この世のありのままの姿は第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは世俗諦であるとする、二諦説と呼ばれる。
無我説を固定化してしまった結果として主体の存在概念が捉えられなくなっていた当時の仏教の思潮[要出典]を、龍樹は「無」と「有(有我説)」の中道である「空」(妙有)の立場から軌道修正した[要出典]ということである。
capelaurig
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沖 縄 に 関 す る 限 り 昭 和 天 皇 に は 「 戦 争 責 任 」 と「 戦 後 責 任 」 が あ る 。 そ れ ら を あ い ま い に は で きな い 。 二 度 と 同 じ 悲 劇 を 繰 り 返 し て は な ら な い から だ 。
九月 七 日 の 一 時 間 半 番 組 、 E T V 特 集「 昭 和 天 皇 は 何 を 語 っ た の か ~ 初 公 開 『 拝 謁 記 』に 迫 る ~ 」 で は 、 「 天 皇 メ ッ セ ー ジ 」 の 説 明 が あっ た 。
な お 、 こ の 「 天 皇 メ ッ セ ー ジ 」 は 、 沖 縄 県 公 文書 館 で も 米 国 国 立 公 文 書 館 か ら 収 集 し た も の とし て 公 開 さ れ 、 ホ ー ム ペ ー ジ で も 見 る こ と が で きる 。 説 明 文 が つ け ら れ て い る が 「 そ の 意 図 や 政 治的 ・ 外 交 的 影 響 に つ い て は な お 論 争 が あ り ま す 」
と 申 し 添 え て あ っ た 。
ま た 、 E T V 特 集 で は 、 「 拝 謁 記 」 の 一 九 五 一年 一 月 二 四 日 の 記 録 も 併 せ て 紹 介 し て い た 。
マ ッ カ ー サ ー が 「 沖 縄 と 小 笠 原 を 日 本 の 領 土 とは し な い 」 と 言 っ た こ と を 昭 和 天 皇 が 聞 い て 、 「 徳川 時 代 以 下 と な る 。 実 質 は 違 っ て も 主 権 だ け は 認め て ほ し い 」 と 言 っ た と い う 内 容 で あ っ た 。
capelaurig
が
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