三島由紀夫の『鏡子の家』は中期の重要な小説ですが、三島はこの作品でニヒリズムを追究しています。第三章では、世界の崩壊を信じるエリート・サラリーマン杉本清一郎のニヒリズムについて、童貞の日本画家・山形夏雄は拳闘選手の深井峻吉に次のように説明を試みます。
あの人は僕たち四人のうちで、誰よりも俗物の世界に住んでいるんだ。だからあの人はどうしてもバランスをとらなければならないんだ。俗物の社会が今ほど劃一的でなくって、ビヤホールでビールの乾杯をしながら合唱するような具合に出来ていた時代には、それとバランスをとり、それに対抗するには、個人主義で事足りただろう。・・でも今はそうは行かないんだ。俗物の社会は大きくなり、機械的になり、劃一的になり、目もくらむほどの巨大な無人工場になってしまった。それに対抗するには、もう個人主義じゃ間に合わなくなったんだ。だからあの人は、ものすごいニヒリズムを持って来たんだ。
この文章は、六十年以上前に書かれたものですが、今でも新鮮に感じられます。夏雄も富士樹海で世界の崩壊を幻視した後、神秘にひかれていくことになります。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
あの人は僕たち四人のうちで、誰よりも俗物の世界に住んでいるんだ。だからあの人はどうしてもバランスをとらなければならないんだ。俗物の社会が今ほど劃一的でなくって、ビヤホールでビールの乾杯をしながら合唱するような具合に出来ていた時代には、それとバランスをとり、それに対抗するには、個人主義で事足りただろう。・・でも今はそうは行かないんだ。俗物の社会は大きくなり、機械的になり、劃一的になり、目もくらむほどの巨大な無人工場になってしまった。それに対抗するには、もう個人主義じゃ間に合わなくなったんだ。だからあの人は、ものすごいニヒリズムを持って来たんだ。
この文章は、六十年以上前に書かれたものですが、今でも新鮮に感じられます。夏雄も富士樹海で世界の崩壊を幻視した後、神秘にひかれていくことになります。
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コメント一覧 (21)
あるいはすでに和宮は、女の直感で不審に思い、真相を究明しようとしていたのかもしれない。明治四、五年ごろのことなのか、あるいは明治十年のことなのか。とにかく、孝明、睦仁を暗殺したグループが和宮に狙いを定めた。明治十年のことであったと思う。おりしも西南戦争で、熾仁親王は大総督としてかつて共に戦った西郷隆盛を追い詰めていく。東京を留守に……。八木清之助は胸騒ぎを感じた。和宮様が危ない。
清之助は、江戸が東京となったころ、故郷へ帰り、隣村から妻・古松をめとり、三女にも恵まれた。そのころから筆の行商を始めた。清之助が最初に中間奉公にあがった宮家とは、おそらく有栖川宮家であろう。有柄川流書道は代々皇族華族に浸透していたから、清之助の商いもその関係で始めたものにちがいない。
筆の行商であれば、どこへ行っても怪しまれず、宮家、華族、政府高官たちへの出入りも自由だ。清之助が維新後も熾仁親王から頼まれて、さまざまな情報収集にあたっていたとすれば、たんなる胸騒ぎではなく、和宮が危ないという情報を得たのかもしれない。
capelaurig
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清之助が現場に着いたときには、すべては終わっていた。悲憤と絶望から自害して果てた和宮の左手首を拾って、清之助は密かに箱根を下った。左手首を彼に託したのは、いまわの際の和宮自身だったかもしれない。
西郷隆盛を城山で(明治十年)自刃させ、歓呼のなかを凱旋した熾仁親王に、和宮の死が待っていた。死の真相は清之助が告げたであろう。衝撃と悲しみから熾仁は割腹を思った。
割腹しなければならない表の事情などまったくないはずなのに、維新の真実を知ったいま、やはり、ただでは死ねなかったのだ。きっと割腹はそのときから覚悟しておられたのだろう。ゆるされて孝明帝や睦仁親王、それに助けることもできなかった和宮の御霊の前に立ちたいがために。
capelaurig
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この度の和宮様御墓発掘の事を知り、さもありなんと心にうなずくものがありましたので、一寸、申しあげてみたくなりました。実は私の祖母は御祐筆《ゆうひつ》として和宮におつかへし、その最期を見とどけた者でございます。明治維新後(祖母の年を逆算しますと、明治四年か五年目と思われます。宮の御逝去は十年との事ですが、一切は岩倉具視が取りしきった事とて、その時まで伏せておいたのかと思はれます)。
岩倉卿と祖母が主になって、小数の供まわりを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあい(多分、浪人共)、宮を木陰か洞穴の様な所に(御駕籠)おかくまいいたし、祖母も薙刀を持って戦いはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追いはらって岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早これまでと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた。やむなく御遺骸を守って東京に帰り、一切は岩倉卿が事を運び、祖母は自分の道具、おかたみの品を船二隻で郷里に帰った由(大方はその後、倉の火事で焼失との事)、その後、和宮の御墓所を拝した時、御墓所の玉石をいただき、後年まで大切にしていたそうです。以上の事は母が幼時に聞き覚えていたと、私に語ったものですが、お手許品も何も入れず、密かに葬って後、発表したものと思われます。戦後、小説に芝居に、和宮の御最期を有栖川宮との思い出をのみ胸に、亡くなられた様な場面をみせているのを心外に思っていたものです。
capelaurig
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和宮には有栖川宮熾仁親王という許婚がいた。この婚約は嘉永四年(一八五一)に孝明天皇自身が内旨したものである。当時、熾仁親王十七歳、和宮六歳。熾仁は、猿が辻の有栖川宮邸に父幟仁親王の書道を習いに通う幼い和宮をつねにいとおしく見つめていた。
capelaurig
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原文は調査団のひとりである鈴木尚氏の著書、『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』の後書きにも掲載されている。
鈴木氏は「達筆で認《したた》められたこの手紙は、教養と自信であふれていた」と記し、さらに「和宮の遺骨には、刃の跡その他の病変部は認められなかった。ただ、...不思議にも左手から先の手骨は遂に発見されなかった」「可能性としては、晩年の和宮に、彼女の手のなくなるような何かが起こったか、あるいは秘されているが、和宮か何かの事件に巻こまれたか、ということになろうか。
capelaurig
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手紙に「お手許品も何も入れず」とあるのも、消えた湿板写真以外に副葬品がなかった事実と不思議に一致している。ちなみにほかの将軍夫人たちは、華やかな副葬品と共に葬られているのだ。公式記録によると、和宮は明治二年一月一八日に東京(江戸)から京都に戻り、明治七年七月に再び京都から東京に移り、明治十年に脚気(かつけ)療養のため箱根塔之沢で湯治中に死去したことになっている。この点で匿名婦人の投書は年代が少し合わないが、和宮の自筆の日記『静寛院宮《せいかんいんのみや》御日記』が明治五年で終わっているのは少し気になるとこである。
capelaurig
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鈴木尚氏のいうように、今となっては事実はわからない。しかし、もしも亀岡の八木家の塔に眠っている「分骨」が和官の左手首だったとすれば、すべての辻棲《つじつま》が合うことも確かなのである。また、匿名婦人の投書がなんらかの事実を伝えているとしても、なぜ明治政府はその事実を隠蔽する必要があったのか、という問題は残る。たしかに、皇女が盗賊に襲われて死亡したというだけでもスキャンダルであり、治安責任者のみならず政府の責任が厳しく問われることになる。しかし、はたしてそれだけなのか。
とくに匿名婦人の投書で、岩倉具視の名前があがっていることが気になる。岩倉は和宮の降嫁を強引に進めた冷血な策謀家であり、しかも後で述べるように孝明天皇密殺謀議の首魁と目される人物なのである。この話の背後には、隠されたもっと深い闇があるのではなかろうか。
capelaurig
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capelaurig
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capelaurig
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和宮が抱いていた写真? それは誰だったのか?左の手首の真相は?増上寺の徳川家霊廟には、二代将軍・秀忠をはじめ、徳川家ゆかりの人々の墓が立ち並ぶ。昭和三三年には、戦禍で荒廃したままになっていたこの墓所の改築工事が行われることになり、東京大学理学部長の小谷政夫氏を代表とする総合調査が行われた。この一連の調査に国立博物館染色室長であった山辺氏は、副葬品調査の立場から参加していた。
二代秀忠、六代家宣、十二代家慶に続いて、同年十二月二十日、静寛院宮親子内親王、つまり皇女和宮の改葬および調査がはじまり、翌三四年二月五日、徳川家十七代当主の家正氏が立ち会って、はじめて柩の蓋が開けられた。
capelaurig
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北に枕してわずかに膝を屈し、両肘を前に伸ばすようにして静かに横たわっている華奢な遺骨、そして切り揃えられた黒髪……。
「まるで遊び疲れた子供がうたた寝しているような」と、立ち会った山辺氏は、印象を語ってくれた。見るべき副葬品こそなかったが、このとき山辺氏は重大な遺品をひとつ発見し、その後、思わぬ不手際からこれを失う羽目になった。和宮の両腕の間にちょうど今が今まで抱きしめていたかのような形で、小さなガラス板が落ちていたのだ。山辺氏は懐中鏡かなにかの裂地の部分が腐朽したものだろうと思い、採取して持ち帰った。
和宮は若宮・熾仁親王の幻影を胸にかき抱き、墓地のなかで安らかに眠っていた!
capelaurig
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明日になったら明るい光の下でよく調べよう。そう思いつつ、山辺氏は明日を楽しみに、その写真板を仕事場の台の上に立てかけておいて、家へ帰った。直垂長袴は武家の柳営(江戸城)出仕の服であるから、はじめは家茂だと思った。しかし、公家も内々に用いていたはずである、しかもだんだん家茂将軍ではなく、和宮の「許嫁」だった有栖川宮熾仁親王なのではないか
capelaurig
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和宮が骨となっても抱きつづけた幻の人はだれだったのか。今となっては永遠の謎であるが、生きているうちには許されなかった恋しい若宮・熾仁親王の幻影を胸にかき抱き、だれにも邪魔されることのない墓地のなかで安らかに眠っていた。心きいた子女のだれかが、あまりにも寂しい宮の遺体にこっそりとしのばせてくれたのであろうか。それにしてもどこまで憎い運命のいたずらだろう。たったひとつの墓のなかの宝物まで和宮から取り上げ、光にさらして無情にも消してしまうとは
capelaurig
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