私は夏に弱いです。晩秋・初冬に生まれたからかもしれません。今も食欲が減退して、ドリンク等でしのいでいる状態です。ブログも夏休みにしようかと思いましたが、そういうわけにも行きません。
東京医師会の会長が発言した通り、コロナに夏休みはありません。コロナウィルスはインフルエンザと異なり、夏にとても強いようです。第一波を超える感染爆発が起こっているのに、安倍晋三は夏休みに入っています。エリザベス女王は国民にメッセージを出したのに、令和の天皇にはその気配がありません。
どうも安倍晋三は国会が嫌いなようです。野党に追及されたり、厳しい質問を受けるのが嫌いなのでしょう。庶民ならわかりますが、そういう人は首相も議員も辞めるべきでしょう。そして今までに犯した数知れない犯罪を刑務所で償うべきです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
東京医師会の会長が発言した通り、コロナに夏休みはありません。コロナウィルスはインフルエンザと異なり、夏にとても強いようです。第一波を超える感染爆発が起こっているのに、安倍晋三は夏休みに入っています。エリザベス女王は国民にメッセージを出したのに、令和の天皇にはその気配がありません。
どうも安倍晋三は国会が嫌いなようです。野党に追及されたり、厳しい質問を受けるのが嫌いなのでしょう。庶民ならわかりますが、そういう人は首相も議員も辞めるべきでしょう。そして今までに犯した数知れない犯罪を刑務所で償うべきです。
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そしてリーダーは、聖師の冠句の師匠、度偏屈烏峰《どへんくつうほう》宗匠朝寝坊閑楽、その娘が聖師の恋人であった八木弁である八木清之助がふさわしい。八・一八の政変の時の志士であり、皇女和宮が江戸から都へ帰る途中に暴漢に暗殺された際、その遺骨の一部(左手首)を郷里亀岡の千代川町拝田に運び、和宮を五輪の塔に祀った…。桂小五郎を禁門の変の時、千代川村拝田の自宅のわら小屋に匿い、但馬、出石へ逃がしたのが志士である八木清之助です。リーダーは四一巻では、ヤスダラ姫館《やかた》の取締であり、年若き綺麗《きれい》な、万事に抜け目なく立ち回る利口な男子で、八木清之助と致します。ヤスダラ姫の忠誠無比な下男であり、セーラン王側近く仕えます。
マンモスは孝明天皇を忍者刀で暗殺したという暗殺説がある伊藤博文に近いと思います。
〈なお大黒主命の地位である大棟梁とは、三十三階級あるフリーメーソン・マッソンの位階であり、十二位が建築の大統梁、二十位が崇高な大棟梁。大黒主命自体は、日本国の支配者。〉
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『婆羅門《ばらもん》教では教主の大黒主さまから一夫多妻主義じゃから、婦人は丸切り機械扱い〈性的奴隷扱い・千代田遊郭?〉にされているようなものだよ。婦人の立場として貞操蹂躙《ていそうじゅうりん》の訴えでもする権利がなくてはたまらないからだよ。しかし一夫一婦の道を奉ずる三五《あなない》教では妻の方から貴様の女房のように夫を捨て他の男と情を通じたり、夫を盲目にしよった時は、男だって矢っ張り貞操を蹂躙された事になるのだ。男の方からその不貞腐《ふてくさ》れの女房に対して、貞操蹂躙の訴訟を提起するのは当然だ。女ばかりに貞操蹂躙の訴訟権があるのは未来の廿(二十)世紀という世の中にて行われる制度だ。しかし婆羅門教は文明的進歩的宗教だと見えて、三十五万年も凡《すべ》ての規則ややり方が進歩しているわい。アハヽヽヽヽ』
『そうすると、鬼雲姫様は永らく夫の大黒主様と苦労艱難《かんなん》して、あこまでバラモンの基礎を築き上げ、ヤレもう楽じゃといふ間際になって、大黒主さまから追い出され、その後へ立派な若い石生能姫さまを女房に入れられて、自分は年を老ってから、アンナ残酷な目に合されていながら、なぜ貞操蹂躙の訴訟を提起なさらないのだらうかなア』
capelaurig
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入那の国〈京都〉のセーラン王の館は東西南に広き沼を囲らし、北の一方のみ原野につづいている。この国では最も風景好くかつ要害よき地点を選み王の館が築かれてある。セーラン王は早朝より梵自在天《ぼんじざいてん》の祀りたる神殿に昇りて祈願を凝らし、終って吾居間に帰り、ドッカと坐して双手を組み思案にくれながら独言、
『あゝ世の中は思うように行かないものだなア。忠誠無比の左守の司クーリンスの娘和宮を幼少の頃から父王の命により許嫁と定まっていたものを、大黒主の神様に媚びへつらう右守の司カールチン〈岩倉具視〉の勢力日に月に増大し、ほとんど吾をなきものの如くに扱い、和宮をテルマン〈江戸〉国の毘舎シャール〈徳川家茂〉の女房に追いやり、わが最も嫌う所の右守の司〈岩倉具視〉が娘サマリー〈堀河紀子〉姫を后に致したとは、実に下、上を犯すとは言ひながら無暴の極まりだ。あゝ和宮は今頃はどうしているだろう。一度姫に会って幼少からの吾心の底を打明かし、ユックリと物語って見たいものだが、吾は刹帝利《せっていり》〈『霊界物語』五四巻では、ビクトリア王となっており、ビクトリアはインドではなく、真実は中国を示すが、泰氏が日本の歴史を中国の歴史に置き換えたという聖師の論拠では、古代日本の支配者とも読める〉の王族、和宮は最早毘舎の女房とまでなり下った以上は到底この世では面会もかなうまい。
capelaurig
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『合点の行かぬその方の言葉、何かお気に障ったかなア』『いえいえ、決して決して気にさわるような事はござりませぬ。何と申しても誠忠無比の左守の司様のお娘、許嫁のおありなすった和宮様を悪逆無道の吾父カールチン〈岩倉具視〉が放逐して、貴方のお気に入らない妾を后に納れられたのですから、貴方の日夜の御不快は無理もござりませぬ。最早今日となっては妾もやりきれませぬ。互に愛のない、諒解のない夫婦位不幸なものはござりませぬから、妾は何とおっしやいましても、今日限りお暇を頂き父の館へ下ります』
capelaurig
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『はい、貴方のお嫌いな妾がお側に仕えていましては、かえって貴方のお気を揉ませ苦しめます道理、妾の如き卑しき身分の者がヤスダラ姫の地位を奪い、この様な地位に置かれるのは実に心苦しうござります。提灯に釣鐘、月にすっぽんの配偶も同様、互に苦情の出ない間に別れさして下さいましたならば、妾は何ほど幸福だか知れませぬ。今貴方の独言を聞くとはなしに承まわれば、誠忠無比の左守の司の娘、和宮姫を吾父の岩倉具視が放逐し、気に入らぬ私、サマリー姫〈堀河紀子〉を后に納れたのは残念だとおっしゃったではございませぬか。何と云ってもお隠しなされても、もう駄目でござります。妾はこれから父の家に帰り、父より大黒主様へ伺いを立て、その上で妾の身の振り方を定めて頂きますから、何卒これまでの縁と思って下さいませ』と早立上がろうとするを王は狼狽《あわ》てて姫の袖を引っ掴み、『そう短気を起すものではない。その方は私を困らそうと致すのだな』
『いえいえ、お困らし申す所か、貴方がお気楽におなり遊ばすようにと気をもんでいるのでござります。左様なら、御免下さいませ』
と王の手を振り放し、怒りの血相物凄く父の館へ指して一目散に帰り行く。
capelaurig
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『王様、今日はお早うございます。ただ今登城の際、館の者の噂を聞けば、堀河紀子様は何か王様と争いでもなさったと見え、血相変えて数多の家来どもの御引き留申すのも聞かず、蹴倒しなぎ払い一目散に岩倉具視の館へ帰られたさうでございます。ともかく七八人の家来を岩倉具視の館へ差向け、姫を迎え帰るべく取扱っておきましたが、一体如何な事をおっしゃったのでござりますか。右守の司、岩倉具視は大黒主様の大変なお気に入り、王様も左守の司もほとんど眼中にないと云う旭日昇天の勢でござりますれば、今、紀子姫の機嫌を損じ、具視様の立腹を招こうものなら、たちまち貴方の御身辺も危うござりましょう。誠に困った事ができました』
capelaurig
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『王様、何とした、つまらぬ事をおっしゃるのですか。貴方が左様なお心でどうしてこの入那の国〈京都〉が治まりましょうぞ。少しは気を強くもって下さらないと吾々左守の司の働きができないじゃありませぬか。王様あっての左守の司ではござりませぬか』
『もうこうなる以上は何と云っても仕方がない。紀子姫が帰った以上は、きっと岩倉具視は日頃の陰謀を遂げるは今この時と、大黒主の力を借って遂には吾地位を奪い、入那の国を掌握する事になるだろう。どうなりゆくも運命だと余は諦めている』
『右守の司〈右大臣〉岩倉具視がこの頃の傍若無人の振舞いは怪しからぬ、とは云いながら、もとを糺せば王様が鬼雲姫様の御退隠の件に就いて御意見を遊ばしたのが原因となり、王様は鬼熊別〈これも有栖川宮熾仁親王の投影か〉の腹心の者と睨まれ給うたのが起りでございます。悪人の覇ばる世の中、阿諛諂侫《あゆてんねい》の徒は日に月に勢力を張り天下に横行闊歩《おうこうかっぽ》し、至誠忠直の士は圧迫される世の中ですから、少しは王様もその間の消息をお考え遊ばし、社交的の頭脳になつて頂かねばなりますまい。クーリンスは心に染まぬ事とは知りながら、お家のためを思い剛直一途の貴方様に対し涙を呑んで御忠告を申上げます』
capelaurig
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〈国は奪われるとも王位を剥《は》がれるとも、たとえ吾生命は奪はれるとも…は史実と照らすと切実〉
『だと申してこのままに打ちやり置けば大変な事になります』
『余は昨夜の夢に、北光彦《きたてるひこ》の神と云う白髪異様の神人〈松岡神使と同表現、小松林命と同神か〉顕われ来り、諭し給うよう「汝の一身を始め入那の国家は実に危急存亡の秋に瀕せり、これを救うに一つの道がある。それは外でもない、鬼熊別の神司の妻子なる黄金姫、清照姫(和宮の替玉・南部郁子?)は、今や三五教の神力無双の宣伝使となっている。彼はハルナの都〈東京〉へ言霊戦を開始すべく出陣の途中、この入那の国〈京都〉を通過すべければ、彼を岩倉具視の部下の捕えぬ間に汝が部下に捜索せしめ、密かにこの館に誘い帰りなば、岩倉具視や堀河紀子の勢力いかに強くとも、到底敵すべからず。今や大黒主は鬼春別、大足別の両将をして大部隊の軍卒を引率せしめ出陣したる後なれば、今日の大黒主の勢力は前日の如くならず、早く部下の忠誠なる人物を選み、母娘両人の行手を擁し、この王城にお立寄りを願ふべし」との事であった。クーリンス、夢であったか現《うつつ》であったか、余には判然と分らないが、きつとこれは真実であらうと思う。其方はどう思われるか』
capelaurig
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『しからばクーリンス殿、一時も早くその用意を頼む』
『はい』と答えてクーリンスは恭《うやうや》しく暇を告げ一目散に吾家を指して帰り行く。
王はまた独り黙然として両手を組み、少しく光明にふれたような気分にもなっていた。
『昨夜の夢が実現したならば自分もまたこの苦が逃れられるであろう。うまく行けば再び和宮と添うことが出来るかも知れない』などと、頼りない事を思い浮かべながら色々と考え込んでいる。そこへ足音高く岩倉具視の一の家来と聞えたるユーフテスは、虎の威をかる狐の勢、王者も殆ど眼中になき有様にて、案内もなく襖をサラリと引き開け、
『王様、只今具視様のお使で参りましたが、貴方様は紀子様を虐待遊ばし、王者の身としてあるまじき乱暴をお働きなさったそうでござりますな。吾主人具視様は表向き貴方様の御家来なり、また堀河紀子様の父親なれば、王様にとってはお父様も同然でござりましょう。親として子の不埒を、何ほど王者なりとて戒められずにはおれないと云って、ハルナの都〈東京〉の大黒主様の御許に早馬使をお立てになりました。何分のお沙汰』あるまで別館に行つて御謹慎をなさりませ』
と横柄《おうへい》面に打ちつけるように云う。その無礼さ加減、言語に絶した振舞である。
capelaurig
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と声荒らげてグッと睨めつけ叱りつければ、ユーフテスは案に相違の王の権幕に縮み上り、頭をガシガシ掻きつつ、狼に出会うた痩犬のやうに尾を垂れ、影まで薄くなつてショビショビとして帰って行く。
『アハヽヽヽヽ、右守の司の悪人に仕えるユーフテス奴、余が一喝《かつ》に遇《あ》うて悄気《しょげ》返り、初めの勢い何処《どこ》へやら、スゴスゴ帰り行くその有様、ほんに悪といふものはマサカの時になれば弱いものだな、アハヽヽヽヽ』
と思わず知らず高笑いしている。そこへスタスタと足早に這入って来たのは和宮の妹セーリス姫なり。
歴史を紐解けば、文久二年(一八六二)、五月一五日、カールチンとしての岩倉具視は左近衛権中将に転任しますが、八月二○日、左近衛権中将を辞任し蟄居します。同年、九月一日、私がサマリー姫と見る堀河紀子は、和宮降嫁を進めたという理由で、辞職・蟄居となり、文久三年に出家します。
capelaurig
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『あゝそうか。事さえ分れば女でも結構だ。時にセーリス姫、その方はユーフテスに今会わなかったか』
『ハイ、只今お廊下で会いました。大変な悄気《しょげ》方で帰って参りました。あの男は実に好かない人物でござります。毎日日々妾の許へ艶書を送り、それはそれは嫌らしい事を云って参ります。本当に困った事でござります』
『ホー、そりや都合のいい事だ。これセーリス姫、近う近う』
と手招きすれば、セーリス姫は「はい」と答えて王の側近くににじり寄る。王は姫の耳に口寄せ何事か囁けば、セーリス姫はニッコと笑つて打頷《うなづ》きこの場を立つて帰り行く。
capelaurig
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●孝明天皇を暗殺したのは伊藤博文か 『霊界物語41巻より推定』
~そして皮袋に二三合ばかりの水を入れておき、ソツと敷居に流し、戸をあける時、音をさせぬ様にして暗夜に忍び込み、敵情を視察するのが忍術使の職務であつた。そして敵の寝所に忍び入った時は、頭の方から進みよるのである。万一足の方から進む際、敵が目をさまし、起上る途端に其姿を認められる事を恐るるからである。頭の方から進む時は、敵が驚いて起上るを、後から短刀にて切りつくるのに最も便宜なからである。~クーリンスはセーラン王(孝明天皇)に面会し、種々と右守の司のカールチン(岩倉具視)が陰謀に備うべく、密議を凝らし、初夜頃漸く吾家に帰り、草疲れ果てて、グツと寝に就いていた。そこへ塀を乗り越え黒装束となってやって来たのがマンモスであつた。彼は型の如くクーリンスの寝室に忍び入り、鼠を放つて見た。第二回目に放つた鼠はうろたへて襖の破れ穴から隣の宿直役のウヰルスの間へ飛込んだ。ウヰルスはウツラ ウツラ眠っていたが、飛込んだ鼠が自分の顔を走つたので、フッと目をさまし、起出でて見れば合点の行かぬ鼠の行動、こりやキツト何者かが忍び入つたに相違ない……と、左守の司の寝室に耳をすまして窺つてゐた。そこへノツソリと黒装束で現はれた男、「ヤア」と一声、左守の司を頭の方から切りつけむとする。この声に驚き、矢庭に襖を押開け、夜具を抱いた儘、曲者を捩伏せ、短刀を奪い取り、直に後手に縛り上げて了っていいようなた。『霊界物語41巻』「7章忍術使」より
capelaurig
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『貴方は寡欲恬淡な、チツとも欲のないお方と云つたのですよ。凡て世の中は捉まへやうとすれば、捉へられぬものです。旦那様は万事にかけて抜け目なく、よくない方だから王様の方から昨日の様にあんな結構なことを仰有るので厶りますわい。これを思えば時節は待たねばならぬものですな。(都々逸)「時世時節の力と云へど、よくないお方が王となる」あゝヨイトセ ヨイトセぢや。おい岩倉具視、貴様も一つ前祝に歌はぬかい。大蛇の子のやうにグイグイ飲んでばかり居やがつて、何の態だ。チとコケコーでも唄つたら如何だい、アーン』
マンモス (伊藤博文)は鹿爪らしく、
『飲む時には飲む、遊ぶ時には遊ぶ。然り而うして聊か以て唄ふべき時には唄ふのだ。俺も若い時や、千軍万馬の中を往来して来た英雄豪傑……ではない、其英雄豪傑の……伝記を読んで、チツとばかり感化力を養ふ……たと云ふチーチヤーさまだからな、エーン。貴様の如き燕雀《えんじゃく》輩の敢て窺知《きゅうち》する所に非ずだ。(詩吟)「月は中空に皎々として輝き渡り、(伊藤博文)は悠々として酒杯に浸る。月影映す杯洗の中、絶世の美人吾傍に在り」とは如何だ、うまいだろう。俺の詩歌は而も特別誂《あつら》えだからなア、エーン』
『貴様の詩歌はカイローカイローと紅葉林《もみじばやし》で四足の女房を呼ぶ先生の声によく似ているわ。オツとそのカイローで思い出した、俺も早くセーチヤンと偕老同穴《かいろうどうけつ》の契《ちぎり》を結びたいものだ。貴様のようなシヤツチもない詩歌を呻《うな》ると気分が悪うなってくるわい。シカのシは死人の死だろうよ。もつと生命のある歌を歌つたら如何だい、アーン』『霊界物語41巻19章当て飲み』
capelaurig
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すみませんが、珍しく当方に原稿依頼が来まして、下地の文章を流しますので、出来ればご批判願います。宜しくお願い申し上げます。
capelaurig
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足利尊氏は綾部生まれ、南朝天皇を封じ逆賊とされたが、創建した天龍寺は後醍醐天皇を祀る。開祖の母は足利尊氏の系統を引いている(聖師談)。
後醍醐天皇(南朝)は鎌倉幕府を倒しますが、天皇親政(建武の中興)がままならず、足利尊氏に追放され、1339年失意の内に崩御し、その怨念と悔根は、後の世に 南北朝の争いを残します。天皇親政の革命は建武の中興と明治維新だけで、明治天皇による南朝正統の勅裁はご自身の崩御前年に出されます。1861年岩倉具視は和宮を将軍家茂へ降嫁させたが、幕府へ売ったと裏目に出て1862年孝明天皇(北朝)から蟄居を命じられ、保身の為、倒幕派に身を置き、孝明天皇の排除を画策した。岩倉には動機があった。 宮中には岩倉の命を受けて忠実に動く女官(堀川紀子、中御門良子)がいた。当時の人々が薩長と手を結んだ岩倉による暗殺とみたのは当然である。
孝明天皇と将軍家茂による平和の改革を破り、戊辰戦争を起こしたのは、岩倉/桂/西郷/大久保の仕業である。倒幕派の政治的野心が岩倉を中心にまとまり、頑強な攘夷論者の孝明天皇と会津/弱体化する幕府との間で天皇の奪い合いが生じた。戊辰戦争の錦の御旗はそれを象徴している。
capelaurig
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禁門の変(1864年)から2年の間に、2度の長州征伐失敗後、薩長による倒幕の流れは、家茂/孝明天皇の不可解な死去と共に、海外の新聞で報道される。 孝明天皇は毒または手槍りで刺された説であり、長州ファイブで英国で化学を学んだ伊藤博文が止めを刺した暗殺者として有力である。伊藤博文は上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させる。薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。
二人を始末して、薩摩屋敷に待機していた大室を宮中に入れ、有栖川宮は倒幕を命じる。 南朝にした西郷は目的を達し、江戸開城で勝海舟と妥協する。 睦仁親王は1853年11月3日(翌年ぺリ-が来航)孝明天皇の第2皇子として誕生、母は中山忠能の娘、慶子である。
病弱な幼少で13歳の年、禁門の変で御所は被弾し、卒倒失神される。坂本龍馬の斡旋で有栖川宮(北朝)が教育係となり、元服を迎える。1866年12月孝明天皇が崩御、翌年15歳で122代天皇の座に就く。中山忠能は長州に尽力した為、謹慎中で睦仁親王は複雑な心境であったとされる。徳川安泰の時代ではなく、天皇の役割は国政を左右し、政治の主導権争いになる。宮中は無秩序になり猿が出没して警固が充分ではなかった。1867年7月睦仁親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。
capelaurig
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**明治天皇に写真がない訳**
明治天皇は肖像画ばかりで写真がない、明治44年南朝正統の勅裁、明治神宮の昭憲皇太后の石碑、そして大正天皇に子種がない、そして西園寺公望が昭和天皇に上奏し、昭和10年6月の御前会議、12月8日昭和天皇の命令による大本弾圧で信者30余名の殉教者を出す、秀吉による26聖人殉教のカトリック処刑と並ぶ。天皇としての自信をつけ、翌昭和11年2.26で<朕が先頭に立ち、鎮圧する>と豪語、北一輝は<若殿に兜とられて負けいくさ>の辞世を残す。司馬遼太郎は中国に勝てない戦力で米国に宣戦と批判、東条との親密さは異常だった事は良く知られる。
霊界物語67巻浮島の怪猫で、アケハル(明治)の岩が浮島となり、われよし・つよいものがちの天皇制ファシズムの崩壊を予言している寓話であり、主神信仰への要諦が説かれる。偽天皇とは、大室寅之祐とか昭和天皇が西園寺八郎の子であるなど、戦前不敬罪として日本人にタブー視された盲点です。出口王仁三郎は有栖川宮熾仁親王のご落胤で正当な北朝の天皇でした。
憲法の象徴天皇制は偽天皇であれば、削除し本来の共和制に移行すべきです。
capelaurig
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capelaurig
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男の子(高校3年生)が居ます。直接眺めると、孝明天皇そっくりです。血統は繋がっていますね。
capelaurig
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capelaurig
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NHKスペシャル<日本人と天皇>(4月30日放送)で、神武天皇以来125代の天皇の半分は側室の子。この400年、明生/昭和/平成以外は、みな側室の子である。万世一系・一君万民とは名ばかりで、本来の天皇の役割とはほど遠い。
日本人の想念(魂の活動)の思いが清まらず、主神の思い、肝心の所がわからない。信仰的想念とは、人の悲しみ苦しみを受け止め、主神・経典に根ざす事が急務である。
皇統を廃して王仁三郎を天皇にするという自白を強要した大本弾圧で教団は破壊され、御自身も6年8ヶ月独房での拘禁、この時点で天皇制は潰えた。昨年の生前退位で御厨貴は<中身はともかく、イベント化して興味を引くことで、天皇制を維持している>と述べている。ポツダム宣言前後の国体維持の暗躍、対ソ戦略での天皇利用したアメリカは、反動国家主義を復活させた。国祖国常立尊の大本神話(主神信仰)と天岩戸開きの天皇制神話(現人神信仰)とは異質のものである。大本弾圧事件の主犯を取り押さえるしかない。
<以上です。>
capelaurig
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capelaurig
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吉田義昭・及川和哉編著『図説盛岡四百年下巻〔Ⅱ〕』(郷土文化研究会、平成四年)にまったく同じ写真が掲載されており、この洋装姿の女性は旧南部藩に関係した女性であることがわかった。さらに、大久保利謙(恒駐 大久保利通の孫)-監修『旧皇族・華族秘蔵アルバム 日本の肖像第一巻』の「盛岡・南部家」の四十一頁左下の三人の集合写真に同じ顔の同一人物を発見した。この洋装姿の女性は、盛岡藩第十五代・南部利恭《としゆき》(最後の盛岡藩主)の姉、南部郁子という女性だったのである。彼女は後に華頂宮博経《ひろつね》親王妃になっている。
面白いことに、この華頂宮博経親王妃・郁子の写真も、東京の清水東谷の写真館で撮影されていた。従来、和宮として紹介されてきた写真は、大垂髪姿も洋装姿もそれぞれ和宮ではないものの、同じ写真師・清水東谷の写真館で撮影されていたのだ
capelaurig
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「まず、柳澤明子は明治三五年(一九〇二)五六歳で亡くなっているわけだから、当たり前だが当然、この間に撮影された写真ということになる。次にこの写真を撮影した写真師・清水東谷について調べてみると、清水東谷は明治三七年(一九〇四)に亡くなっているので、これは問題ないけれど、実際は明治十五年(一八八二)に清水東谷は養子の鈴木東谷に家業を譲っており、しかも鈴木東谷は横浜の太田町十一番地で開業していることから、問題の写真は明治十五年(一八八二)以前に清水東谷が東京で撮影した可能性が高い。
また、柳澤明子の夫・柳澤保申が明治十七年(一八八四)に伯爵となり、明治十八年(一八八五)三月には久能山東照宮宮司となっていることを考慮すれば、ざっくり明治十五年(一八八二)頃に撮影された写真という仮説が考えられる。
(柳澤保申は明治二六年(一八九三)十月二日、郡山旧邸内で死去。享年四八歳。)
明治十五年(一八八二)といえば、柳澤明子三六歳の時ということになる。この写真が柳澤明子三六歳の時の写真というのは、納得できるが、少なくとも和宮の写真と考えることよりはましのような気がする。
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柳澤明子の夫君、柳澤保申《やすのぶ》、松平時之助保申は大和郡山藩の第六代(最後)の藩主(郡山藩柳澤家七代)ですが、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争では新政府に協力して東北戦争に参加し、主に後方の輜重《しちょう》部隊の役割を果たしています。このとき、松平姓を捨てて柳澤姓に戻しています。明治二年(一八六九)六月十七日、版籍奉還により知藩事となり、明治四年(一八七一)の廃藩置県で免官されました。明治十七年(一八八四)に伯爵となります。柳澤家は譜代でありながら、松平性の名乗りを許されていました。甲府から大和郡山への移封に際しても減俸されることもなく、将軍の寵臣であったが没落せず、従四位下の官位と領地を保持したまま幕末まで存続した大名家です。
江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名柳澤吉保をはじめ、将軍の寵臣の係累でありながら柳澤家が没落しなかった。
柳澤明子には、皇女和宮との重要な共通点がありました。和宮の生年月日は弘化三年閏五月十日(一八四六年七月三日)、柳澤明子は一八四六年生まれ、和宮と同じ生年で、ともに貴族の出自で皇室の文化と一体となることができ、自然に振る舞える。和宮の替玉にはまさにふさわしいわけです。柳沢保申は明子の旦那ですが。保申は一条家の娘、明子を和宮の代役に一時的にも仕立て上げた功績なのかわかりませんが、明治十七年には伯爵になり、明治十八年には徳川家康を祭る東照宮の宮司になっている。一条家・徳川家の秘密を守るために必要なことだったのでしょう。
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柳澤明子が常時、和宮として振る舞っていたとは思えません。和宮が生きていることを証明するために、写真に和宮として撮影されるなどの条件で、限られた役割をしていたのではないか。何しろ、柳澤保申夫人という立場があるはず。写真ももっと古いものもあったのではないか。
和宮は明治二年以降も京都に在住し、明治七年(一八七四)七月に東京に戻り、麻布市兵衛町(現・港区六本木一丁目)にある元八戸藩主南部信順《のぶゆき》の屋敷に居住し、皇族や天璋院《てんしょういん》・家達《いえさと》〈徳川宗家十六代当主〉をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになります。しかしこの頃より脚気を患い、明治十年(一八七七)八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたという証言があります。程なく明治十年九月二日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去した。三二歳という若さでした。当初、政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われました。墓所は東京都港区の増上寺。
capelaurig
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顕現にも繋がるのではないかと思っています。有栖川宮熾仁の記録が少なく、和宮ばかりですが、その内、出てくると期待してます。
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