結局、ブログは1週休んでしまいました。個人的な事情によります。自分の体調もありますが、両親が急に老いて、今までの生活を続けられなくなりました。
現代の文化は、老いを排除した若者文化です。これは著しく偏った文化だと思われます。
手塚治虫の『ブラック・ジャック』を例にとると、主人公自身の老いた姿は描かれていません。年老いたブラック・ジャックは想像出来ません。この漫画の連載が突然終わってしまったのはいろいろな理由があるのでしょうが、それが理由の一つではなかったかと思われます。
病がなくとも、老いと死は確実にやってきます。老いを中心にしなくてもよいですが、老いを含んだ文化が完全な文化だと思われます。『豊饒の海』で本多繁邦の醜い老いを描いた三島由紀夫も、綾倉聡子の老いは美しく描きました。男が美しく老いることは出来るでしょうか。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
現代の文化は、老いを排除した若者文化です。これは著しく偏った文化だと思われます。
手塚治虫の『ブラック・ジャック』を例にとると、主人公自身の老いた姿は描かれていません。年老いたブラック・ジャックは想像出来ません。この漫画の連載が突然終わってしまったのはいろいろな理由があるのでしょうが、それが理由の一つではなかったかと思われます。
病がなくとも、老いと死は確実にやってきます。老いを中心にしなくてもよいですが、老いを含んだ文化が完全な文化だと思われます。『豊饒の海』で本多繁邦の醜い老いを描いた三島由紀夫も、綾倉聡子の老いは美しく描きました。男が美しく老いることは出来るでしょうか。
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コメント
コメント一覧 (18)
capelaurig
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いずれにせよ、西南戦争を政府は乗り切ったことで、過去の時代の象徴、和宮の存在は名目的にも必要がなくなった。十月十日に熾仁親王は、陸軍大将および元老院議長に任命されます。西南戦争の論功褒賞、和宮の真実を秘せということか。できるわけない。しかし秘さないけにはいかない。
柳澤明子が皇女和宮の役を果たしえたのは、明治二年から京都滞在の数年でしょう。柳澤明子の写真が撮影された場所は、東京の清水東谷写真館ですから、案外明子自身は東京に住居をしていたのかもしれません。しかしできれば明治七年から十年まで東京に在住するもう一人の、替玉としての皇女和宮が必要となるのです。
capelaurig
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明治天皇は明治元年十月十三日の一度目の東京行幸で江戸城に入城してこれを東京城と改称しました。その後一度京都に戻り、明治二年の二度目の東幸以降は東京に留まりました。大室寅之祐明治天皇は、天皇の正体を見破れる和宮との面会を行うことはできない。大室寅之祐が東京に留まるならば、和宮は京都の地に留まられなければならなかった。
昭憲皇太后〈嘉永二年(一八四九)~大正三年(一九一四)は睦仁親王を含む明治天皇の皇后です。旧名は一条勝《いちじょうまさ》子といい、従一位左大臣一条忠香《ただか》の三女です。徳川慶喜に嫁いだ美賀子とも義理の姉妹となります。
capelaurig
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皇女和宮が暗殺されたと推定される時期は、「調査団宛の手紙」を出した老婆の記述から推定すると、和宮が入京する前の明治二年一月二十日頃。
明治元年十二月二六日(一八六九年二月七日)、昭憲皇太后勝子は美子《はるこ》と改名します。同月二八日(一八六九年二月九日)入内《じゅだい》して女御の宣下を蒙《こおむ》り、即日皇后に立てられました。明治二年一月二十日(旧歴)頃、皇女和宮が暗殺されたのならば、美子が皇后に立てられてすぐに皇女和宮は亡くなったことになります。和宮が無事に御所につくと、明治天皇の女御勝子にお目通りすることになります。勝子は殺された睦仁親王の女御、だとして大室寅之助明治天皇は先帝睦仁の妃を抱くでしょうか。王仁三郎は『霊界物語41巻』上で追い出したと示唆しているのですが。一条勝子は殺されて、大室寅之佑好みの洋装がよく似合う一条美子が皇后として立てられる。和宮は美子が替玉であることをすぐ見抜くので、京都に到着する明治二年元旦までに宮中も支配する岩倉具視にとって和宮になくなってもらう必要があった。『霊界物語41巻』を読む限り和宮を本当に愛し、邪恋し、熾仁親王から取り上げようとしたのが岩倉具視なのです。韓国語ではミオというのですが、殺したいほど憎んでいる。殺したいほど愛しているという心境だったのです。
capelaurig
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徳川貞子との婚姻の有栖川宮の逡巡《しゅんじゅん》の背景には、徳川家茂の夫人となり、かつ未亡人となった和宮親子内親王と結婚したいという強い意志があったからと考えています。
熾仁親王が東征に出発したのは、明治元年(慶応四年)(一八六八)二月十五日。御所御学問所で明治天皇に謁見《えっけん》、節刀と錦旗《きんさ》を賜り東征に出発します。そして京都に入ったのが旧歴明治元年(一八六八)十月二十五日。明治天皇の京都御所での即位の御大礼は八月二七日ですので、即位大礼の後となります。
翌明治二年(一八六九)、一月十八日に和宮一行は東海道を京都へと向かい、二月三日に京都へ帰着。当方の推理では帰洛前に暗殺された?のですが。和宮がこの時を帰洛の時期と選んだのは、恋する有栖川宮熾仁親王が十月二五日に帰洛したという情報が入ったからではないでしょうか。
capelaurig
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徳川斉昭の十一女、徳川貞子は兄慶喜の養女です。徳川慶喜は朝敵であり、貞子は慶喜との縁組を解消して婚儀に臨んだとされ、ようやく熾仁親王が徳川斉昭の娘貞子と再度婚約したのは、明治二年(一八六九)九月十九日のことでした。
明治二年一月二十日頃に皇女和宮が暗殺され、有栖川宮熾仁親王が有栖川宮家の侍医であった中村孝道の縁で、少なくとも明治二年二月二十一日から十月二十七日までの七十回近く、出口王仁三郎の母、上田よねと逢瀬《おうせ》を重ねたようです。
和宮親子内親王の夫君、徳川家茂の暗殺についての山岡荘八の推理を松重楊江《ようこう》『二人で一人の明治天皇』たま出版から見てみます。
第二次長州征伐の最中、慶喜、慶永(よしなが)の命を受けた宮中の医者によって将軍家茂が毒殺されたが、この事件の背後には、幕府に反抗する長州とこれを支援する薩摩、すなわち薩長同盟があった。
capelaurig
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「私が調べたところによると、(家茂が)息をひきとるとき、御小姓《こしょう》組番頭の蜷川相模守《にながわさがみのかみ》(元蜷川京都府知事の祖父にあたる)が、ただ独りで側に付き添っていた。この人が漏らしているだけで、あとは極秘になっていて、病気で亡くなったことになってはいるが、将軍は亡くなった七月二十日の四、五日くらい前に、風邪《かぜ》気味でふせっていた。そこへ『宮中からさし回された』といって医者が訪ねてきた。名前ははっきりしていない。
孝明天皇と将軍とは、和宮が降嫁されてから非常に仲が良かったから、何も疑わずに、この医者を居間へ通した。脈を診て、「いや、大したことはありません。ではこの薬を召し上がってください」といって薬を調合して置いて帰った。それを飲んで、それから三、四日目に亡くなっているわけである。
将軍の胸のあたりに紫の斑点がでて、大変苦しがって、その蜷川という御小姓組番頭に、骨が折れるほどしがみついたまま息を引き取った。この蜷川相模守という人は、五千石の旗本であるが、この人がずっと遺体に付き添って、江戸まで持って帰った。そしてこの死を発表したのは、一月たった八月二十日になってからだ」※カッコ内は筆者松重氏補筆。
capelaurig
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吉田松陰が安政の大獄で処刑されたあと、水戸藩の過激派は密かに長州藩を援《たす》けようとし、藤田小四郎は長州の中忍・桂小五郎から四百両の軍資金を貰って天狗党を決起させた。公武合体派の徳川、会津、薩摩の連合軍によって京都から追放された長州は、天狗党の挙兵に乗じて勢力回復を図ろうとし、再び京都に集結し始めた。その矢先の元治元年(一八六四)六月五日の夜、突如新撰組と見廻組によって河原町の池田屋を襲撃され、長州系の志士たち多数が斬殺されたり捕えられたりした。
かくして、六月中旬から七月上旬にかけて、長州藩は京都に派兵。伏見、嵯峨、山崎に布陣して、七月十九日、長州軍の発砲をきっかけに、「蛤御門の変(禁門の変)」が起こった。しかし薩摩軍の変心のため、わずか一日で長州軍は敗北し、来島《きじま》又兵衛、久坂玄瑞《くさかげんずい》、眞木和泉《まきいずみ》ら多くの勇士が戦死した。そのため、天狗党が挙兵した意味は失われてしまった。
capelaurig
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