TSUTAYAに行ったところ、青年コミックのコーナーに能條純一の『昭和天皇物語』があり、興味が出たので読んでみました。現在も連載中で、結構売れているようです。
冒頭はマッカーサー元帥と昭和天皇の会見で、天皇の立派な態度に感銘を受けたマッカーサーがこの人物に興味を持ったという、昔から言われている伝説をベースにしています。戦前は天皇が神でしたが、戦後は天皇とマッカーサー、その後はケネディなどのアメリカ人を並べて神格化し、日本は永久にアメリカに屈従せよと説かれるようになりました。この漫画もその範囲を出るものではありません。
歴史を振り返ると、戦後の日米安保が戦前の日英同盟につながっていることは明らかです。『昭和天皇物語』でも裕仁・エドワード両皇太子の親密さが強調され、大日本帝国と同等か、あるいはそれ以上に大英帝国が賛美されています。この漫画を読む人々は、もう少し深く考えてみてほしいと思いました。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
冒頭はマッカーサー元帥と昭和天皇の会見で、天皇の立派な態度に感銘を受けたマッカーサーがこの人物に興味を持ったという、昔から言われている伝説をベースにしています。戦前は天皇が神でしたが、戦後は天皇とマッカーサー、その後はケネディなどのアメリカ人を並べて神格化し、日本は永久にアメリカに屈従せよと説かれるようになりました。この漫画もその範囲を出るものではありません。
歴史を振り返ると、戦後の日米安保が戦前の日英同盟につながっていることは明らかです。『昭和天皇物語』でも裕仁・エドワード両皇太子の親密さが強調され、大日本帝国と同等か、あるいはそれ以上に大英帝国が賛美されています。この漫画を読む人々は、もう少し深く考えてみてほしいと思いました。
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コメント一覧 (21)
capelaurig
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capelaurig
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熾仁親王の落胤だという事は、昔から大本内では公然の秘密だった。王仁三郎は熾仁親王の名を読み込んだ数百首の短歌を詠んでいる。
神のため御国のためにつくしたる人の子神の柱とぞなる(熾仁の子)
熾(さかん)なる稜威(みいず)照らして仁徳の徳を広むる人の出でませ(熾仁)
ありとあるすべての物も山川もよりて仕ふる御代ぞ恋しき(有栖川)
さて、1898年高熊山修業を終えた喜三郎に、西北の方向へ行け、お前を待っている人がいると、神のお告げがある。穴太から8キロ程、離れた八木という町で茶店を開く福島久子(出口直の三女で後の霊界物語では高姫として反面教師役で登場)が母に懸った艮の金神を判ける者が東から現れる事を信じ筆先を持って待っていた。3ヶ月後、綾部で喜三郎は出口直と会談する。大本の開教は出口直に艮の金神が懸った1893年もしくは王仁三郎が高熊山に入山した1898年になる。
capelaurig
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capelaurig
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本文 北光(きたてる)の神は竹野姫、竜雲、テームス、八木清之助等を引きつれ、気を利かして一間に引上げてしまった。後に熾仁親王、和宮は暫し沈黙の幕をつづけていた。和宮は心臓の鼓動を金剛力を出して鎮静しながら、顔にパツと紅葉を散らし、覚束な口調にて、
『熾仁親王様、お久しうございました。御壮健なお顔を拝し嬉しう存じます』
と纔...に言つたきり、恥しそうに俯むいて顔をかくす。熾仁親王は目をしばたたきながら、
熾仁『貴女も随分辛い思いをしたでしょうなア。私も江戸の国の空を眺めて、渡り行く雁に思いを送ったことは幾度か知れませぬ。私の真心は貴女の精霊に通じたでしょうなア』
capelaurig
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熾仁『決して夢ではありますまい、現実でしょう、しかしながら二人の間は夢より果敢(はか)ないものでございました。今北光の神様からいろいろと御理解を承はり、今後どうしたらよからうかと思案にくれている所です』
和宮『たとえ天律を破ってもかまわぬじゃありませぬか。一分間でも自分の本能を満足させることができれば、死んでも朽ちても構いませぬ。二人が根の国底の国へおとされようとも、貴方と手を引き合うてゆくのならば、構わぬじゃありませぬか』
とマサカの時になれば、大胆なは女である。和宮は最早神の教も何も忘れてしまい、捨鉢気味になって、王の決心を煽動したり促したりしている。
熾仁『成程、貴女の心としてはそう思われるのももっともです。私だって貴女を思う心は決して劣りませぬ。しかしながら、そこを耐へ忍ぶのが人間の務めだ。月に村雲花に嵐、思うようにゆかぬは浮世の常、如何なりゆくも神様の御摂理、こうして半時の間でも、一生会われないと思っていた相思の男女が会うて、心のたけを語り合うのも、神様の深きお情、私はこれで最早一生会うことができなくても、決して神様を恨んだり、世を歎いたりは致しますまい』
capelaurig
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どうぞそんな気の弱いことを仰有らずに金剛不壊(こんごうふえ)的の大度胸を出して、両人が目的の貫徹を計つて下さいませ。貴方にはサマリー様といふ最愛の奥様がお控へ遊ばしてござるのですから、無理もございますまい。イヤ妾も迷うておりました。最早貴方の心は昔日の心ではございますまい。誠にすまないことを申上げました。どうぞサマリー姫様と幾久しく偕老同穴《かいろうどうけつ》をお契りなさいませ。妾は幽界とやらへ参つて、御夫婦のお身の上を守りましょう』と言い放ち、ワツとばかりに王の膝に泣き崩れる。
capelaurig
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和宮『あゝ如何しよう 如何しよう』
と狂気の如く室内を駆け巡り、王の頭に手を当て、
和宮『モシ、王様、許して下さいませ。決して貴方をこかそうと思つたのじゃございませぬ。怪我でございます。貴方ばかり決して殺しは致しませぬ。妾もキツトお後を慕います』
と言いながら、スラリと懐剣の鞘《さや》を払い、つくづくと打眺め、
和宮『果敢なきは夢の浮世と知りながら
かかるなげきは思わざりけり。
恋慕う君に会いしと思う間も
泣く泣く此世の別れとなるか。
悲しさは小さき胸に充ちあふれ
泣く涙さへ出でぬ吾なり。
ゆるしませセーラン王の神司
やがてはわれも御供に仕へむ。
北光の神の命よヤスダラ姫の
心卑しとさげすみ給うな』
と云いながら、アワヤ吾喉につき立てむとする。
capelaurig
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清之助『ヤスダラ姫殿、狂気召されたか、かかる神聖なる霊場に於て、無理心中とは何のこと、天則違反の大罪となる事をお弁えなさらぬか。そんな御心とは知らず、貴女の御身を保護し、江戸を命カラガラ逃出し、猛獣の猛び狂う荒野原をようよう越えて此処迄お供をしながら、勿体なや王様を殺し、貴女も亦ここで御自害をなさるとは何と云う情ないお心でございますか。八岐の大蛇か金毛九尾の悪狐に憑依され、そんな悪心をお出しなさつたのでしょう。モウかうなる上はこの八木清之助が承知致しませぬ。王様の仇を討たねばおきませぬ』
この原文中に登場するセーラン王とは孝明天皇を意味したり熾仁親王を指すこともあります。サマール姫は堀川紀子、ヤスダラ姫は和宮なのですが、そしてリーダは八木清之助なのですが、王仁三郎は慧眼の読者が真相を見破れないようにあえて混乱させ、百年後の読者の解読を待っているのです。これから世界の学者が霊界物語を読み解こうとするようになります。世界の真相のほとんどが書いてあるために。
実際の和宮は箱根塔ノ沢の地でこのように歌を詠みながら自害したと思われます。
capelaurig
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『入那の国(京の都)の刹帝利 セーラン王(孝明天皇)の家筋に
生れ合いたる吾こそは 親と親との許嫁《いいなづけ》
セーラン王(熾仁親王)の妃となりて 入那の国(京の都)を永久に
守らむものと朝夕に 神に願を掛巻も
畏き神の御心に 反きしものかゆくりなく
テルマン(江戸)国に追いやられ 素性卑しき毘舎(商工人7)の家
シヤール(家茂)の妻となり下り 面白からぬ月日をば
歎きかこちつ暮しける 時こそあれや青天の
霹靂胸をとどろかす 惨状吾身に迫りけり
梵天帝釈自在天 神は此世にまさずやと
吾身の不運を歎つ折 忠義に篤きリーダー(清之助)が
雨風烈しき真夜中に 吾とらわれし牢屋をば
忠義の槌を打振りて 砕き毀《こぼ》ちて救い出し
暗に紛れて荒野原 スタスタ進み来る折
右守の司《岩倉具視》の捕手等に 前後左右を取りまかれ
蓮の川の此方にて いかがはせむと悩む折
竜雲司に助けられ 又もやここに高照の
深山の奥の岩窟に 危き身をば救われて
北光神の御教を 朝な夕なにかかぶりつ
曇りし胸も晴れ渡り 迷ひの雲は払拭し
真如の月日は心天に 強く輝き給ひけり
あゝ惟神々々 悪魔のしげき世の中に
かくも仁慈に富み給ふ 誠の神もいますかと
感謝の涙川となり 沈みし胸も浮き立ちて
救ひの舟に棹をさし 天国浄土の楽園に
逍遥しける折もあれ 思ひがけなき刹帝利
セーラン王《熾仁親王》の一行が 尋ね来ませる嬉しさよ
capelaurig
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神の御旨に従ひて 恋の執着秋の野の
木の葉の風に散る如く サラリと清め睦じく
姉妹と手を握つて 誠一つを立て通し
三五教の神力を 現はしまつり入那国
都の花と謳はれて 誉れを千代に伝ふべし
あゝ惟神々々 大地の竜と名を負ひし
清き白馬に跨りつ 誠を明かし奉る
セーラン王よ聞し召せ 妾を包みし恋の雲
瑞の御霊の吹き送る 科戸の風に払はれて
塵もとめなくなりにける あゝ惟神々々
吾等の身魂に皇神は 清く涼しく宿りまし
汚れ果てたる吾身をば 雄々しく照らさせ給ひけり
進めよ進めいざ進め 誠の道を只管に
心の限り進みゆけ 勝利の都も近づきぬ
あゝ惟神々々 御霊幸はへましませよ
朝日は照るとも曇るとも 月は盈つとも虧くるとも
仮令大地は沈むとも 誠一つは世を救ふ
誠の道を踏みしめて 玉の御柱立直し
天地の花と謳はれて 豊けき誠の実りをば
枝もたわわに結びつつ 今迄もつれし心をば
ときさばき行く奇魂 曽富戸の神の幸ひに
進むわれこそ雄々しけれ あゝ惟神々々
御霊幸はへましませよ』
capelaurig
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このように明治二年一月に有栖川宮が家茂なき後結婚を望んだ和宮が岩倉具視らにより箱根塔ノ沢の地で暗殺されました。その悲しみが熾仁親王と上田世祢を結びつけることになった。
その説を主張するためには、明治十年に逝去(せいきょ)したとされる和宮の公式記録と明治二年に逝去したとする時間の差をどう説明するかが問題となります。明治二年以降に替玉としての新しい和宮が現れなければならない。
替玉和宮にもっともふさわしい女性は、南部郁子《いくこ》妃ではないか?
capelaurig
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ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。
八月二二日、関白九条尚忠《ひさただ》はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女《むすめ》を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。
capelaurig
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弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁《おさひと》親王(孝明天皇)に配する后を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。
翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚《せんそ》、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内する。大雪の日であった。牛車《ぎっしゃ》で九条邸を出る夙子は十二単衣を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣《むつき》を着てつきそった。廣子《ひろこ》(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。
この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。
いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と皇妹《こうまい》和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。
capelaurig
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