不可解な部分はありますが、とりあえず安倍晋三の内閣総理大臣の辞任を祝します。
辞任表明のタイミングは、彼の大叔父で岸信介の弟だった佐藤栄作の首相連続在任記録を破った直後でした。安倍は長い在任期間のうちに北朝鮮の拉致被害者を一人も取り返すことが出来ず、ひたすら売国に明け暮れ、一日でも長く首相でい続けることが目的だったようです。
佐藤栄作の次には田中角栄が登場し、中国との国交樹立という大事業を成し遂げましたが、今回はどうでしょうか。田中角栄がアメリカに潰された今、自民党にはろくな人材が見当たりません。山本太郎など自民党以外の勢力と、日本国民の覚醒に期待したいと思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
辞任表明のタイミングは、彼の大叔父で岸信介の弟だった佐藤栄作の首相連続在任記録を破った直後でした。安倍は長い在任期間のうちに北朝鮮の拉致被害者を一人も取り返すことが出来ず、ひたすら売国に明け暮れ、一日でも長く首相でい続けることが目的だったようです。
佐藤栄作の次には田中角栄が登場し、中国との国交樹立という大事業を成し遂げましたが、今回はどうでしょうか。田中角栄がアメリカに潰された今、自民党にはろくな人材が見当たりません。山本太郎など自民党以外の勢力と、日本国民の覚醒に期待したいと思います。
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コメント一覧 (21)
和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼《きょうく》のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引《えんいん》の御沙汰になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。
八月二十三日 有栖川宮御内藤木木工頭
二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見る。
capelaurig
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そもそも我国に伝わる古典は、すべて豊葦原瑞穂国〈地球全体の国土を言う〉の有史以前の伝説や考量を以て編纂されたものもあり、有史以後の事実を古文書や古伝説なぞを綴り合せて作られたものもあって…ただ一巻の物語の中にも宇宙の真理や神の大意志や修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞もありますから、一冊でも心読せられむことを希望いたします。要するにこの『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したものであります。大正十一年十一月七日「序文」『霊界物語』四一巻。
出口王仁三郎聖師は、『霊界物語』四一巻序文において、…過去における歴史もあり…『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したもの…としています。この文が四一巻に記載されたということは、この巻にこそ、日本の歴史に漏れたる点、そして神業においてもっとも重要な点を記載したという謎と考えます。
「試に世界地図を披《ひら》いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究して見よ。その如何に類似し、その同一典型に出でたるかの俤《おもかげ》を認むるに難からざるかを。
世界の各大洲に、幾多の変遷が在ったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今やその形容を甚しく変化せしめてはいるが、神誓神約の太古の趣は、髣髴《ほうふつ》として之を認めるに難からざる次第である」「宗教と政治(二)」『神霊界』
capelaurig
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一般には豊葦原瑞穂国は、日本国のこととされています。しかし王仁三郎は地球全体のこととしています。神霊界では…大国主命が豊葦原瑞穂国〈全世界〉を統一し、之を皇孫命《すめみまのみこと》に奉還し給いし美事は、君臣の大義名分明らかなる国体の精華であります。「随筆」『神霊界』
『顕の顕神』は、天先ず定まり地成って後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給いし…「皇国伝来の神法」『出口王仁三郎全集第一巻』
capelaurig
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九枚の紙を使用して表す孝明天皇(セーラン王)直伝の切り紙神示、聖師のスの拇印を得て、はじめて日本の「日」と「皇」に主神が入り、文字が完成します。米国は殻、体《から》の国ゆえに、文字に「ス」が必要なく、米国と国名が完結しています。「主」「ス」を担う日本国と、「ス」を奪う謀みの米国との戦争が太平洋戦争でしょうか。
capelaurig
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読者諸氏のうちには、諸神の御活動にたいし、一字か二字、神名のわが姓名に似たる文字ありとして、ただちに自己の過去における霊的活動なりと、速解される傾向ありと聞く。実に誤れるの甚《はなは》だしきものというべし。切に注意を乞う次第なり。大正十年十月廿日 午後一時
於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌
capelaurig
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「神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る」とういうのは、まさに二大勢力の衝突、本宮山神殿破壊のことでしょう。神殿破壊のその時に、聖師は「序」『霊界物語』を口述された。一審判決が出てから三日目の十月八日(旧九月八日)、王仁三郎に対し、「明治三一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があり、大正十年(一九二一)旧九月十八日に『霊界物語』の口述が始まりました。それは最後の審判が開かれた日であり、それを恐怖する悪魔の妨害工作が本宮山神殿破壊につながったもの。
その根拠は、「国難は国福なり」『真如の光』に「九月八日の仕組み、先ず第一着に満州事変が起こる」と記されていること。聖師は「九月八日のこの仕組とは大正十年十月八日旧九月八日に御神命降り、旧九月十八日から口述開始した『霊界物語』のことである」とも昭和六年十月十八日旧九月八日に示されており、最後の審判が開かれたことが、ちょうど十年後の皇紀二五九一《じごくはじめ》年、昭和六年(一九三一《いくさはじめ》)九月十八日勃発の満州事変の型になったことがわかります。
capelaurig
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『霊界物語』口述時の大本は、まさに本宮山破壊に象徴される大本弾圧直下であって、聖師の立場でみれば、正しく信者が『霊界物語』を解釈して、真実の扉を開けてはならなかった。一文字一文字を解釈して、真相を探求され、発表されると、不敬に結びつき、聖師の首はいくつあっても足らなかった。「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」と反対解釈できます。
たとえば、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)という姫が四一巻に出てきます。耶須陀羅姫とはお釈迦様の妃と同じ名前です。そしてお釈迦様は、素盞嗚命の四魂の神(和魂大八洲彦命《にぎみたまおおやしまひこのみこと》)の一神です。出口王仁三郎聖師は、素盞嗚命の現界での顕現ですから、耶須陀羅姫が聖師と近い関係にあるのは想像できます。
ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)のヤスの語感は、「ヤス」=「和」を示しています。なぜなら、『霊界物語』は聖師の口述です。孫の出口和明を「やすあき」と読ませた王仁三郎聖師だからこそ、この理屈は成り立ちます。『霊界物語』ではヤスダラ姫はインドの入那《いるな》の国の左守《さもり》クーリンスの娘で、セーラン王の許嫁《いいなづけ》です。サンスクリット語かもしれない言葉を日本語で解釈するのはどうかという意見もありますが、聖師のお示しから『霊界物語』の印度とは、普通日本のことと考えています。
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万延元年(一八六〇)、大雪のなか登城する大老井伊直弼の行列に水戸脱藩の尊攘派浪士ら一八名が切り込み、井伊を刺殺する。桜田門外の変である。幕府の威信はますます低下し、政権を引き継いだ安部・久世は、尊攘派を牽制せんがため、朝廷に対し、和宮降嫁を強硬に申し入れてきた。
孝明天皇は最初、難色を示す。和宮にはすでに婚約者の有栖川宮がいるうえに、和宮自身も、江戸は蛮夷《ばんい》の集まるとことして恐怖していたからである。ところが幕府は引き下がらず、公武一和のためと重ねて押し戻し、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、次々と外堀を埋めていった。
孝明天皇は板ばさみになって苦悶するが、そこに策略家の岩倉具視が登場する。岩倉は幕府の執拗な降嫁奏請を逆手にとり、降嫁容認は屈服ではなくむしろ「関東へ御委任の政柄を隠然と朝廷へ御収復」する絶好の機会ととらえ、和宮降下を認める条件として、幕府に対して、攘夷の実行や、国家の重要事の奏聞《そうもん》を命じることを天皇に奏上したのである。
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1861年文久元年十月二十日、和宮は桂御所をあとに中山道を江戸へ下った。全長五十キロにのぼるその行列のなかには、十四歳の八木清之助もいた。江戸大奥での和宮に対する待遇は礼節を欠くことも少なくなく、また武家風の生活習慣との齟齬《そご》ゆえ姑の天璋院《てんしょういん》との関係はぎくしゃくしたものになった。しかし、同い歳の家茂は誠実な愛情をもって和宮に接し、夫婦仲は睦まじく、時にほほえましいものがあったという。(王仁三郎は霊界物語41巻上で否定)
家茂と和宮の不可解な死因 脚気衝心《かっけしょうしん》。侍医は同じか。同じ毒を盛ったか。
それからわずか四年後の慶応二年(一八六六)六月二十日、長州征伐の最中、家茂《いえもち》は二十一歳の若さで大阪城で夭折《ようせつ》してしまう。公表された死因は脚気衝心であるが、暗殺の噂もあった。
capelaurig
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いつの間に朝敵となったのであろう。三二歳の和宮は、江戸城に逃げ帰った慶喜の助命嘆願に専心する。江戸市民が戦火に巻き込まれぬよう教諭を発し、江戸進撃中止の嘆願書を書く。江戸は戦火を免れ、天皇は江戸城を皇居としたが、和宮のむなしさを救うものはなかった。
1869年明治二年正月一八日、和宮は東京(江戸)をあとにして京都に帰るが、明治七年七月、再び東京に移り住む。そして明治十年八月、脚気を発病、侍医の進めによりて箱根塔之沢へ湯治に赴《おもむ》くが、九月二日、にわかに衝心の発作により、当地で他界したという。
和宮と家茂の死因は時期も場所もちがうのに二人して脚気衝心。診断医は同じなのかな。岩倉、篤姫、慶喜達が疑われる。同じ毒を盛ったのか。
capelaurig
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②1878年(明治11年)4月、40歳を過ぎて妃との間に継嗣のできない熾仁親王は、稠宮を事実上の養子として有栖川宮の後継者にしたい旨を明治天皇に願い出る。当時はまだ旧皇室典範制定前で、皇族の継承権問題が天皇の裁量で決められたため、5月18日に勅許が出された。これにより同年8月26日、稠宮は明治天皇の猶子となり、親王宣下を受けて威仁の名を賜った。
② 熾仁親王は異母兄。熾仁(1835年3月生まれ)威仁(1862年2月生まれ)兄弟といっても27才違う。威仁は大正天皇の指南役を務め、生来体が弱く52歳で薨去、大正天皇は有栖川宮の維新以降の功績を特に慮り、第三皇子の宣仁親王へ将来的に高松宮の号を与え、その祭祀を継承させることにした。高松宮は有栖川宮の旧称。高松宮にも子供がおらず断絶し、秋篠宮が祭祀と有栖川流書道を継承したことになっている。
27才も違うと親子みたいで、威仁は兄の苦労は判らなかったと思います。
capelaurig
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有吉佐和子は、和宮が、その屋敷跡が現在の目白の学習院となった豪農新倉家の家の蔵で縊死《いし》したとの伝承を紹介し、その伝承が御留の本のストーリーに生かされたことがわかります。和宮はもともと東下せず、「フキ」が、板橋本陣で小説の上で宇多絵とされる、岩倉具視が因果を含めただろう、左手首のない新しい和宮にすり替わったとするのですが。いずれにせよ有吉の本は三人の和宮を想定しています。縊死したとする和宮は、伝承では本物の和宮としながら、「御留」で入れ替わった和宮「フキ」を想定していることに不徹底さが感じられます。また有吉は、増上寺の和宮の髪は赤毛であったが、家茂の内柩に収められていたのは緑の黒髪だったと記しています。
『和宮様御留』は有吉の構想した小説であり、事実ではありません。
capelaurig
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マッカーサーの存在(敗戦)を忘れてました。
岩倉具視<世襲親王家の廃止>の意図が裏目に出て、昭和天皇の近親である(世襲親王家ではない)伏見宮、常陸宮、三笠宮は断絶寸前でもあります。女系天皇が出れば、長男が継いでこその天皇制は無意味になるでしょう?
capelaurig
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