8月は暑さに加えて、母の入院と施設入りという大きな変化があり、例年以上に疲れました。両親ともに長生きしていますが、それだけに人生や世界の無常を感じました。
時間は人間が設定した便利な概念ではありますが、あくまで観念であり、実在するものではありません。空間もそうです。アインシュタインは宇宙を三次元の空間と一次元の時間から成る四次元の時空間として捕らえましたが、あくまで物理的な見方です。
しかし物理学には面白い考え方があって、宇宙を「時間と空間」から成ると考える代わりに「運動量とエネルギー」から成ると捕らえることも出来ます。運動量は三次元、エネルギーは一次元の量です。こちらの見方のほうが宇宙の実相をよく捕らえているようにも思われます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
時間は人間が設定した便利な概念ではありますが、あくまで観念であり、実在するものではありません。空間もそうです。アインシュタインは宇宙を三次元の空間と一次元の時間から成る四次元の時空間として捕らえましたが、あくまで物理的な見方です。
しかし物理学には面白い考え方があって、宇宙を「時間と空間」から成ると考える代わりに「運動量とエネルギー」から成ると捕らえることも出来ます。運動量は三次元、エネルギーは一次元の量です。こちらの見方のほうが宇宙の実相をよく捕らえているようにも思われます。
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コメント
コメント一覧 (17)
和宮の替玉とは本当にいたのでしょうか。いたとしたら誰か?なぜか?
出口王仁三郎聖師は、『霊界物語41巻』の中で有栖川宮熾仁親王と和宮親子内親王に何をどう語らせたのか?
和宮親子内親王、弘化三年(一八四六)閏五月十日~明治十年(一八七七)九月二日、仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。
嘉永四年(一八五一)七月、有栖川宮熾仁親王と婚約したが、幕府は公武一和《こうぶいちわ》の対策として将軍家茂への降嫁を奏請。和宮は天皇の苦衷《くちゅう》を察し、またこの間種々の策動も行われたため、やむなく承諾。十月勅許され、文久二年(一八六二)二月、婚儀が行われた。しかしわずか四年余にして慶応二年(一八六六)七月、家茂は長州再征の途上、大坂城において死去。和宮は薙髪して静寛院と称した。やがて王政復古なった明治元年(一八六八)正月、和宮は徳川慶喜の懇請を受け、侍女を上京させて徳川の家名存続を嘆願するなど婚家のために尽力。江戸開城にあたって清水邸に移り、翌二年、京都に戻る。
明治七年(一八七四)、再び東京に移居。しばし平穏な日々を送ったが、十年(一八七七)九月、脚気治療のため湯治に赴いた箱根塔ノ沢の旅館で薨去。享年三十二歳。
capelaurig
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自分が深刻な秘密を持つということは、どうしても秘密を他人と共有することになる。多くの他人の秘密を抱えれば、その他人を時には支配できる。一族を支配したり、時には一国を支配したり。
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capelaurig
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これは昭和四四年(1969)九月十日、ごく親しい阿刀弘文氏公から聞かれた。阿刀家は、大嘗祭《だいじょうさい》の執綱《しっこう》を務める家柄とか。弘法大師の兄弟である阿刀大足《おおたり》の直系で有栖川宮とも縁続き、皇室関係の文書も担当している由である。手がかりを求めて『有栖川宮熾仁親王行実《こうじつ》』や『有栖川宮熾仁親王日記』を探っても、かくかくたる事績ばかりで自殺にいたる影もない。
公式には、熾仁親王は日清戦争の勝利を目前とした広島大本営にあり、参謀総長の激務のなかで病を得、舞子別荘に退き療養のところ、マラリアチフスと判明、明治二十八年(1895)一月一五日に崩御したことになっている。六一歳である。
capelaurig
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大本営とは,明治二六(一八九三)年の勅令(天皇の命令)で制定された戦時下の天皇直属の最高統帥(軍隊を率いること)機関であり、そのおかれているところが首都ともいえるかもしれない。
西南戦争の起こった明治十年の段階で博愛社(現在の日本赤十字社)大阪支部幹事とまでなった実業界の大立者が旭形亀太郎、その博愛社の活動を一八七七年に英断をもって許可したのが有栖川宮熾仁親王だ。。
capelaurig
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それにしても、中山一位の局は、その真偽はともかく明治天皇の母とされている人物、その人が旭形家に泊まるとは、明治天皇と旭形亀太郎の関係もなみなみならぬものがあるということか。いや中山一位の局と明治天皇は生涯一度もあったことはないという。明治天皇が大室寅之佑であればそれは頷ける。
孝明天皇にとって旭形亀太郎は、『霊界物語』での白狐《びやっこ》旭と白狐高倉・月日明神であるかのように見えてくる。しかし旭形は、その記録の中でも、あえて有栖川宮熾仁親王との関係を秘匿《ひとく》したと思う。秘密を守ること、それが月日明神としての役割だろう。これだけ密接な旭形と有栖川宮熾仁親王です。旭形はうすうす、熾仁親王の子として誕生した上田喜三郎、後の出口ヲーワニの存在を知っていたかもしれない。。
なお、広島には、日清戦争時の大本営を解除された後も、大正、昭和にかけさまざまな軍事施設が増強され、太平洋戦争末期には、西日本一円を管轄する第二総軍司令部が置かれていた。もし日本がポツダム宣言などで敗戦を受け入れたら、日本で反乱が起こる導火線は、まさにここ広島。その広島に原爆を落とすことによって、米国およびそれに通じた人たちは、日本が敗戦を巡って国体を護持し、そして内戦に陥るのを防ごうとした。自分たちの身の安全を図ろうとしたのではなかったのか。(日本の一番醜い日 鬼塚英昭)
capelaurig
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元有栖川宮旧臣報恩会の会長である京都修学院に住む瀬尾謙一氏は、
「私の家は代々有栖川宮家にお仕えしています。現代のように履歴書一枚で雇用関係が成り立つのではなく、世襲制でした。いざというときは切腹を仰《おお》せつかることもある。お手打ちだってあり得る。命をかけた仕事として主従は不思議な因縁で結ばれているのです。そういう話(王仁三郎落胤説)があったことは知っていましたが、だれも口に出した者はいない。代々仕《つか》えてきた者たちに迷惑がかかるという、狭くて頑固な考え方があることをわかってほしいと思います……」。
打ち解けた二時間ほどの話のなかで、「和宮の左手首」という言葉を発した途端、それをさえぎるように、瀬尾氏は凛《りん》としてこう語った。
「しかし、父は子のために隠し、子は父のために隠す、これわが家のチョク(直・勅?)なり、という言葉があります。私は何でもかでも実際はどうだったんだと調べることがはたしてよいことなのか、考えてみなければいけないと思います……」
capelaurig
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回顧歌集や奉納された額から判断すると、王仁三郎の冠句の師匠は「度変窟烏峰」という人物であるが、いったいどこのだれなのか、皆目わからないままであった。ところが喜三郎の恋人、八木弁は「度変窟烏峰」の娘だったのだ。それだけでも驚きであったが、この烏峰こと八木清之助の経歴には尋常ならざるものがあった。清之助は動乱の幕末裏面史に深くかかわっていたのだ。
capelaurig
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ににぎの尊は天皇系で、三種の神器で日本を治める。にぎはやひの尊は丹波にその系統があって、それが出口家で、かげから日本の天皇家の無事を鎮魂してあげようという立場である。二代さんは教祖さんより...艮の金神を押し籠めたのは天皇であるということをよく聞かされたので、天皇を憎んでおられ、聖師が艮の金神を押し籠めた天津神系、天皇の落胤ということを聞いてびっくりされる。
聖師を好きやけど反面憎まれる。先生は有栖川宮熾仁の御落胤やと言うので、そんな馬鹿なことがと穴太へ馳せ、母のよねさんに聞く。産着と短冊を見せられ、無意識状態のまま京都へ。梅田常次郎宅にいる三代直日さんの所に駆け込む。どこをどう歩いたか、気がつけば二条城だったという。聖師は「うちのお母は発展家でなあ、伏見へ預けられたらわしできたんや。丹波よいとこ女の夜這いというやろ」と仰られたこともあった。
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「王仁は饒速日だ!」という聖師の『新月の光』の中での言葉と、本当の天照大神は誰なのかという探究心からです。しかし「自分は本当の天皇で、天皇家は分家である」との言葉が記録に残されていることは知らなかった。そして、聖師が自分を有栖川宮熾仁の落胤であることを高熊山ご入山前に知ったというのは誤りで、聖師の母よねは聖師が幼少の頃から、世間にはその事実を隠そうとしながら、喜三郎に伝えようとしたことがわかりました。
そして「開化天皇がわからなんだら物語はいくら読んでも駄目だ」とはすでに『新月の光』で発表されています。一連の原稿の中で開化天皇の神業に言及したのですが、「昭和二十年八月十五日から開化天皇の時代に入る。結構なお日柄に入ると仰られる。「わかき日本の春は近めり」とは古い日本はあかんという反語として言われたのである」という言葉は衝撃を与えました。
開化天皇の世界統一の神業は、『霊界物語』十九巻記載のように、高熊山ご入山一八九八年の三十五年前、一八六三年から始まりました。そして世界統一の神業は、日本統一の神業の完成、明治維新を世界に応用する形で成し遂げられるものでした。その応用の形の一つが実際には第二次大本教事件と第二次世界大戦などで示された型の思想ではないでしょうか。
capelaurig
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