私が知っているある会社では、次のような手口で社員をだまして思想調査が行われているようです。
勤怠アプリの担当者が、調査対象の社員の勤怠データのアカウントを削除します。すると当然、この社員は勤怠アプリにログインできなくなり、担当者に相談します。すると担当者は内心ニヤニヤしながら、表面はあくまで親切そうに「ログインできない?それは大変だね。私が見てあげるから、スマホを渡しなさい」そして担当者はスマホの閲覧履歴を見て、社員が反政府的な思想の持ち主かどうかを調査するというわけです。
今もこの担当者は哀れな犠牲者のスマホを覗き見しながら、思想調査を続けていることでしょう。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
勤怠アプリの担当者が、調査対象の社員の勤怠データのアカウントを削除します。すると当然、この社員は勤怠アプリにログインできなくなり、担当者に相談します。すると担当者は内心ニヤニヤしながら、表面はあくまで親切そうに「ログインできない?それは大変だね。私が見てあげるから、スマホを渡しなさい」そして担当者はスマホの閲覧履歴を見て、社員が反政府的な思想の持ち主かどうかを調査するというわけです。
今もこの担当者は哀れな犠牲者のスマホを覗き見しながら、思想調査を続けていることでしょう。
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コメント一覧 (22)
誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。
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あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。京の人々の口さがない噂では、あの方は、帝のおおせで、水戸の徳川の姫と御婚約なさったとか。けれどあの方は、仁孝天皇の皇女、先の帝のお妹にあたる和宮さまが六歳の時からの婚約者であられた。同じ御所うちに育ち、その上父宮幟仁親王さまの元に書道を習いに通われる幼い和宮をいつくしまれつつ御成人を待たれて十年、やっと挙式の日取りも決まる時になって、和宮は公武合体の政略に抗しきれず、贄《にえ》となられて関東に御降嫁。
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東京奠都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。ただそれだけで、うちは幸せなんや。供を一人連れただけのお身軽ないでたちで、あの方は去って行かれた。絶えまなく船が行きかう川べりを駆け抜けていかれる最後の馬上のお姿が、世祢の瞼《まぶた》に焼きついて離れない。懐妊に気づいたのは、極月に入ってからであった。あの方は知らない。東の空の下、帝《《みかど》のお傍で、多忙な公務に明け暮れておられよう。訴えるすべさえわからぬ世祢であった。
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けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土《うぶすな》さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った。
「深山の草」とは、上田世祢のことではありません。有栖川宮熾仁親王の、世祢に対する恋心がつのる様子を、深山《みやま》の草の誰もしらないが茂る様子に例えたものです。
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「繁姫《しげひめ》」とは、徳川貞子(嘉永三年(一八五〇)旧十月二七日~明治五年(一八七二)旧一月九日)のこと。徳川斉昭《なりあき》の十一女として駒込の水戸藩下屋敷に誕生し、書は有栖川宮幟仁親王から学んでいる。慶応三年(一八六七年)に兄徳川慶喜の養女として、皇女和宮との婚約破談後の有栖川宮熾仁親王と婚約する。嫡母《ちゃくぼ》吉子《よしこ》女王及び長兄慶篤の正室幟子女王も有栖川宮出身であり、水戸徳川家と有栖川宮は縁戚関係にありました。しかしその後、徳川慶喜の大政奉還により婚姻が延期され、そして翌明治二年(一八六九)、九月十九日、徳川斉昭娘貞子と再度婚約しました。十一月七日、婚約勅許。明治三年一月十六日、徳川貞子と結婚、四月三日、熾仁親王は維新政府の兵部卿に就任しました。
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貞子妃は結婚の二年後、熾仁親王が藩知事として福岡に赴任中に丹毒を病み、東京の有栖川宮邸にて死去。東海寺に葬られました。
和宮と有栖川宮の関係を明かにするため、熾仁親王の江戸城入城の記録が欲しい。大奥は熾仁親王が率《ひき》いる官軍に明け渡しが決まっていたのですが、「江戸城大奥最後の日」というテーマで次の文章が見つかりましたので、引用させていただきます(栗原隆一「江戸城大奥最後の日」『将軍家・大名家、お姫様の明治維新』別冊歴史読本)。
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「時節柄、外出や物見遊山、贈答などを自粛せよ
皇女和宮(後の静寛院宮)が将軍家に降嫁して江戸城に入られた頃、大奥には先代家定の未亡人天璋院篤姫をはじめ、家定の生母にあたる本寿院、将軍家茂の生母である実成院が、別殿で多数の侍女たちにかしずかれて起居していた。勝海舟の遺談によると、天璋院付きの女中は二百六十人、和宮付きは二百八十人いたという。これら多くの女性を中心に形成された大容止《ようし》〈立居振舞〉から諸行事の執りおこない方、交際、衣装等にいたるまで都振《みやこぶり》、奥の生活は、きわめて複雑かつ煩瑣に堪えないものがあり、日常の御所風と江戸風のちがいがあって、京都育ちの女官たちは、何かといえば江戸の生活慣習をさげすむところがあり、何かにつけてこれがいざこざのもとになった。
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こうした諍《いさか》いはその後も尾を引くが、文久三年九月、朝廷内儀の大典侍《おすけ》(女官長)中山績《いさ》子から庭田典侍あてに、「嫁した以上は徳川家の風儀にしたがい、諸事和するように」との、きつい達示がとどいた。後宮(御所)と大奥(江戸城)の葛藤といっても、具体的には姑にあたる天璋院と和官の感情のもつれで、両者を取り巻く女官たちの角突き合いが、この諍いをいよいよ過熱させた。
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慶応四年正月十二日、上方の戦《いくさ》に敗れて慶喜が江戸に逃げ帰ると、大奥の女中たちは青くなって騒ぎ立てた。遠い寿永《じゅえい》のむかしの、壇ノ浦における平家女官輩《ばら》の哀れな末路を思い浮かべたのである。「表の役人にも増して立ち騒ぎしは、かよわ心の住み処、大奥の一構なりけり。世は如何に成り行くべきなど、さわ寄れば障《さわ》れば語り合ひ……」(『定本江戸城大奥』より)
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しかし、和宮をこよなく慈しまれた孝明天皇はすでに身罷られ、十七歳の明治天皇は討幕派の公卿たちにガードされて、大奥差遣《さけん》の御年寄ときいても、だれも一顧だにあたえなかった。もはや大奥に往年の神通力はなかったのである。そうこうするうち、三月十三日におこなわれた西郷・勝会談で、江戸開城は四月十一日と決まった。それを受けて四月八日、大総督府より江戸城明け渡しの命令が徳川家に下り、大奥も開城の日までに立ち退くように言い渡された。
十一日まであと三日しかない。「よって当時江戸表に彷徨《さまよ》いおける閤老、参政等協議の上、静寛院宮様ならびに実成院殿を田安御殿へ、天璋院殿を一ツ橋御殿へ、また当時一ツ橋に在らせられける慶喜公の御台所を小石川御館《おやかた》梅の御殿へ移し参らすることに定め、その儀諸院に上申しけるに」天璋院のみ動く気配がない。
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「イザ立退かれよと御日付の指図に、役人は一同御広座敷に集り、着座して紅葉山《もみじやま》の方に向いて再拝し、御先祖代々、我々も代々昼夜を別《わか》たず出仕せし大奥も、今日よりぞ永の別となるべしとて、顔見合せて今更らの如くにかこち……」
万感胸にせまって目頭を押さえながら部屋を去り、名残惜しげにあとを振りかえりつつ、ともすれば立ち止まりがちな自分を叱陀して平河口にさしかかったのが、いつもなら下城時刻の七ツ時(午後四時)。橋を渡り終えて、ふと右手を見ると、ちょうど薩州の兵五大隊が隊伍を組み、鼓笛を打ち鳴らして意気揚々と城へ繰りこむところで、「(その整然たる行進の)心悪くさよ」と「定本江戸城大里」の記述にある。
翌四月十二日、官軍諸藩は西の丸、大手、坂下、桜田、竹橋、清水、田安、矢来、馬場先、雑子橋、一橋の各門を固めた。そして大総督有栖川官熾仁親王が入城。江戸城は二百六十五年にわたる歴史の幕を閉じた。栗原隆一「江戸城大奥最後の日」『将軍家・大名家、お姫様の明治維新』
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