これは私が中学生の頃に読んだ天文学の入門書です。荒木俊馬はアインシュタインから直接教えを受けたという天文学者・物理学者ですが、子供向けに面白く書かれています。
星野宙一という天文好きの中学校一年生が、何故か打出の小槌を手に入れて地球と同じ大きさになり、彗星に乗って宇宙(太陽系)に旅立ちます。彗星と会話しながら宇宙の驚異に触れ、更に太陽系外に出ようとして間違えて太陽に落下しそうになりますが、おとめ座から抜け出した女神フォトン(光子)に助けられて銀河を旅してゆきます。
松本零士は小学生の頃にこの本を読んで大きな影響を受けたそうです。『銀河鉄道999』の星野鉄郎は宙一、メーテルはフォトンに当たります。宇宙空間には空気が無いのに何故宙一は呼吸できるのかなど、厳密に考えるとおかしいですが、漫画的に面白いです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
星野宙一という天文好きの中学校一年生が、何故か打出の小槌を手に入れて地球と同じ大きさになり、彗星に乗って宇宙(太陽系)に旅立ちます。彗星と会話しながら宇宙の驚異に触れ、更に太陽系外に出ようとして間違えて太陽に落下しそうになりますが、おとめ座から抜け出した女神フォトン(光子)に助けられて銀河を旅してゆきます。
松本零士は小学生の頃にこの本を読んで大きな影響を受けたそうです。『銀河鉄道999』の星野鉄郎は宙一、メーテルはフォトンに当たります。宇宙空間には空気が無いのに何故宙一は呼吸できるのかなど、厳密に考えるとおかしいですが、漫画的に面白いです。
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コメント一覧 (24)
幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。
東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。
虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。
待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。
「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」
あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。
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終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。本名は朴茂徳である。鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。だから昭和天皇は終戦の大事な時期に、東郷茂徳を起用した。東郷に外交ルートを使った終戦工作、すなわち天皇の身の保全と、天皇家の蓄財の隠蔽を命じたのである。東郷はA級戦犯となり、服役中に病没しているが、おそらく真相を知る人間だから消されたのであろう。
先に紹介したが、終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家とは親族だという。安倍源基は周知のように、戦前、警察権力を一手に握った男で警視総監をやり、特高警察で君臨した。言ってみればゲシュタポかKGBの親分のようなものだ。権力者にとっては重要なポジションである。これもまた朝鮮人系が握っていたのだ。
capelaurig
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こうして見てくると、どうして明治権力が朝鮮半島に侵出したか、しかも朝鮮半島をいわゆる植民地化せずに“内地化”して、インフラ整備を徹底的に施し、 “内鮮一致”を押し進めたかがわかる。つまり日本が稼いだ富を祖国・朝鮮半島にせっせと注入したのだ。また日本国内に在日朝鮮人を大量に残し、厚遇してきたかもわかる。権力者どもにとっては同族だからだ。わざと(ユダヤの指示で)日本国内に火種を残したとも言えるだろう。北による拉致だってわかったものではない。総連や北の工作員だけでなく、こうした闇のルートが拉致に介在した可能性もあるし、現在も小泉や安倍という朝鮮系の人間が首相をやっているのだから、闇は深まるばかりだ。
capelaurig
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東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫さまと皇室との御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。
東京遷都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。
――ただそれだけで、うちは幸せなんや。
capelaurig
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大正末期に聖師は8月15日と染筆されてます。<日本でいちばん長い日>は半藤一利の映画(2015年)で有名ですが、<日本でいちばん醜い日>鬼塚 英昭の方が現実味が有るようです。昭和天皇が戦争責任を回避するため(嘘をつく為)、木戸幸一・三笠宮による<偽装>クーデター事件で、阿南陸相らが自決している。NHKの終戦録音盤が時間通り放送されるかが問題ではなく、<耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び>という他人事のメッセージで、神から人間に降りた表現・態度は許せないが真実であろう。壬申の乱で勝利した天武天皇/持統天皇の時代から、天照大神により即位したような伝説はもう終わりにさせましょう。。。
capelaurig
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これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である。生前に明治天皇は生母に会ってさえいない。「この人間関係の冷たさがーーたとえ生母でなくても会えばいいではないかーー日本の暗黒をより深くし、日本を太平洋戦争へと突き進ませたと思えてならなかった」と鬼塚氏は書いた。そのとおりである。昭和天皇も今上天皇もその他皇族も、孝明天皇の子孫と思うのなら、中山慶子の墓を粗末にするはずがないのだ。
先に「現在の天皇家は、明治の大室寅之祐の血筋は途切れた」と書いたが、大正天皇はどうやら大室寅之祐の子らしいが、昭和天皇は大正天皇の子ではないからである。西園寺八郎と貞明皇后のあいだの子とされる。その事情を『日本のいちばん醜い日』で詳述している。西園寺八郎は毛利家から公家の西園寺公望(元老でありフリーメースン)の養子になった人物で、宮中深く浸透した。大正天皇とは学習院で同級生だった。その息子公一(きんかず)は、コミュニストでゾルゲ事件に連座したが、親(八郎)のよしみで釈放されている。
capelaurig
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ある日、事情に気付いた船宿の朋輩の一人が世祢の様子をうかがい、おどすように忠告した。
「有栖川の若宮さまの落胤は、男やったら攫われて殺されるそうどすえ。気いつけやっしゃ」
「ちがう。うち、身ごもってまへん」
世祢は強く否定した。にらんだ下から、唇が褪せた。故郷が狼狽する世祢を招いた。
伏見で船宿を営む叔父夫婦には子がなかった。姉の娘である器量よしの世祢を、前から養女に望んでいた。
けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。
思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った。
「しんどかったら、もう寝なはれ」
宇能は思わしげに娘賀るにいった。貧しい夕餉の半ばである。賀るはうなづき、重たげに椀を置くと、足音も立てず奥の長七畳の間に消える。宇能は夫吉松と眼を見合わせて吐息した。
次女ふさが亀岡町西竪の岩崎家に嫁いだのは二十三歳の春。つづいて十九歳の三女世祢が、養女に望まれて伏見の叔父の船宿へ手伝いがてら行った。それからもう丸二年に近い。家にいる長女賀るは今年三十二歳、とうに婚期を逸した。体が弱く、器量もよいとは言えぬ。
capelaurig
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鬼塚氏は、秩父宮が2・26事件の策を練り、終戦時の8・15宮城事件は三笠宮が策を練ったのだと断言している。どちらのクーデターもヤラセだった。
貞明皇后(節子*さだこ)はしきりに世継ぎに介入したとされる。秩父宮を溺愛し、裕仁より秩父宮を天皇にしようと暗躍した。貞明皇后は長州が嫌いだったので、薩摩系の良子を昭和天皇の嫁にしようとして「宮中某重大事件」を起こしている。
貞明皇后は五摂家のひとつ九条家から嫁したとされるがウソで、武蔵野のある大農家の娘だったという説と、彼女の本名は朱貞明だという説がある。中国か朝鮮であろう。朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、そこに召し出された女性だという。千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。
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宇能は箸をとめて、腰を浮かした。人の気配が動いて、板戸が鳴った。吹きこむ雪にまじって、白い顔がのぞく。
「お世祢……」
喜色と不安をつきまぜて宇能は末娘を迎え入れ、肩先につもる雪をはらった。そわそわと肥松を持ち出し、吉松は囲炉裏に明るい炎を上げる。叔父の家でととのえたのか、黒地に紅の細縞の着物。黒繻子にたまのり縮緬の腹あわせ帯がよくうつる。娘らしさがはんなり家中に匂った。
「お賀る姉さん、どこおってん」
「いま寝たとこや。ぐわい悪いんやろ、起こさんとき」
まだ独身の姉の姿の見えぬことにむしろほっとし、世祢は草鞋をぬぐ。母の出してくれた濯ぎの水が、赤くむけた足の親指の根本に激しくしみる。
こういう時、男親の吉松は出番がなくて落ち着かない。
「飯、まだやろ。早う食わせたれ」
「いらん」
思いつめた娘の眼つきに、吉松と宇能はどきっとした。世祢の頬も手も青白く冷えて、こわばっている。宇能は熱い番茶をつぎながら、さりげなく聞く。
「年の暮れで忙しやろに、よう帰してくれはったなあ」
「暇もろうて来たんや」
「暇……? お世祢、暇いうもんは、いくら親戚の船宿かて、お前の勝手で願うてもらうもんやない。それともなんぞ落ち度があって……叱られて出されて来たんやないか」
咎めるような母の語気に答えず、世祢はうつむいた。手の中で番茶が揺れ、膝に散った。うっと口元を押え、部屋の隅にいざって背を向ける。
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吉松がいたわるように口をはさみ、それが手くせの、賽ころを湯のみの中にほうりこんで、丁と伏せる。
娘の波立つ背をみつめ、宇能は鋭い不安に胸をえぐられた。
「もしか……赤ん坊こさえたん違うか」
びくっと細い肩先がふるえる。否定もせず、身をもんで、世祢は筋ばった母の膝に伏した。懐妊に気づいてから、どれだけ思い悩んできたことか。わが身を処する道に窮して、一途に母を求めて帰ってきた。が、母に問いつめられると、世祢は、秘めてきた事柄のあまりの重さに堪えかねてすすり泣いた。宇能は声をおさえた。
「おなかの子の父は……その男はついてこなんだんか」
「東京へ……もう京へは帰らはらへん。あちらで奥さまを……」
「子のでけたん知って、捨てて逃げくさったか」と、吉松は顔色をかえた。
「知ってはらへん。母さん、そんなお方やないのや」
「あほんだら」
頭から吉松が怒声をあびせかけた。
「そんなお方もへったくれもあるけえ。何さまか知らんが、腹の子の父親なら、江戸でも蝦夷でも行って、わしが連れもどしてきちゃるぞ。ええか、お世祢、びすびす泣かんとけ。俺があんじょうしたるわい」
激昂しながら、父も母も姉に聞かせまいと、つとめて声は低い。世祢は高ぶる感情を必死におさえて、涙をはらい、坐り直した。
「東京へお移りにならはる前の日に、伏見までお使いがこれを届けてくれはったん……」風呂敷をとき、母の前に押しやった。白綸子の、目をみはるばかりあでやかな小袖に見慣れぬ横見菊車の紋が一つ。それに……宇能は声をのんだ。錦の袋にくるまるのは、一振りの白木の短剣ではないか。
「これは、うちの守り刀にと……それにこの金子も……」
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平成天皇が堂々、天皇家の祖先は朝鮮から来たんだと記者会見で言って、驚かされたが、つまり祖母の貞明皇后が朝鮮系であることを述べていたのだと思われる。
いずれにせよ、かように日本上層部は、民族的怨念と覇権を巡っての暗闘を続けているのであって、現在の自民党や野党政党の争いとか、霞ヶ関の官僚の争いも、そうした背景を知らねば解明はできないものと思われる。
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裁判長:この事件は結社の組織罪が問題だ。たとえお前が死んでも結社を認めさえしなかったら、部下達は助かったかもしれぬ。お前の答弁を聞いていると、自分が助かりたいやり方に聞こえる。宗教家としてよいのか?
王仁三郎:禅宗の問答に<人虎孔理に墜つ>と言って、穴に落ち込んだ人がどうすべきかという問答がある。人間より虎の方が力が強いから、逃げてもじっとしても跳びかかって殺される。一つだけ生きる道がある。こちらから喰わしてやらねばならぬ。後に愛と誇りを残すのが、宗教家としての生きる道だ。
裁判長:その点はもうそれで宜しいと追求を打ち切った。
大本を弾圧した権力を虎にたとえ、教団や王仁三郎自身を虎穴に落とされた人にたとえて、予審で無理矢理、署名捺印された状況・弾圧に対する自己の態度を述べた。
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わが恋は深山の奥の草なれや
茂さまされど知る人ぞなき
裏を返して、あっと小さな叫びを上げた。印と花押の上に力強い筆致で記された御名を、宇能は知っている。宇能の叔父中村孝道は高名な言霊学者であり、女ながら、その素養の一端を受けついだ彼女であった。勤皇の志あつい叔父孝道から、幾度もその御名を聞かされていた。
蛤御門の変により、その方は先帝のお咎めを受け、輪王寺の里坊に蟄居の身であられたことがある。そのころ、伏見の弟がその御不自由をお助けするためひそかにお出入りしているのを、宇能はそれとなく察してはいた。
――でも、その高貴なお方が田舎娘の世祢を……まさか……。
信じられぬ惑いのうちから、宇能の脳裡に鮮烈に浮き上がる光景があった。
昨年、即ち慶応四(一八六八)年の二月十五日、世祢に会いに伏見の弟の船宿を訪ねた翌日であった。京の町々は、錦旗節刀を受けて江戸へ進発する親王を見送らんとする人々で、異様な興奮にわき立っていた。御所宜秋門から下る街道の町なみは、ぎっしり人の波であった。湧き上がる横笛と大太鼓、小太鼓の音が、踊るように響き渡る。
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街道は、人々の唱和する歌声にうずまった。長州萩藩士の品川弥二郎作詞、井上馨の愛人、祇園の君尾作曲の、この六番からなる、「都風流トコトンヤレ節」は、すでに出陣前から木版でばらまかれ、京の人々の愛唱歌であった。先頭をきるのは、周山に近い山国勤王隊の斥候銃隊。黒い筒袖の軍服に白鉢巻、白腹帯をしめ、赤い赭熊の毛を肩にたらして威風堂々。続く銃隊に守られて錦旗二旒、錦旗奉行二名が騎馬で行く。萌黄緞子十六葉菊の旗一旒。人々のざわめきは一瞬なりを静め、赤地錦の御馬標のもと、二十余名の幕僚、諸大夫を従えた大総督の宮を仰ぎ見た。
「ほんまに御立派どすなあ。見とみやす。あの若宮さまが官軍の総大将で江戸へ行かはる。西郷はんを参謀に連れとってどっせ」
白鹿毛の馬上豊かに緋精好地の鎧直垂、烏帽子姿の凛々しい親王は、宇能の眼に眩しいばかりであった。思わず手を合わせ、拝していた。
――あの時のあのお方が、有栖川宮熾仁親王さまが世祢の子の父。
宇能は絶句した。
「どうや、梅吉、上田吉松はんの家、婿を捜しとってんやが、お前、なる気はないけ」
主人の斎藤庄兵衛から不意に縁談を持ち出され、膝小僧をそろえた佐野梅吉はきょろんとした顔色であった。
「上田はんも今は貧乏しとってやが、昔はたいしたこっちゃで。家柄かて立派なもんや。さっき、お宇能はんがお須賀に頼みに来やはってのう。」
「よい話やんかいさ。うちかて、近所の家を梅吉が継いでくれたら、気心知れた仲やし、なにかと便利やもん……」と、妻女の須賀が口をはさんだ。
――あんまりや。ぶす(不器量)やし、体かて弱いし、それに俺よりだいぶんと年上やんか。
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当局はクーデターの危機感から弾圧したのに、公判では教義に焦点を絞り、治安維持法で国体変革の教義と結社の事実を証明しようと焦った。
裁判長:みろく大祭後、リンゴ三つとったのは<日地月合わせて作る串だんご、星の胡麻かけ喰らう王仁口>の歌と考え合わせたら、妙な解釈が出来んかねと真面目に問いかけた。
王仁三郎:リンゴ三つですから、三リンです。仏の教えで身輪・口輪・意輪の三輪で、身体・口・心の戒律の事で、宗教家として守ろうとして。リンゴ三つ取りました。
裁判長:それでは、妻に大根をやった意味はどうかね?
王仁三郎:仏の教えに大根大機の菩薩、六度百行首榲限定を与うとある。人に二十二根あり、大本では代々女が教主で、役員信者に大根大機で利益せねばならぬという意味です。もう一つの意味は、私は入り婿で女房にあたられる亭主は嫌なもの、大根はなんぼ食べても腹が痛まぬし当たらぬもので、女房にちとあたらぬようにして呉れという事です。
法廷に笑いが漏れ、裁判長は<漫才みたいなことを言うな>と怒りっぽく注意した。
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