松本零士の『銀河鉄道999』で星野鉄郎がたどり着いた惑星大アンドロメダは「天国とも地獄ともとれる壮大な機械化世界の首都」でした。鉄郎は機械の体を得て永遠の生命を得ようとしていましたが、旅の途中で見た機械化人たちの醜さに、次第に考えを変えてゆきます。
手塚治虫の『火の鳥』も似たテーマで、未来編では人類は地下に潜り、巨大なコンピュータの支配を受け入れます。計算通りに核戦争が起こり、山之辺マサト以外の人類は滅び、彼は孤独に人類の復活を待つことになります。
三島由紀夫は少し変わっていましたが、「日本」がなくなり、抜け目がないだけの空しい人々に埋め尽くされる未来を拒否して死んでゆきました。
やはり彼らは未来を正しく予見していたなと思わざるを得ません。グローバリズムが唯一の正義になり、あらゆる国家が崩壊し、一部の者たちが支配するディストピアが見えてきています。
これからどうなるか不安ですが、こうした表現活動は続けていこうと思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
手塚治虫の『火の鳥』も似たテーマで、未来編では人類は地下に潜り、巨大なコンピュータの支配を受け入れます。計算通りに核戦争が起こり、山之辺マサト以外の人類は滅び、彼は孤独に人類の復活を待つことになります。
三島由紀夫は少し変わっていましたが、「日本」がなくなり、抜け目がないだけの空しい人々に埋め尽くされる未来を拒否して死んでゆきました。
やはり彼らは未来を正しく予見していたなと思わざるを得ません。グローバリズムが唯一の正義になり、あらゆる国家が崩壊し、一部の者たちが支配するディストピアが見えてきています。
これからどうなるか不安ですが、こうした表現活動は続けていこうと思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
コメント
コメント一覧 (17)
国家は常に盤石不動なる大哲学上の根底にありて、其の興隆を致すものなり。プラトンの理想国が、帝王を以て大哲学者たるを要すと説ける所以は実に此に在り。大哲学の根底は大倫理の母にして、大宗教の素因たり。大哲学、大倫理、大宗教が、相一致して系統あり、組織ある精華を発揮する国家これを理想の国家と謂ふなり。故に大哲学、大倫理、大宗教の確立なき国家は、如何に隆昌膨大を致すと雖も、其の国家の運命の脆弱なること硝子よりも危し。大哲学、大倫理、大宗教の確立は、国民をして大元気あらしめ、大奮励あらしめ、真摯にして至誠、忠実にして勇奮、死を賭し国家に尽して顧る所なし。国家、為に日に月に隆乎として悠久なるのみ。というところに特にご注目いただき ブルーブラッドの国家間と比較してください。いずれにせよ理想国家を語るにはプラトンは欠かせないですね。
capelaurig
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この地上には多くの国があり、さまざまな民族とその歴史がある。だからこそ世界はおもしろいし、世界旅行の楽しみも増す。だがそのためにたくさんの宗教が生まれて戦争の原因になったり、民族間の争いの種になったりしているが、その切磋琢磨から文明の進歩が起こり、発展を遂げてきたともいえる。
王仁三郎は日本の国と日本民族に特殊な使命を見る。まずその形成過程から語ろう。大昔の日本は中国大陸と陸続きになっていて、日本海はなかった。また太平洋も今のような大海原ではなく陸続きになっていて、日本という形はまだできていない。
ところが積年の邪気が地上を混濁させ、ついには邪神たちの思うままに地上界が荒れ果ててしまったために、艮(東北)に封じ込められていた地球霊界の祖、国常立尊の怒りが爆発した。その結果、天変地異が起こって日本海とともに太平洋が陥没し、いちばん強い部分が龍の形として取り残された。
その形は地上が泥海であった原初の国常立尊の龍体そのものであり、その大きさも同じであったと言われる。そしてその島を自転倒(おのころ)島と名付け、世界の胞衣(えな)としての役割を担うことになった。その国が日本である。
capelaurig
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capelaurig
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イタリア団体旅行を行なった。サルジニア島(イタリアの西部に位霞する島で、コルシカ島の南部)を訪問した。サルジニアは大本歴史の中で非常に大事な地位を占める神島(高砂沖)に相応しているからである。私は現地でサルジニアの島の地図を見て、神島とそっくりだったことに改めて驚いたものだ。
また琵琶湖はカスピ海に、十和田湖はバイカル湖に、瀬戸内海は地中海に相当し、それぞれ細かい地形にも相応する場所を見つけることができる。このことからも日本が世界のひな型であると考えられよう。
出口直の筆先は「大本は世界のかがみ」と示す。かがみには、ものの像を写すパッシブ(受動的)な鏡と、武士道の鑑というようにアクティヴ(能動的}な鑑がある。ひな型というのは、能動的な鑑のことである。世界であったことは日本に写り、日本にあったことは大本に写るというのは、受動的な鏡である。また大本で起こったことは日本に、そして世界に移るというのは能動的な鑑である。
capelaurig
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言霊が多ければ多いほど、考え方のひだがたくさんできよう。ある出来事が起きた場合にも、いろいろな方面からそのことについて検討し、解決策を探すことが可能になるはずであるからである。
現在の日本人がそうなっていないのは、言霊を正しく使っていないか、あるいはその言霊を発生する魂が矮小化しているかのどちらかであろう。
capelaurig
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「園のすべての木の実は好きなように食べてもよいが、善悪を知る木の実だけは食べてはいけない。これを食べれば死ぬだろう」
と告げる。次に神は、アダムの妻としてイヴを創る。アダムとイヴは裸で暮らしても、少しも恥ずかしいとは思わなかった。
野の生物の中でももっとも狡猾な蛇が、イヴに禁断の木の実を食べるようすすめる。イヴは誘惑に負けて木の実を食べ、アダムにもすすめる。木の実を食った二人は、裸であることが恥ずかしくなり、イチジクの葉で体を隠すようになった。アダムとイヴは禁断の木の実を食べたことで神の怒りにふれ、園を追放される。
キリスト教では、絶対的な基準を神に求めるから、キリスト教における罪はすべてこの堕罪の物語に発する。旧約聖書においては、アダムが神の意志に反する行為をしたことにより罪と死がこの世に到来したとされ、全人類は生まれながらに罰を受けるべき「罪の子」。これが原罪である。
新約聖書では罪の意味が内面化され、深められ、罪の悔い改めとともに、神の思寵による罪からの救済が説かれる。
王仁三郎はアダムとイヴの物語にオーバー-ラップさせて説く。アダムとイブが現れた地球の自然界は、時間や空間に支配された三次元の世界である。力あるものははびこり、弱きものは滅びる世界だ。そこに自然界を統一し、調和ある善と美の世界を地上にもたらすために、神はこの三次元界の物質の法則にのっとった有限の体に無限の霊魂を満たして霊止(ヒト)とし、その陰陽二人を人類の祖としてエデンの園に下した。男を天足(あだる)彦、女を胞場(えば)姫という。
capelaurig
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capelaurig
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どんなに最初は清い炎でも、繰り返されることにより微かに立ちのぼる煤がある。同じように、澄みきり澄みきったスの言霊から始まった現界も、時を経て混濁の気が生じてきた。それが時とともにエデンの園にたまって邪気となり、霊主体徒であった神木に体主霊従(ちしき)の果実を結んだ。
神は二人に向かって「その実を食べてはいけない」と厳命し、その性質を試した。しかし、二人は体的欲望に勝てず、その実を食べて神の怒りに触れる。その後、地上世界は体主霊従に傾き、神の世界も人の世界もともに混濁していった。後に起きるノアの方舟で有名な大洪水も、元はといえばここにその発端があるといえよう。
エデンの圏の神話によれば、神が人間を試し、その結果、人が罪を犯すことになったのだが、そうだとしても、王仁三郎はそれも神の大きな経論の一端だととらえる。それは神が人間の本来あるべき姿、善も悪も内包している魂にするために敢えて知識の実を食べさせたのだと解釈している。もしそれがなかったら、人間はいつまでも原始人のままで成長することはなかったろうし、善もでき、悪もできるなかで善を選ぶ喜びを味わうこともなかったにちがいない。
capelaurig
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そして大本5代教主として出口直子様(73才)が継承されました。
明日招魂式、明後日告別式を近親者のみの密葬という形で行います。
後日御葬儀は行われます。
取りあえずご報告させて頂きます。
capelaurig
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善と悪とは対称的なものであり、善がなければ悪の概念も生まれてこない。例えば、烏が害虫を食う。烏たちは人のために善を行なったという意識はみじんもない。なぜなら彼らにとっては”善”も”悪”もなく、ただ生きるための行為があるだけだ。
人聞がぜひ純潔を守らねばならぬものなら、神は人聞を性的不能に創られたら良かった。だがそれでは、人類は子孫を残すことはできないし、生きる喜ぴすら半減しよう。身体の一部分に釘を打ったとき、その釘を抜くことはできるがその痕跡は残る。それがキリスト教でいう原罪である。
だが王仁三郎は原罪説を否定する。どんな罪であれ、真剣に反省し、神に祈ればその罪はきれいに消して下さる。だからこそ神はありがたいのだと教える。
顕の顕であるこの世界、地上の物質界はもともと体主霊従につくられている。肉体の欲望が優先することで、成長を促す世界でもある。そこで霊魂と体とのせめぎあいが起こるが、人聞が神に代わって人智を得、それに奢っていったのも必然といえば必然なのかもしれない。
capelaurig
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