『古事記』によると、ホオリノミコト(山幸彦)が海神の宮で出会ったトヨタマヒメの正体は巨大なワニであったとされています。この「ワニ」については、爬虫類のワニが日本に生息していないことから、魚類のサメのことであるという説もあります。しかし、トヨタマヒメが出産時にワニの姿になり「匍匐委蛇」(腹這い、蛇のようにうねった)という『古事記』の記事を見ると、これはサメではなくワニと考えざるを得ないように思われます。因幡の白兎の話にも「ワニ」が出てきます。
「委蛇」という文字からは、57年に後漢の光武帝が倭奴国王に与えたとされる「漢委奴国王」の金印が想起されます。江戸時代に志賀島から出土したこの金印には蛇をかたどったツマミが付いています。おそらく偶然の類似でしょうが、倭の名前の由来に関係があるのかもしれません。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
「委蛇」という文字からは、57年に後漢の光武帝が倭奴国王に与えたとされる「漢委奴国王」の金印が想起されます。江戸時代に志賀島から出土したこの金印には蛇をかたどったツマミが付いています。おそらく偶然の類似でしょうが、倭の名前の由来に関係があるのかもしれません。
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コメント一覧 (22)
王仁三郎の思想を伝えてほしいという要望である。日本人に話してもなかなかわかってもらえない王仁三郎の思想を、カソリックの国であるイタリアの人たちに通訳を介して話しても果たして理解してもらえるだろうかと、不安であった。
私はアダムとイヴの話から始めた。
「王仁三郎はこういうことを言っている。現行刑法でさえ、親の罪は子に及ばない。まして遠い始祖のアダムとイブの罪を人類が背負ってたまるかと」
続いて王仁三郎の歌を紹介する。
世人みな罪の子なりとをしへたる 教うべなひて魂を弱らす
やがて激しいブーイングが起こる。子供の頃からキリスト教で育った彼らには、人は「罪の子」というのが常識で、それを疑う下地すらなかった。頭から雷が落ちたような驚きだったろう。しかしひとしきりざわついた後は、しんと静まり返った。とんでもない異説をじっくり聴いてとっちめてやろうと身構える人もいたろう。後は砂漠に水が吸い込まれるように、王仁三郎の教えが受け止められるのを感じた。
capelaurig
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『救世主が最早再誕されたと仰有るのですか。大聖主メシヤたる可き神格者には九箇の大資格が必要ですが、左様な神格者は容易に得られますまい。先づ第一に、
一、大聖主は世界人類の教育者たること
二、其教義は世界的にして人類に教化を齎すもの成ること
三、其智識は後天的のものに非ずして自湧的にして自在なる可きこと
四、彼は所在賢哲の疑問に明答を与へ、世界の所在問題を決定し、而して迫害と苦痛を甘受す可きものなること
五、彼は歓喜の給与者にして、幸福の王国の報導者なる可きこと
六、彼の智識は無窮にして、理解し得べきものなる可きこと
七、其言説は徹底し、其威力は最悪なる敵をも折伏するに足るの人格者なる可きこと
八、悲しみと厄難は、以て彼を悩ますに足らず、その勇気と裁断は神明の如く、而して彼は日々に堅実を加へ、熱烈の度を増可きこと
九、彼は世界共通の文明の完成者、所在宗教の統一者にして、世界平和の確定と世界人類の最も崇高卓絶したる道徳の体現をなす可き人格を有すること 以上
ではその要件を満たす者は誰かということの質問を多くの人に聞かれているのです。救世主とは世界を救うために天から地へおりてきたひとなのです。そして救世主であるからには必ず証拠を求められます。男女どちらでもいいと思いますが。
それに対して霊界物語64巻上の中で高砂島から来たブラバーザは救世主は再臨しているとし、こういうお話をするわけです。
『先に貴師は九箇の大資格を羅列して説明下さいましたが、其大資格者に私は朝夕接従して居りましたから、大略申し上げて見ませう。虚構も誇張も方便も有りませぬから、そのおつもりでお聞きを願ひます』
capelaurig
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capelaurig
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汽車は早くもユデヤの高丘を足重たげに刻みて上り行く。
『私のメシヤと云ふ人格者は目下高砂島の下津岩根に諸種の準備を整へて居られます。そして其名はウヅンバラ・チヤンダーと謂つて、実に慈悲博愛の権化とも称すべき神格者です。世界人類に対して、必須の教育を最も平易に懇切に、施し玉ひつつあるのです。故に宗教家も教育家も、政治家も、経済学者も、天地文学者も軍人も職工も農夫も皆訪ね来つてそれ相応の教を受け、歓んでその机下に蝟集して居ます。如何なる難問にも当意即妙な答を与へられ、何れも満足して居ります。是が只今貴師の仰せられた第一の資格たる「大聖主は世界人類の教育者たるべきこと」の条項に匹敵するやうに思ひます』
『成程御尤もです』
と頭を三ツ四ツ振つてうつむく。
『ツルク大聖主が伊都の御魂と顕はれ玉ふて、三千大千世界一度に開く梅の花の大獅子吼を遊ばしましたが、此御方は約りヨハネの再臨だと信じられて居られます。そして基督とも謂ふべき美都の御魂の神柱、ウヅンバラ・チヤンダーと云ふ聖主が現はれて、世界的の大教義を宣布し、凡ての人類に教化を与へたまひ、今や高砂島は言ふに及ばず、海外の諸国から各種の宗教団体の教主や代表者が、聖主を世界の救世主と仰いで参り、其教義の公明正大にして且つ公平無私なるに感化され、日に月に笈を負ふてその門下に集まつて来て居ります。今貴師の仰せになつた第二の大資格たる
「その教義は世界的にして人類に教化を齎す可きものなること」の条項に合致するものでは有りますまいか』
『御尤もです。第三の資格に合致した点の御説明を願ひます』
capelaurig
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顔と容姿が似ています。。今の天皇家はバラバラです。よく会話してるなと感心します。
capelaurig
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「その智識は後天的のものに非ずして、自湧的なる可きこと」に合致するぢやありませぬか』
『ヘエー、何と不思議な方ですな。それこそ真正の大聖主メシヤですな』
『それから瑞の御魂の聖主は、あらゆる賢人哲人の疑問に対し、即答を与へて徹底的に満足せしめ、且つ世界に所在種々の大問題に対し決定を与へ、種々雑多の迫害と苦痛を甘受し、常に平然として心魂にも止めず、部下の罪科を一身に負担して泰然自若、日夜感謝の生涯を送つて居られるのです。如何なる迫害も苦痛も聖主に対しては、暴威を振ふ事は出来ないと見えます。是が第四の条件に匹敵せる大聖主の資格の一ではありますまいか』
capelaurig
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capelaurig
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『聖主は実に歓喜の給与者とも云ふべきウーピーなお方です。如何なる憂愁の雲に閉されたる時にも、聖主の御側に在れば忽ち歓喜の心の花が開きます。そのお言葉を聞けば直ちに天国の福音を聞く如く、楽園に遊ぶが如く、何事も一切万事忘却し、歓喜の情に溢れ、病人は忽ち病癒え、失望落胆の淵に沈むものは希望と栄光に充たされ、一刻と雖も御側を離るる事が出来ない様な気分になつて了ひます。又身魂共に至幸至福の花園に遊び、天国を吾身内に建設する様になつて了ひます。実に仁慈と栄光との権化とも云ふべき神人で御座いますよ。斯くてこそ三千世界の救世主だと思ひます。次に第六の資格としては、聖主の深遠宏大なる内分的智識です。その深遠なる智識に由つて、無限無窮に人類の身魂を活躍せしめ、老若男女智者愚者の区別なく、直に受け入るる事の出来る自湧の智識と言霊を用ゐて衆生を済度されます。それ故、一度聖主に面接し又はお言葉を聞いたものは、決して忘れる様な事はなく、且つ時々思ひ出して歓喜に酔ふのです。婦女や愚人にも理解し易く、且つ宏く深き真理を、平易に御開示下さいます。
また第七の資格としては、過去現在未来に渉る一切万事の解説は、終始克く徹底し、前人未発の教義を極めて平易に簡単に了解し易く説示し、内外種々の反抗者や圧迫者に対しても、凡て大慈大悲の雅量と神直日大直日の神意に従ひ敵を愛して、終には敵をして心底より悦服せしめ、善言美詞の言霊を以て克く言向和し、春野を風の渡るが如くその眼前に来れるものは、一人も残らず善道に導きたまひ、自己に対して種々の妨害を加へ災厄を齎したる悪人に対しても、聊かの怨恨を含まず、貴賤老幼の別なく慈眼を以て見給ふ所は、第七の大資格に合致して居られる様に思ひます。
capelaurig
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『聖主は人類愛善は言ふに及ばず、山河草木禽獣虫魚の端に至るまで博く愛し玉ふことは、平素の行動に由つて一般信者の崇敬感謝措く能はざる所です。凡ての宗教に対し該博なる観察力を以て深く真解を施し、生命を与へ、以て世界の宗教の美点を揚げ、抱擁帰一の大精神を以て対したまひますが故に、凡ての宗教家の白眉たる人士は雲の如く膝下に集まり、何れも皆満足をしてその教を乞ふて居ります。世界平和の確定と宗教の統一、世界共通的文明の建設者にして、最も卓絶したる真善美の道徳体現者だと信じます。やがて時来らば、天晴メシヤとして万人に仰がれ玉ふ時が来るであろうと、私共は固く信じて疑ひませぬ。アブデユル・バハー大聖主の再来か、その聖霊の再現か、何れにしても暗黒無明なる現社会の光明だと信じて止まないので御座います』
『いろいろと御懇切なる御説示に預かりまして、私も大に得る所が御座いました。どうやらエルサレムに着車した様ですから、茲で御別れ致しませう。私はパレスタインの或る高丘に、大聖主の後嗣が居られますので、一寸御訪ねいたし、再び橄欖山上にお目にかかり、結構なる御説示を蒙り度いと存じて居りますから、今後宜敷く御指導を願ひます。そして私はアメリカンコロニーへ訪問したいと思つて居ります』
capelaurig
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静けさや ネットに響く 民の声 (ふ64)
声合わせ 原発やめりゃ 一安心 (落葉)
トリチウム 流すなの声 高々と (海海海海海)
官邸に 反原発の 声とどけ (乾草)
何事も 菅の一声 道理なし (柚っ子)
特選
汚染水 魚の怒声 聞こえぬか (まごじい)
「楽」の秀句
音楽で 民を操り 戦争へ (ふ64)
楽々と 原子力など 吹き飛ばせ (海海海海海)
有意義な 楽しい会話 座り込み (柚っ子)
菅答弁 理解するのは 楽じゃない (乾草)
Go To で 楽して稼ぐ 新総理 (ふ64)
特選
人の世は 楽を願って 幾千年 (落葉)
capelaurig
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創造の”からくり”を説く
王仁三郎は、「神は宇宙の活動力」という。そして宇宙剖判から創造の模様の数十億年を、超早送りで神から見せられている。
宇宙成立以前の天もなく地もない遙かな昔、大虚空(こくう)があった。すなわち「無」の時代である。西洋哲学の伝統の中では、「無から何ものも生じない」と考える。だが中国では、老子によって無の思想が始まり、西田哲学は絶対無を説いた。王仁三郎もすべてのものは無から始まると説く。
龍樹菩薩は空を説いた。空というのは神または霊ということである。目に見えず耳に聞こえぬ世界であるから、空というのである。空相は実相を生む。霊より物質が生まれてくることを意味する。無より有を生ずるというのも同じ意味で、神がすべての根元で森羅万象を生ずるのである。
霊が先であり、体が後である。
家を建てようという思いは外的に見て空である。けれどもその思いの中には、ちゃんと立派な建造物ができ上がっているのである。ぞれがやがて設計図となって具体化する。
さらに木材の蒐集となり、組立となり、ついに実際の大厦高楼(たいかこうろう)が現出する。空相が実相を生み、無より有が生じたのである。
真如実相という意を聞〈のか。真如は神、仏、絶対無限の力をいうのであるから、前と同じ意味である。実相は物質的意味である (『月鏡』「空相と実相」)。
そして王仁三郎は、幽(無)から顕(有)への発展過程を四つの段階に分けて説明している。
幽の幽(無の無)
幽の顕(無の有)
顕の幽(有の無)
顕の顕(有の有)
capelaurig
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