日本の古代豪族で和珥(または丸邇)氏という氏族があります。例によって謎だらけの氏族ですが、山尾幸久氏は『魏志倭人伝』という著書の中で次のように書いています。
ワニにはいろいろのあて字があるが、このウジ名の由来はわからない。少なくとも、トーテミズムによる説明には疑問点が多い。もっと直截(ちょくせつ)に、その本流は楽浪郡の土着漢人豪族の王(ワン)氏とみるのに、筆者は最も魅力を感じるのだ。
ワニ氏についてはトーテミズムで説明されるのが一般的ですが、応神朝に来日して論語と千字文を伝えたとされる王仁(ワニ)については、楽浪郡の王氏と見られています。この場合は名前に「王」の字が入っているからでしょう。
前に投稿したトヨタマヒメがワニになったという神話も、彼女が王氏であった史実の反映かもしれません。父の海神・豊玉彦を含め「玉」の字が入っていることからもそれが考えられます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
ワニにはいろいろのあて字があるが、このウジ名の由来はわからない。少なくとも、トーテミズムによる説明には疑問点が多い。もっと直截(ちょくせつ)に、その本流は楽浪郡の土着漢人豪族の王(ワン)氏とみるのに、筆者は最も魅力を感じるのだ。
ワニ氏についてはトーテミズムで説明されるのが一般的ですが、応神朝に来日して論語と千字文を伝えたとされる王仁(ワニ)については、楽浪郡の王氏と見られています。この場合は名前に「王」の字が入っているからでしょう。
前に投稿したトヨタマヒメがワニになったという神話も、彼女が王氏であった史実の反映かもしれません。父の海神・豊玉彦を含め「玉」の字が入っていることからもそれが考えられます。
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コメント
コメント一覧 (16)
出口王仁三郎はワニでなく、オニと読むと語っています。。
capelaurig
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高皇産霊神も神皇産霊神も、天之御中主神の活動に合わせて発生する霊体二元の働きを表現した神名である。三神でありながら一神、一神でありながら三神という三位一体の関係にあり、造化三神と言われる。また三つの身魂、すなわち瑞の身魂という。
さらにウの言霊は活動を続ける。上に昇りつめてアの言霊を生み、さらには下にくだってオの言霊を生む。ここに天の言霊であるア、オ、ウ、エ、イの五大父音が生まれる。五十音の五大母音にあたる。
さらに七十五声の一言霊が生まれ、それぞれが相和して鳴り響く。言霊のビッグパンである。これにより宇宙間に精気が発生し、精気から電子が生まれ、電子が発達して電気が発生し、動・静・解・凝・引・弛・合・分の八力が完成する。
こうして霊界が形成されるが、幽の顕の段階で、まだ現界はできていない。
capelaurig
が
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capelaurig
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教団「大本」は新興宗教の元祖といわれるが、大本から派生した新興宗教・新新興宗教は数多く、大正・昭和の歴史の裏面でもはかり知れぬほど大きな影響を与えてきた。だが王仁三郎は宗教家と呼ばれるのを嫌い、みずから世界改造業者と自負した。世界改造のためには、まず人間を改造せねばならぬから、同時に人間改造業者でもある。
王仁三郎については、屹立(きつりつ)したカリスマ性、確言といえる予言、超能力、けたはずれの作歌の数、耀盌に代表される芸術性などが次第に評価されてきた。だが思想家としての王仁三郎はほとんど知られていない。
王仁三郎の思想は、大宇宙の根源力たる神が存在し、霊界が実在するという前提に立脚して展開する。同時に霊界と合わせ鏡である現界もなおざりにはしない。霊界と現界の両方に足をふんばりつつ、独自の世直し思想を展開して行く。
神とか霊界とかいえば、それだけで身構える人が多い。それは多くの宗教団体の犯したさまざまな不祥事件の影響にもよろう。そして多くの人たちが無神論者であることに一種のエリート的誇りを持つ。だが王仁三郎は、
「自分で無神論者だと思いこんでいるだけで、心の底からの無神論者は少ないという」という。
capelaurig
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また宗教の名によって迷信がはびこり、金がかき集められ、豪華な殿堂伽藍が作られ、政治に利用されて教団が集票組織になるなど、宗教団体の与えた弊害は余りにも大きい。まともな神経なら反宗教になるのは当然であり、宗教憎さのゆえに宗教団体が鰹節(だし)にする神を否定したくなる。だが宗教団体がいかに堕落しようと、神の実在とはかかわりない。
記紀やギリシャ神話の神々のように、神を人格的存在とし、狐や狸などの低級霊まで神にまつりあげる。天皇を現人神(あらひとがみ)としたり、戦死者を神として靖国神社に祀ったり、これでは宗教アレルギーになってしまうのも無理はない。
世界の人口の大きな比率を占める仏教も、神を認めない。その代わり、宇宙の大理法(大きな法則)を仏とする。だから神仏の概念も種々雑多である。王仁三郎の思想を知るには、まず神の定義が必要であろう。
capelaurig
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宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり。
(『霊界物語』六七巻六章「浮島の怪猫」)
王仁三郎のいう神とは、宇宙の活動力である。科学もまた宇宙の活動力を研究する。ただ王仁三郎のいう活動力と科学の研究対象である活動力との根本的なちがいは、それに「意志」を認めるか否かだ。
科学では意志をみとめない。活動力に意志がないというのではない。「この風はどんな気持ちで西から東へ吹くのか」とか、「この花はどんな気持ちで咲いたのか」と考えていたのでは、科学は成立しない。そこで前提として、意志を無視するところから始まる。王仁三郎のいうように、神が宇宙の活動力だとすれば、仏教でいう宇宙の大理法と同じで、ここにおいて無神論者はいなくなる。
「神が宇宙の活動力ならば、活動力さまと言って拝めばいい。それをなぜ”神”ともったいぶった名をつける必要があるのか。そこに宗教の欺瞞がある」
という反論もあろう。だが言葉の表現には限界がある。
例えば「人」という言葉にしても、実は何も説明していない。もし正確に言うならば、二本足で歩く哺乳動物」とでも言うほかはあるまい。「母」なる言葉も曖昧で、義理の母もあれば、育ての母もある。「私を生んでくれた女性」というしかない。
「父」 はもっと曖昧で、本当の父かどうかは母しか知らぬ。だから正確に表現しようとすると、「私を生んだ女性に私を生ましめた男性」というよそよそしさになる。「活動力」では、神の持つ神変不可思議な力や絶対善、絶対愛なる存在とはほど遠く、血の通わぬ死体を見るようなイメージになろう。結局は「神」というしかあるまい。
capelaurig
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王仁三郎は、「神は宇宙の活動力」という。そして宇宙剖判から創造の模様の数十億年を、超早送りで神から見せられている。
宇宙成立以前の天もなく地もない遙かな昔、大虚空(こくう)があった。すなわち「無」の時代である。西洋哲学の伝統の中では、「無から何ものも生じない」と考える。だが中国では、老子によって無の思想が始まり、西田哲学は絶対無を説いた。王仁三郎もすべてのものは無から始まると説く。
龍樹菩薩は空を説いた。空というのは神または霊ということである。目に見えず耳に聞こえぬ世界であるから、空というのである。空相は実相を生む。霊より物質が生まれてくることを意味する。無より有を生ずるというのも同じ意味で、神がすべての根元で森羅万象を生ずるのである。
霊が先であり、体が後である。
家を建てようという思いは外的に見て空である。けれどもその思いの中には、ちゃんと立派な建造物ができ上がっているのである。ぞれがやがて設計図となって具体化する。
さらに木材の蒐集となり、組立となり、ついに実際の大厦高楼(たいかこうろう)が現出する。空相が実相を生み、無より有が生じたのである。
真如実相という意を聞くのか。真如は神、仏、絶対無限の力をいうのであるから、前と同じ意味である。実相は物質的意味である (『月鏡』「空相と実相」)。
そして王仁三郎は、幽(無)から顕(有)への発展過程を四つの段階に分けて説明している。
幽の幽(無の無)
幽の顕(無の有)
顕の幽(有の無)
顕の顕(有の有)
capelaurig
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この世で起こることのすべてが、このような段階をへて顕在化する。
さて本論に戻ろう。。
まったく何もない宇宙の大虚空(幽の幽)に、忽然と葦芽(あしかび)(葦の若芽(わかめ))のような一点の、「、」ほちが現れ、「、」は次第に拡大して一種の円形Oを作る。そのOは湯気よりも煙よりも霧よりもかすかな神明の気を放射していき、Oを包んで◎の形になる。宇宙誕生の瞬間である。
これが宇宙の大元霊、主神の幽の幽の状態であり、古事記では、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という。主神の静的状態にある時は、時間・空間を超越している。時間・空間がないのではなく、またあるのでもない。その観念の起こるべき素因がないのだ。
capelaurig
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◎は最初に人間の耳には聞こえない幽(かす)かな、微(ほの)かな「ス」という言霊を生む。言霊とは、言葉に宿っている霊妙な力のこと。そのスの言霊がどこまでもス-ス-ス-と伸ぴ広がり、ふくれ上がってウの言霊を生む。このウの言霊は嶋り鳴りて鳴り極まるところ、上にのぼって神霊の大原子である霊素が発生する。
これが古事記でいう高皇産霊神(たかみむすびのかみ)である。またウの言霊は下がっては物質の大原子である体素を醸成する。あらゆる物質の体を生み出す根源の言霊であり、古事記に示す神皇産霊神(かんみむ すびのかみ)である。
霊素・体素をかもし出したウの言霊は万有の霊と体を生み出す根元であり、ウの言霊を生み出したスの言霊はさらにその総根源である。
言霊学では、霊はヒ、チであり、体はカラ、カラタマを指す。また人は霊を止める存在だから、霊止(ヒト)という。またこの宇宙には、産霊(結び)という奇ぴな働きがある。
capelaurig
が
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