天孫降臨神話の主人公ニニギノミコトと日本に帰化した新羅の王子アメノヒボコは、全く別の人物(神)と考えられています。しかし、この二人は同一人物の可能性があります。
ニニギノミコトは略称であり、『古事記』での名前はアマツヒコヒコホノニニギノミコトです。繰り返されている「ヒコ」を一回に縮めるとアマツヒコホノニニギノミコトとなり、「アマツヒコホ」は「アメノヒボコ」に似ています。
ニニギノミコトの子であるホオリノミコト(山幸彦)と、その孫である神武天皇は『日本書紀』ではヒコホホデミという同名の人物になっています。この「ヒコホ」も「ヒボコ」に似ており、もはや地上の人物であるため「アマツ」が落ちたと考えられます。
以前の投稿で神武天皇の母と祖母が楽浪郡の王氏である可能性を指摘しましたが、朝鮮半島の任那(加羅)にあったとされる金官国の始祖・首露王にも降臨伝説があり、後漢の光武帝の時代とされています。首露王は百五十八年間在位したと伝えられていますが、ホオリが高千穂宮に五百八十年間いたと『古事記』が伝えるのと関係があるかもしれません。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
ニニギノミコトは略称であり、『古事記』での名前はアマツヒコヒコホノニニギノミコトです。繰り返されている「ヒコ」を一回に縮めるとアマツヒコホノニニギノミコトとなり、「アマツヒコホ」は「アメノヒボコ」に似ています。
ニニギノミコトの子であるホオリノミコト(山幸彦)と、その孫である神武天皇は『日本書紀』ではヒコホホデミという同名の人物になっています。この「ヒコホ」も「ヒボコ」に似ており、もはや地上の人物であるため「アマツ」が落ちたと考えられます。
以前の投稿で神武天皇の母と祖母が楽浪郡の王氏である可能性を指摘しましたが、朝鮮半島の任那(加羅)にあったとされる金官国の始祖・首露王にも降臨伝説があり、後漢の光武帝の時代とされています。首露王は百五十八年間在位したと伝えられていますが、ホオリが高千穂宮に五百八十年間いたと『古事記』が伝えるのと関係があるかもしれません。
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コメント
コメント一覧 (14)
素盞鳴尊のとるべき道は一つ。姉神の面前でのつぴきならぬ怒りを買うのだ。万神の激怒をわが身一神にふりかえて処罰させる。それしかないではないか。ところが天照大神はしょせんは女神。素盞鳴尊の深い志を察して罰を与えるゆとりすらなく、
天職も誇りも捨てて岩戸へこもってしまわれた。王仁三郎がこの事件について口ごもるのは、触れようとすれば非を皇室の祖神天照大神に重ねて帰せねばならない。
capelaurig
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「ここで機を織るということは、世界の経論ということであります。経と緯との仕組をしていただいておったのであります。すると、この経綸を妨(さまた)げた。天の斑馬、暴れ馬の皮を逆はぎにして、上からどっと放したので、機を織っていた稚比売(わかひめ)の命は大変に驚いた。驚いた途端に竣に秀処(ほと)を刺して亡くなっておしまいになったのであります」(『霊界物語』一二巻二九章「子生の誓」)
単に血だらけの馬を落として驚かす単純な悪戯などではない。素盞鳴尊が天照大神の経輸を妨害したと、王仁三郎はいっている。もしそうであれば、まさしく素盞鳴尊は天下の大罪人である。が、も一つ底があるかも知れない。合せ鏡の元、天照大神の経論そのものが国祖の律法から見て間違っているとすれば・・・。
瑞御霊(みずみたま) 千座(ちくら)の置戸を負わせつつ 世人の犠牲と降りましけり
capelaurig
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にしきの機とは、綾錦の布を織ることをさすが、みろくの世に至る道程を、さまざまに織りなしていく人々の苦節を色糸にたとえ、象徴的に表現したものであろう。機は経糸と緯糸で織り成されるが、
出口直と王仁三郎のふたつの魂の要素ともいうべきものが、経と緯の関係になぞらえる。
経糸 出口直 艮の金神 変性男子 厳の御霊
緯糸 出口王仁三郎 坤の金神 変性女子 瑞の御霊
対立し、ぶつかり合い、からみ合うふたつの個性や生きざまの鮮やかな対照がいつのまにやらそのまま組みこまれて、大本の教義を成していく。直にかかる神の啓示と王仁三郎にかかる神の教えが、火と水、男子と女子、父と母、天と地、小乗と大乗、ナショナルとインターナショナルというように、まったくあい反しながら、機の経糸、緯糸となって織りなされてゆくのである。
capelaurig
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この筆先には、経緯の役目の相違がはっきりと示されている。経糸は、いったんピンと張り終ると、後はびくとも動くことはできぬ。それが経糸の役目である。
国祖国常立尊の至正、至直、至厳なやり方に対して不満の神々が天の大神に直訴する。天の大神もついに制止しきれず、「もう少し緩和的神政をするよう」説得したが、国祖は聞き入れぬ。もしそこで聞き入れてゆるめれば、機の末は乱れきるのが目に見える。たとえ天の大神のお言葉を拒もうとも貫く、これが機の仕組の経糸のつらい役目なのだ。
capelaurig
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経と緯というのは、すべての物事の成り立ちのぎりぎり決着の表現であろう。いかなる文化も経と緯、時間と空間のないまじりから成る。「縦横無尽の活躍」というのも、自由自在な働きの根底が経と緯とで構成されていることを示す。
大本的表現をすれば、この錦の機を織り上げるのが神業であり、人間は一筋の糸として参加するため、この世に生まれてきたのである。この地球上で人聞が創造している文化(政治、経済もふくめ)は、それぞれ勝手にやっているようで、実は織られているのだ。短い糸をつなぎ、より合わせていつか時代の流れの色模様が染め上げられていく。
capelaurig
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筆先では、大本の機は日本の、世界の雛型となるべき錦の機という。少しのゆがみも許されぬ経糸はもちろん、我がなければならず、あってはならずで、打たれ打たれて織られていく緯糸の過程の苦きゆえに、魂に磨きがかかるのであろう。醜い我欲を捨て、織り手の心のままに澄んでいけば、錦の機は自然に完成していくと、筆先は繰り返し教えている。
たてよこの 神のよさしの綾錦 機のかがやく世とはなりけり
綾の機 織る身魂こそ苦しけ一れ 一つ通せば三つも打たれつ
capelaurig
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高天原の司がすべてを投げ捨て岩戸にこもっては、世は闇夜となりはてる。万の災禍も起こってきた。そこで八百万の神々が安河原に集まって思金神(おもいかねのかみ)に知恵を傾けさせる。長鳴鳥を鳴かせ、さかきの上枝にみすまるの玉をかけ、鏡をつけ、下には白や青の布を垂らしておき、太祝詞を奏上した。天宇受売命(あめのうづめのみこと)が伏せた桶の上で、足をふみとどかし、胸乳もあらわに踊り狂ったので、高天原も揺れるほどに神々はともに笑った。天照大神は不思議に思われ、岩戸を細目に聞いて声をかけられた。
「私がこもっているので、高天原は暗く、また世の中も暗いと思うのに、どうして天宇受売命は楽しそうに踊り、神々は笑うのか」天宇受売命は答えた。
「あなたよりも尊い神が出られましたので、みな大喜びで笑い遊んでいます」がたしかに岩戸の前には光り輝く女神がいる。それがさし出された鏡に写る御自身とは知らず、思わず戸より出てのぞかれたので、隠れていた天の手力男神がみ手をとって引き出し、布刀玉(ふとたま)命がしめ縄を張って「これより中に、もう戻らないで下きいと申し上げた。
capelaurig
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