明けましておめでとうございます。
昨年は大変な年でしたが、どうにか無事に新年を迎えることができました。世界的には新型コロナウィルスの猛威ということになりましょうが、私の場合は母の認知症という辛い経験をしました。
父と二人で新年を祝いましたが、やはり母のいない新年は寂しいものでした。施設では早く元気になれるようにとは言っていますが、現実的にほぼ無理なことは明らかです。
コロナもウィルスの変異により、更なる脅威が襲ってきています。自民党の菅政権は流行を抑える意志は全く無く、むしろコロナの流行を促進し、完全なる監視社会の実現を望んでいるように見えます。
今年は更に苦しい年になると思われますが、希望を失わずに進んでゆきたいと考えています。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
昨年は大変な年でしたが、どうにか無事に新年を迎えることができました。世界的には新型コロナウィルスの猛威ということになりましょうが、私の場合は母の認知症という辛い経験をしました。
父と二人で新年を祝いましたが、やはり母のいない新年は寂しいものでした。施設では早く元気になれるようにとは言っていますが、現実的にほぼ無理なことは明らかです。
コロナもウィルスの変異により、更なる脅威が襲ってきています。自民党の菅政権は流行を抑える意志は全く無く、むしろコロナの流行を促進し、完全なる監視社会の実現を望んでいるように見えます。
今年は更に苦しい年になると思われますが、希望を失わずに進んでゆきたいと考えています。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
コメント
コメント一覧 (17)
からたまも 霊魂(みたま)も神のものなれば 仰ぎうやまへ我とわが身を
からたまは よしまかるとも霊魂は いく千代までも生きて栄ゆる
霊体の 力徳により造りたる 万物に善悪美醜あるなり
善となり 悪となるのも力徳の 配合度合によるものと知れ
美と生れ 醜と生るも天帝の みなカ徳の按排(あんばい)なりけり
物体は にごりかたまるものなれば 元より悪しき性質をふくめる
世の中は 善事曲事まじらいて すべてのものは生(な)り出づるなり
至善至美の 神のつくりし天地も 善悪美醜はまぬがれざるなり
難波江(なにわえ)の 善きも悪きもまじこりて 一つの物ぞ生り出ずるなり
善と悪と和合してこそ力が生まれる。世の中のいっさいがっさいが霊と体で成り立つ以上、すべて善悪混交が真相だ。
capelaurig
が
しました
人には霊能と体能がある
人間は誰でも霊能(霊的性能)と体能(体的性能)というニつのあい反する性能を具備している。霊能とは、向上、正義、純潔、高雅、博愛、犠牲などという、最高の倫理的、審美的感情の源泉であり、体能とは、呑みたい、食いたい、着たい、寝たい、犯したいなどの欲望をおこさせ、はては人聞をして堕落、放縦(ほうじゅう)、排他、利己などの非道徳的行為に導く。ならば霊能が善、体能が悪と思えるが、善と悪とは対照的な符号に過ぎず、絶対的な善の基準がきまらぬかぎり、対照語である悪が、悪いとも不必要ともいえない。
もし霊能がなければ他の動物と変わりなく、人間としての価値を失う。人聞を人間たらしめているのが霊能だ。だが体能がなければ自己保存もおぼつかなくなり一ヵ月をへぬまに人聞はこの地上から滅び去るであろう。
capelaurig
が
しました
神が力徳によって万物を造った限り、悪をしない人聞を造ることは不可能である。
capelaurig
が
しました
神は人聞をその代行者として造ったが、他の動物と違って特に優れているのは、主に二点であろう。
一 霊魂の働きが複雑精妙であること。
二 幅広い自由意志を持つこと。
霊魂については「一霊四魂」で述べたが、人聞が幅広い自由意志を持つとは、善人はなお善人に、また悪人はより悪人になるのも自由、逆に善人に立ち返ることも自由ということだ。だから人聞は、生まれながらにして創造的、自律的に悪を行う自由を内包している。
悪のできない人聞を造ったとしても、それは神の代行者としての自由の資格を失った動物に過ぎぬ。猫でも黙って鰹節を盗んだ時には逃げ、鼠(ねずみ)を取ってくると手柄顔して家人の前で食べる。彼らにも多少の善悪の観念はあろう。だが、罪の意識はあるまい。
罪の意識は、良心の有無と結びついており、良心がなければ、罪の意識は生まれぬ。猫に良心はない。彼らが肉や魚を盗んだとき、人間をみたらパッと逃げるのも、それは罪の意識ではなく、人聞の体罰を恐れるからだ。ところが虫や魚になると、善悪の観念すらない。害虫は畑の作物を荒すが、悪いことをしているという意識はなく、逆にまた益鳥は害虫を食ってくれるが、善をなしたという意識もない。ただ生存するための行為でしかないのだ。
capelaurig
が
しました
岡本かの子が何かの中で「神さまはなぜ罪を犯す人間をお造りになったのですか。人聞の罪を悪となさるなら、初めから全智全能のお力で、罪を犯さない人間を作って下さればいいのに」というようなことを書いていたが、これは誰もが抱く疑問であろう。だがもともと悪を行えないように造られた人間が善をしたとしても、それはたんに本能的善、機能的善であって、はたして善の名に価するかどうか。
自由意志は神から人間への最大の贈り物であろうが、やっかいなことには、何をするにしても常に選択をせまられる。いっそ自由意志などなければどんなに気楽であろう。人間、時には多少の悪を犯さねば生きられぬ。選択の余地なく生まれついていれば、犯した罪は自由意志を与えなかった神の責任に帰せられる。それなら、食ってはいけない目前のリンゴに手を出したからといって、罪の意識におびえることもない。
純潔をぜひ守らなければならぬとあれば、神は人間を性的不能に造られたらいい。だがそれでは、人類は子孫を残すこととはできないし、生きる喜ぴすら半減するだろう。罰せられない保証さえあれば、悪の喜びを思うさま味わってみたいと、心の底で願っている人も少なくはあるまい。自分の自由意志で悪への誘いをはねのけ、あるいは悪のどろ沼から這い上がって善をなしとげてこそ、その喜びは大きいのだ。
capelaurig
が
しました
神が代行者として人間を造ったように、人がその代行者としてロボットを作る。この場合、人はロボットに対して神の立場に立つ。今使われている単純な産業用のロボットではなく、選択の判断もできる複雑なロボットが完成されたとして、善悪を考えてみよう。有名なSF作家のアイザック・アシモフが作品の中で、「ロボット工学の三原則」というのを作っている。これは手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』に使われており、人工知能の専門的な本にも論じられている。
一 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人聞が危害を受けるのを黙視していてはならない。
一 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一原則に反する命令はその限りではない。
一、ロボットは、自らの存在を護らなくてはならない。ただしそれは第一、第二原則に違反しない場合に限る。
一応、それらの原則に反さなければ善、反したら悪と仮定しよう。人間でいえば第一第二原則が霊能、第三原則が体能に対応する。
さらにアシモフの三原則を拡張し、「ロボットはロボットに危害を加えてはならない。またロボットが危害を受けるのを黙視していてはならない」というのを付け加えるとしよう。
capelaurig
が
しました
そこで判断の優先順位をいろいろ決める。欲をいえば、そのロボットにいちいち全部教えていたらたいへんだから、失敗やまわりの状況から自分で学習し主体的に行動する判断力があって欲しい。
それだけの精巧なロボットができたとしても、たくさんのロボツトが動いていれば、お互いの聞で協力がうまくいかない可能性がある。複雑さが増せば、それだけ判断がむずかしくなる。おまけに一回失敗すると、影響が後に残る。物理的な時間などの制約によって、完全な判断はできない。
capelaurig
が
しました
その時点時点で良いと思って判断しても、全体の流れでは悪いかもしれない。その時点で悪い判断をしたと思っても、全体の流れでは良い判断なのかもしれない。ロボットを方向性として善を行うように作ることはできても、完全に求めるのは不可能だ。ロボットに自主的な判断力を与えず、全部人聞が面倒を見るしかない。そうすると何のためにロボットを作ったのかというジレンマに陥る。
人聞のすぐそばでロボットを働かせれば問題はないが、もし遠くで作業させる場合、人間とロボットが電波で通信することに仮定しよう。「判断に困れば人間に相談しろ」といって送り出しても、電波の妨害物や雑音が入ると、ロボットの判断が狂ってしまうおそれもある。
そうなると、人間がいくら「それをしてはダメだ」といっても、やってしまう。あるいは誰か他の人間が、そのロボットを自分のものにしようと偽の電波を送れば、そっちのいいなりになってしまう。
ロボットに自由意志を与えないと単純なことしかできず、他からの悪にも従うおそれがある。自由意志を与えても、やっぱり悪を犯す可能性がある。親の立場と似ている。自由意志さえもたない子供なら、「この子はどうなっているのか」と先ゆきが不安だし、子供の自由にゆだねたい気があっても、悪に染まる可能性がいっぱいで、やはり心配だ。
capelaurig
が
しました