私は長く一人暮らしですが、実家の母が介護施設に入っています。父も一人暮らしになり、母よりも高齢で厳しい状況です。
週末には帰って母の部屋を片付けていますが、やはりこれからどうなるか不安です。父も家で暮らせなくなったら、正直どうなるか分かりません。
今の父の唯一の楽しみはクロスワードパズルです。日曜日になると新聞を買ってパズルを解いて(と言っても半分以上は私が解いていますが)応募しています。
本当は人の命は明日も分からないもので、如何にもそんな心配は無いような顔をして誰でも生きているのだと思います。父のクロスワードも私のブログも似たようなものです。状況が厳しいほど、こうした趣味的なものは必要になるように思われます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
週末には帰って母の部屋を片付けていますが、やはりこれからどうなるか不安です。父も家で暮らせなくなったら、正直どうなるか分かりません。
今の父の唯一の楽しみはクロスワードパズルです。日曜日になると新聞を買ってパズルを解いて(と言っても半分以上は私が解いていますが)応募しています。
本当は人の命は明日も分からないもので、如何にもそんな心配は無いような顔をして誰でも生きているのだと思います。父のクロスワードも私のブログも似たようなものです。状況が厳しいほど、こうした趣味的なものは必要になるように思われます。
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コメント
コメント一覧 (12)
正しい神と正しく向き合えば、当然に神格が内流する。航路を見失った船が、北極星によって正しく向きをとるように。だが内流を受け止めるために、人はどうやって向きを変えるのだろう。理屈でわかっでいても悪をやめられないのが人間の弱きだからいろんな宗教は戒律でしめつける。
仏教の五戒十重(じゅうじゅう)の五戒は、生きものを殺さない、盗みをしない、男女の間を乱さない、嘘をつかない、酒を飲まないだが、これを完全に守れるだろうか。
小乗仏教の僧の場合、五戒を守っている人もいる。インドのジャイナ教の空衣派は空気を衣としているから、まっぱだかで、口に布を当てている。息を吸った時、誤って小虫を口に入れ殺さぬようにだ。うっかり足を出し、蟻を踏み殺したら一大事。息をするのも歩くのも大変だ。戒律を完全に守れれば確かに聖者だろうが、それで神と向き合えたろうか。五戒に意識を縛られて、生活しているとはいえまい。
capelaurig
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しかし蚕を殺さなければ人の身を包む絹布はできぬ。人は絹を着なくても生きてはいけよう。生きものの皮をはがさずとも、凍え死なない方法はある。だが魚を食うのも、米や野菜を食うのも、そのものの命を断つからには、不殺生戒をまぬがれぬ。大魚は小魚を食い、猫は鼠を食う。それが彼らの生活であり、この天職を果たさねば生きられない。
capelaurig
が
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戒律を完全に守る医者は嘘をつけない。癌患者には、お釈迦きん流に「病気ではあるが、癌であるかないか、そういうことには答えません」と告げる。少なくとも嘘はつかなくてすむだろう。患者はその返事を癌と同義語ととろうし、そのショックで患者が死ねば、不妄語(ふもうご)戒をまぬがれでも、不殺生戒を犯すことになる。
開けたる 御代の恵みを浴びながら 生存難に苦しめる世なり
生活は 世の人のため国のため 活きて働く人の業なり
衣食住 外に望みのなき人は 生存競争の衡(ちまた)にさまよう
capelaurig
が
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人聞の霊魂には、反省するというすばらしい働きがあるから、善悪の判断にまた悩みもする。「私は絶対に間違ってない」「僕は絶対に正しい.」など強弁しがちだが、王仁三郎によれば、人に「絶対」はない。「絶対ということが絶対にない」といいきってしまうと論理の矛盾だが。
善悪の問題には、全体と部分といった関係があるようだ。自己にとっての善がその属している集団にかかわれば悪になりうる。一集団にとっての善が、もっと大きな集団に、たとえば国にとっては悪かも知れない。ある国の善が世界全体からみて恐ろしい悪になることだってある。神の目から見ての善がそれぞれの段階で一致して善となればすばらしいが、なかなかできない。
完全な悪などは、人聞の分際として、したくてもできない。万類を絶滅させかねない核兵器にしても、持っている者は核抑止力という理屈によりかかり、世界の平和を守る手段としての善だと主張する善悪が時所位によって異なるとしても、せめて最低限の善悪の基準がほしい。それは何か。
capelaurig
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どんな善であれ、私欲を肥やすためのみに行うのは、真の善とはいえないし、たとえ多少の悪が混じっていても、天下公共のためになる行為は善といわねばならない。
「文王一度怒って天下治まる。怒るもまた可なりというべし」で、ときには怒ることも必要だ。また何もしないのは、かえって悪に通じる。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)などは、せっかく恵まれた天分を活用もせず、行動しないのだから、神の目からはやっぱり悪だ。
「人間には神の属性がすべて与えられている」との王仁三郎哲学によれば、凡人の中に神のすべてがある。言い換えれば、我々の持っている性質そのままが、神の分霊である以上、天国も人の作る現界も、本質においては差がないということだ。
仏の大慈悲とか神の恵み幸いといえども、凡人の欲望と本質的に変わらない。だがその働きに、無限と有限という天地の差がある。凡人は自分の妻子眷属だけを愛して満足し、他をかえりみない。神は、三千世界のいっさいをわが子とし済度しようという大欲望がある。凡人は小楽観者であり、小悲観者で、神は大楽観者であり、大悲観者だ。
capelaurig
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人間の霊魂は本来、これを宇宙大に活動させることのできる天賦的性質を与えられている。だから神俗、浄穢、正邪、善悪などというのも、この素質を十分に発揮して活動するかしないかにつけられた符合にずきない。
天の下 公共のために身をつくす 人は誠の善神にぞありける
私欲(わたくし)の ために力をつくす人は 悪魔の神のかがみとぞなる
公の ために争うひとびとは 神の御眼(みめ)より罪とはならじ
国のため 世人のためといいながら 世の大方は身のためにする
capelaurig
が
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