野尻抱影の『星の神話・伝説』では、冬の代表的な星座・ぎょしゃ座を次のように紹介しています。
星座の名は、車を走らせるぎょしゃ(馭者)ですが、図では、三びきの羊をかかえている羊飼いの姿です。もとはアルファが馭者で、のこる四辺形を車、三つの星の三角を手綱と見たと思われます。
ぎょしゃの「馭」は見慣れない漢字ですが、神武天皇の別名「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」の一字で「シラス(治める)」の意味です。崇神天皇も同じ読みの別名を持ちますが「御肇国天皇」と書きます。この「御」も同じ意味で、ぎょしゃは「御者」と書くこともあります。
このつながりには、私は長い間気付きませんでした。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
星座の名は、車を走らせるぎょしゃ(馭者)ですが、図では、三びきの羊をかかえている羊飼いの姿です。もとはアルファが馭者で、のこる四辺形を車、三つの星の三角を手綱と見たと思われます。
ぎょしゃの「馭」は見慣れない漢字ですが、神武天皇の別名「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」の一字で「シラス(治める)」の意味です。崇神天皇も同じ読みの別名を持ちますが「御肇国天皇」と書きます。この「御」も同じ意味で、ぎょしゃは「御者」と書くこともあります。
このつながりには、私は長い間気付きませんでした。
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コメント
コメント一覧 (14)
哲学者や学者がいくら理性で善悪を分類し論じてこようとも、不完全な人間に真の判断がつくものではない。人間は知らず知らずの間に罪を重ねる。世の中には、目に見えない罪人は数限りなくある。王仁三郎は、「中でも一番罪の重いのは学者と宗教家だ。神さまからいただいた結構な霊魂を曇らせ、腐らせ、殺すのは、誤った学説を流布したり、神さまの御心を取り違えてまことしやかに宣伝したり、あるいは神きまの真似をするデモ宗教家、デモ学者がもっとも重罪を神の国に犯している」という。その学者や宗教家が尊敬され、尊重される時代だから、筆先で「今は獣の世、悪の世」と嘆く。
capelaurig
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善と思うところを行なう日々にも、ふと迷いはあろう。神の目からはたして善かどうか。だからこそ、神の教えを求める必要がある。
「教えとは人の覚(さと)りのおよばざる 天地の神の言葉なりけり」
また大本の『基本宣伝歌』の中にこういう一節がある。
「神が表に現われて、善と悪とを立別ける、この世を造りし神直日、心も広き大直日、ただ何事も人の世は、直日に見直せ開直せ、身の過ちは宣り直せ」
善悪を裁くのは人ではなく、神である。我執(がしゅう)にとらわれて過ごした日々を省み、神の目を恐れるあまり縮(ちぢ)こまっていてはいけないのだ。わが心に見直し聞き直しながら最善と思ったことは勇んで実行し、知らずに犯した罪けがれは神に祈って見直し聞き直していただく。そこに信仰の喜びもわいてくる。
capelaurig
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王仁三郎は、世間で悪人といわれる人でも上手に使った。「毒にならぬものは薬にもならぬ。毒もうまく使えば、たいした働きをするものである。毒にならぬものは、ただ自分だけのことができるぐらいのものだ。」
『聖師さまのそばには悪魔ばかりがついている』とののしるものがあるそうだが、よし悪魔であってもさしっかえないではないか。毒になるものは薬になる。かのいわゆる善人なるものは、ただ自分自身を救うことができれば関の山だが、悪魔が一朝大悟徹底改心すれば、多くの人を救う働きをするものである。
鬼も大蛇も救わにゃならぬこの神業に、尻の穴の小さい、毛ぎらいばかりしていて、他人を悪魔あつかいする人たちが、信仰団体の中にもたくさんあることは嘆かわしいことである。また悪魔を料理しうる人材がいかにもすくないことも、嘆かわしいことの一つである。お人のよいばかりが能ではない、私も本当に骨が折れる。誰か私に代わって、鬼も大蛇も料理するという偉才が早く現われないものかなあ。このワニ口は、鬼や大蛇はまだおろか、どんな骨の固い、腕節(うでっぷし)の強い獣物でも、かみこなすだけの強い歯を持っておるつもりだ。御心配御無用」(『水鏡』「毒と薬」)
capelaurig
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真の神はもとより日本専有の神ではない。世界各国で、いろいろな名がつけられている。またこの神に対する概念も、浅深、大小さまざまだ。
主神、独一真神、造物主などは、真の神の属性からつけられた名前である。神道では天之御中主神と称え、キリスト教ではゴッド(天の父)、イスラム教ではアラー、ギリシャ神話ではゼウスの神という。中国では天、天主、天帝などといい、易では太極だ。仏教でこの概念に比較的近いのは、阿弥陀如来であろう。阿弥陀如来は西方にある極楽世界を主宰する仏陀の名で、信者は死後、その世界に生まれ変るとされている。
大本では大国常立尊であり、筆先は天の御先祖きまと親しく呼びかけ、救世主神としてみろくの大神ともたたえる。また霊界物語では、素盞嗚大神がそれにあてられている。「ルシャナ仏 阿弥陀如来も伊都能売も御名こそかわれ一つ神なり」と王仁三郎は歌うが、真の神を信仰の対象にする宗教である限りただ呼称が違うだけで、実は同じ神に祈っている。だから宗教によって「わが神尊し」と争うことほど、ナンセンスなことはない。同じ神を祈っているのに、なぜこうもいろいろな宗教に分かれるのかといえば、基本的には神をどう観るかという神観の相違に帰する。
capelaurig
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多神教は多神観にもとづき、複数の神を認める。それらの神は太陽神、大地の神、海原の神、風の神などの自然神であったり、医薬・治療の神、農耕の神、真理・秩序・正義の神、生殖の神、技術の神、思慮の神というように、抽象的なカや観念を司る神であったりする。エジプト、ギリシャ、ローマの宗教やヒンズー教、日本の神道などは多神教であり、神社には多くの神々が合せ祭られている。
capelaurig
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真の神は「天地万有の創造主」であり、「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」であると称える王仁三郎の神観は、まぎれもなく一神観だ。複数の神も認めており、そういう意味では多神観に立つ。そして「宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり」というからには、汎神論である。
capelaurig
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「宇宙根本の力を体現するものは、すでに述ぶるが如く、宇宙を機関として無限、絶対、無始、無終の活動を続けたまうところの全一大祖神天之御中主神、一名大国常立尊である。この意義において、宇宙は一神である。が、宇宙の内部に発揮さるる力はおのおの分担が異り、方面が異り、性質が異り、軽重大小が異り、千種万様その究極を知らない。そしてこれらの千種万様の力は、おのおの相当の体現者をもって代表されている。この意義においては宇宙は多神にいわゆる八百万の神の御活動である。由来、一神教と多神教とは、あい背馳して並立することができぬものの如くみなされ、今日においてもまだ迷夢のさめざる頑迷者流が多いが、実は一神論も多神論もともにそれだけでは半面の真理しかとらえていない。一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、これを捲けば一神に集まり、これを放てば万神わかるのである。
この意義において天地、日月、万有、一切ことごとく神であり(汎神)、神の機関である。小天之御中主神である」(『大本略義』「天地剖判」)
宇宙を一大人格ととらえてみよう。宇宙は一つ、その本体は宇宙の活動力の本源である真の神一柱、一神観である。
capelaurig
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