日本で大化に次ぐ2番目の元号は「白雉」(650年~654年)です。一般に「はくち」と読まれていますが、『釈日本紀』では「しらきぎす」と読んでいます。前回の「朱鳥」(あかみとり)と同じく、この元号も訓読みだった可能性があります。
『日本書紀』に載っている神武、崇神など歴代天皇の漢風諡号も後で書き加えられたもので、当初はカムヤマトイハレヒコ、ミマキイリヒコなど和風の名前しかなかったことを考えると、白雉や朱鳥が訓読みだったのは不思議なことではありません。
ただ最初の元号の「大化」だけは音読みであったと思われます。この元号は白いキジ、赤い鳥という具体的なものではなく抽象的な漢語であって、和語にはなじまないものです。「大化の改新」は掛け声倒れに終わり、実際の改革は数十年遅れたと言われますが、元号の読み方からもそれが窺えるようです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
『日本書紀』に載っている神武、崇神など歴代天皇の漢風諡号も後で書き加えられたもので、当初はカムヤマトイハレヒコ、ミマキイリヒコなど和風の名前しかなかったことを考えると、白雉や朱鳥が訓読みだったのは不思議なことではありません。
ただ最初の元号の「大化」だけは音読みであったと思われます。この元号は白いキジ、赤い鳥という具体的なものではなく抽象的な漢語であって、和語にはなじまないものです。「大化の改新」は掛け声倒れに終わり、実際の改革は数十年遅れたと言われますが、元号の読み方からもそれが窺えるようです。
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コメント
コメント一覧 (16)
生前に 死後の備えのなき人は 死期せまるとき無限の悔あり
人間は この世を去ればそれぎりと 思へる人の驚く霊界
霊界に 至りて人は驚かん 依然と命の続けるを見て
おおかたの 人のあわれは死してのち 天国あるを悟らぬことなり
はかなさは 人の命としりながら いのちの神を世人知らずも
人の世の 悲哀の際(きわ)み待ちくらす 醜僧侶のこころきたなき
み仏の 法を伝うる道忘れ さかしまごとを待つ坊主かな
人の世は 死ぬにましたる憂いなしと 葬式のみ待つ坊主の汚き
苦しみの 中にも神の恵みあり 悩みなき身を幸とな思いそ
capelaurig
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capelaurig
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どの神と出会い、どの神とつき合うかで、人生の明暗を分けるといっていい。迷信から目覚め、真の神の存在に気づいていただける人が一人でもいたらありがたい。
capelaurig
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王仁三郎は「天地万有の創造主」という。
この宇宙に無数に散らばる星たちをはじめありとあらゆるもの、火も、水も、土も、空気も、光の粒子や遺伝子のすべてを生み、はぐくみ、命あるもの、ないもの、形あるものばかりか自に見えぬ霊界までをも、いっさいがっさい創り上げつつ調和させ、寸分の狂いなく運行させ得る力ある主体、それが造物主だ。
それではこの真の神を誰が造ったか。もし真の神を造った他力があれば、その他力こそ真の神。またその他力を造った大他力があれば、その大他カこそ真の神であらねばならぬ。
capelaurig
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天帝は 霊力体の三元を もちて一切万有をつくれり
主の神は あまつ月日を生みまして 森羅万象をそだてたまえる
父母の ほかには親はなきものと 誠の親神わするる世の中
capelaurig
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ではその真の神はどこにいますのか。それが分らねば、どちらに向って祈ってよいか分らぬではないか。
真の神の住居は宇宙の外か、内か。宇宙が無限大なれば無限の外に存在するはずはない。当然、宇宙の中であろう。では太陽か、月か、星か、地球か。地球とすればどこの大陸に、どこの国におわす? :神社仏閣に鎮坐(ちんざ)ましますのか、家々の神棚か仏壇にか?
capelaurig
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視点を変えてみよう。活きている君そのもの、それをかりに君の本体と呼ぼう。君を君たらしめている君の本体は、どこに存在するのか。肉体の外にか、内にか。外なら、肉体はリモコンつきのロボットに過ぎぬし、君の本体とはいいがたい。内ならば、頭の中にか、心臓、腹、腕や足の中にか。それとも神経血液?
もし君の本体が君の腕の中に存在したとしよう。片腕を切断すれば君の本体は半分になるし、両腕を切断すれば君の本体は存在しないことになる。しかし両腕を切断しても君は君であり、ちっとも減りはしない。多量の出血を他人の血液でおぎなった場合でも、君は君で、他人にはならぬ。一つしかない頭や顔や心臓が壊れても、手術で補いのつく間、生きている限りは真の君だ。つまり君の本体は、生きている肉体のすみずみまですべて君と合一状態にある。
capelaurig
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彼の神観、宇宙観を要約して明快に表現したものだが、換言すれば、神とは宇宙を活かす不断の力、造化の働き、生成化育の妙である。「なんだ、力か」とシラケてはいけない。そういう人たちは、えてしておどろおどろしい宗教屋の餌食になり、骨までしゃぶられる」ことになる。もう少し我慢して先を読んでもらいたい。
真の神が特に神社におわすわけでもないならば、わざわざ参拝の必要はあるまいと思うであろう。だがそうではない。我々の周囲にはテレビの電波がとびかっているが、肉眼では見えぬ。受像器のスイッチを入れ、チャンネルを合わせ、初めて絵が映り音が聞こえる。
capelaurig
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