元号を調べていて考えたことですが、学校の日本史の授業では西暦を覚えさせています。これは危ない面があります。
古代や中世の日本人は西暦の中で生きていたわけではありません。藤原道長は西暦1000年前後に生きていましたが、彼はヨーロッパの世紀末思想とは無縁でした。
もっとも日本では末法思想というものがありました。これは仏教の釈迦の入滅から2000年後と考えられていた時期に前九年の役が始まり、たまたま西暦1000年に近い時期に当たってはいましたが、西暦で世界史を見る危うさを示しています。
年だけではなく、月日もそうです。旧暦の11月や12月は新暦では次の年の1月、2月になりますが、これでは昔の日本人の心の中に入っていくことは出来ません。今の暦では「月」の本来の意味が完全に失われており、複雑な計算をしなければ月齢も分かりません。こうしたことには注意しなければなりません。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
古代や中世の日本人は西暦の中で生きていたわけではありません。藤原道長は西暦1000年前後に生きていましたが、彼はヨーロッパの世紀末思想とは無縁でした。
もっとも日本では末法思想というものがありました。これは仏教の釈迦の入滅から2000年後と考えられていた時期に前九年の役が始まり、たまたま西暦1000年に近い時期に当たってはいましたが、西暦で世界史を見る危うさを示しています。
年だけではなく、月日もそうです。旧暦の11月や12月は新暦では次の年の1月、2月になりますが、これでは昔の日本人の心の中に入っていくことは出来ません。今の暦では「月」の本来の意味が完全に失われており、複雑な計算をしなければ月齢も分かりません。こうしたことには注意しなければなりません。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
コメント
コメント一覧 (15)
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
人が困難に立ち至った時、神を信じぬ人でも目に見えぬ何かに対して祈る。それは人の本能だからだ。本能の要求があるのは、求めるものが実存するからであろう。のどの乾きに対して水が存在し、欲情に対して異性が存在する。平常は理性で押えていても、いざとなると思わず祈る心がおこるのは、神が存在すればこそである。
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
鎌倉時代・平成などの民衆宗教ではなく、近代民衆宗教とは、富士講を除いて、黑住・天理・金光・大本という19世紀に発生した宗教である。イデオロギー的な含意を有し、支配体制や日本近代社会のあり方に異議申し立てを行う可能性があった。
近代天皇制国家と民衆が原理的に対立するものと設定されている。大本が2度の大弾圧を受けたという事実は、教団が近代天皇制国家における民衆宗教であり続けた証拠である。治安維持法が民衆を抑圧する悪法である以上、違反するのが民衆宗教のあるべき姿である。大本の信仰は人々の怒りを神秘の夢に発散させてしまうと批判されるが、大本事件という経験によって、現実との接点が生まれ、新たな運動の展開が可能になった。戦前の活動は夢なのに、どうして戦後の平和友好・民主主義が現実として認められるのか?最近の忖度政治や無意味なコロナ対策やオリンピック招致が民衆を再び揺り動かしている。
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
立替え立直しされる信者の立場からの経綸説の意義もある。神がなされる惟神中毒でなく、神意を体して与えられた時節にどう応え実践するかである。
capelaurig
が
しました