60年近くに及んだ日本の南北朝時代については、南朝と北朝のどちらが「正統」であるかという議論がありました。北朝が勝利したため当初は北朝が正統と考えられていましたが、水戸光圀の「大日本史」が南朝を正統と認め、現在の皇統譜はこれに従った形になっています。
ところが源平合戦で平氏が擁した安徳天皇と源氏が擁した後鳥羽天皇については、こうした議論はなかったようです。現在の皇統譜でも1183年から1185年まではこの二人の天皇が並立していたとされています。
都落ちした平氏は安徳天皇と共に三種の神器も保持しており、その意味では南朝に似ていますが、南朝の神器が平和裏に北朝に引き渡されたのとは異なり、平氏の神器は壇ノ浦に沈みました。このあたりが議論を難しくしたのかもしれません。神器の捜索で剣は見つかりませんでしたが、この剣は形代(かたしろ)で本物は熱田神宮にあるため、新たな形代を神器にしたようです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
ところが源平合戦で平氏が擁した安徳天皇と源氏が擁した後鳥羽天皇については、こうした議論はなかったようです。現在の皇統譜でも1183年から1185年まではこの二人の天皇が並立していたとされています。
都落ちした平氏は安徳天皇と共に三種の神器も保持しており、その意味では南朝に似ていますが、南朝の神器が平和裏に北朝に引き渡されたのとは異なり、平氏の神器は壇ノ浦に沈みました。このあたりが議論を難しくしたのかもしれません。神器の捜索で剣は見つかりませんでしたが、この剣は形代(かたしろ)で本物は熱田神宮にあるため、新たな形代を神器にしたようです。
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コメント一覧 (15)
capelaurig
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33相を具備する天来の救世主であると、身辺を警備する盧占魁(ろせんかい)に報告している。手相は5天紋という線が顕われ、背中にはオリオン星座の形をした3つの黒子(ほくろ)が、指紋は皆流紋(かいりゅうもん)と言われる渦がない。掌中にはキリストが十字架にかけられ、打ち抜かれた聖痕の跡があったという。入蒙記によれば、釈迦が断食の修行を終え、山から降りて来た時、若い女性から牛乳を貰って飲んだ故事により、喇嘛(らま)から牛乳の煎餅(せんべい)を貰う。この時、王仁三郎の掌(てのひら)の聖痕からかなりの出血があったが、少しの痛痒(つうよう)もなかったという。盧占魁は自分の守護神が天から降臨されたと驚喜し、神の如くに尊敬し指示を仰いだようだ。
capelaurig
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capelaurig
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capelaurig
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我々が漠然と思っていたより、はるかに系統的に宗教を研究している。キリスト教、仏教にしても予想外な位にきちんと取り組んでいる。年代によってかなり思想的な発展がある事が非常にはっきりしてきた。大本信仰の上で、瑞の御霊である代表作の霊界物語は王仁三郎の全思想で、それ以前は本来の思想ではないとされたが、著作集はあえて年代順に復元した異例な捉え方をした。1901年の聖教本義から1926年の愛善信真に至る、霊界物語の生まれたいきさつが分かる。不敬罪による1次弾圧(1921年)の神殿破壊の音を聞きながら、口述を始めたのではなく、直前に書かれた神霊界の内容が冒頭部になっている。大正維新で運動が盛り上がった時期に、霊界体験や状況を述べることによって、森羅万象についての王仁三郎の思想の体系化が始まっている。最初は素朴であっても、大正期に習合的になった宗教思想としての特色でもある。
capelaurig
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新興宗教とも呼ばれる民衆宗教が、明治維新以降いくつか生まれました。長い間の幕藩体制が崩壊し、新たな時代の変わり目、激しい変革期、未来を見通せない庶民達がどう対応するか、無意識のうちにも新たな指針を求めていました。そして庶民達の声を己の身体で聞き取る能力を持つ、教祖的な人物を多く輩出しました。シャーマンのような存在、それが天理教の中山ミキであり、大本の出口なおらの女性でした。出口なおは無学文盲ながら、たくさんの子供を育て家族を切り盛りしました。たびたび予言めいた事を口走り、牢屋へ入れられ、ある日、神がかり(憑依現象)があります。
どこからともなく筆を持てという声に驚きながら、出口なおは筆を持ち、筆先と呼ばれる書き付けを始めました。フロイトがいう自動書記現象です。書き付けたものを判読できず、後年出口王仁三郎が明らかにします。日本の近代化への疑問、富国強兵に対する批判、西欧文明に追随する日本に対する強烈なアンチテーゼの内容でした。
capelaurig
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栄二先生は、大本の世界平和精神を広め、活動する為に積極的に行動し、東京・杉並の婦人達が立ち上がった前から、原水爆実験禁止の署名活動を全国的に展開し、<大本ここにあり>という大衆運動を行い、1960年の反安保闘争では、宗教界の先頭に立って活動されました。
1962年、栄二先生はモスクワの世界宗教者会議に出席され、中国仏教協会の趙樸初氏に出会います。趙樸初氏は1936年より抗日救亡運動に参加、中国仏教協会の発足に貢献され、会長に就任し周恩来総理から信頼を得ていた人物でした。
<北京に来ませんか、御招待します>と言われ、当時40歳の若い栄二先生は国交が回復していない北京にモスクワから入国しました。北京に到着後、どのような方とお会いしたいかと訊ねられ、<毛沢東主席か周恩来総理にお会いしたい>と答えたところ、ある日<周恩来総理がお会いします>と回答がありました。7月26日対談が行われ、大本について、特に戦前2度も、天皇制国家権力から徹底的に弾圧を受けた歴史を周恩来総理に話すと、総理は傍に居た記者達に<もっと大本を中国に紹介しなさい>と語りました。
この対談の模様は人民日報に写真入りで掲載され、月刊の人民中国(日本語版、エスペラント判など)にも写真入りで記事になりました。周恩来総理が日本の宗教界の動きに敏感だったわけです。
capelaurig
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名古屋の田中たまはいくの母で、宮内庁も認めています。上田世祢(よね)<王仁三郎の母>を認めたら天皇家は解散になります。
capelaurig
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