昨年から母の認知症が進行し、私と父の生活は激変しました。母は自分の部屋に私と父を入らせなかったため、施設に入った後に初めて実態が分かり驚きました。
実家に帰る度に母の部屋を掃除していますが、なかなか片付きません。いつになったら終わるか見当もつきませんが、気長に進めています。
時間は信用詐欺のようなもので、少しずつしか変わらないと思っていても、何十年も経つと何もかも変わってしまいます。本当は一瞬一瞬が変化の連続であり、極端に言えば一瞬ごとに世界の崩壊と再生が繰り返されているのでしょう。
晩年の三島由紀夫はこの問題を追求し、『天人五衰』の冒頭で上手く表現しています。仏教の唯識論はこの世界の実相をとらえていたようです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
実家に帰る度に母の部屋を掃除していますが、なかなか片付きません。いつになったら終わるか見当もつきませんが、気長に進めています。
時間は信用詐欺のようなもので、少しずつしか変わらないと思っていても、何十年も経つと何もかも変わってしまいます。本当は一瞬一瞬が変化の連続であり、極端に言えば一瞬ごとに世界の崩壊と再生が繰り返されているのでしょう。
晩年の三島由紀夫はこの問題を追求し、『天人五衰』の冒頭で上手く表現しています。仏教の唯識論はこの世界の実相をとらえていたようです。
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コメント
コメント一覧 (16)
だが、ひとたび欧化の流れが奔流のごとく押し寄せると、「文明開化」の圧力は社会も人心も押し流していくだろう。その先にあるのは何かといえば、知識であれ、制度であれ、生活様式であれ、西洋流を先進文明とみなしてひたすら模倣している。福沢が文明の礎石と考え「一身独立、一国独立」など消えている。政治にせよ言論にせよ、明治の指導者たちは、武士であり、強い倫理観と武士的精神の持ち主であったが、憲法が制定され、議会が開設され、富国強兵もそれなりに功を奏して、日本が西洋列強に追いかけ、日本人の内面生活の方が何とも希薄化し、夏目漱石は、それを、うわすべりの「外発的開化」と呼んで批判した。
capelaurig
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戦後の第二の近代化は、西洋化というよりアメリカ化であった。今日、アメリカ型の文明がグローバリズムという名で世界を覆いつつある。いわゆる国際主義とは異なる。明治の近代化において日本が直面した矛盾が解決されたとは思えない。だが残念なことに、福沢を後継する「新・文明論之概略」は出てこず、彼の危惧した「独立の気風」の喪失も問題とされていない。
capelaurig
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capelaurig
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『「南京事件」を調査せよ』は戦後70周年企画としてあった77年前の事件の報道ドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」(2015年)を基にした作品だ。この制作を担当した記者が著作としてまとめ上げたものである。この番組について、産経新聞が<虐殺批判の写真に裏付けなし>と批判し、日本テレビがこの写真を虐殺写真として扱ってはいないと反論している。同時にこうした報道番組の一部をとりあげて全体の批判をやる手口を批判している。こういう手口についてはこの本の中でも「一点突破全面展開」方式として批判している。些細な事実の誤認や曖昧さを持って、全体を否定するやり方であり、「南京事件」や「従軍慰安婦」などについて批判的な面々の常套手段といえる。
capelaurig
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capelaurig
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「我々は考えすぎて、感じることがあまりにも少ない。我々が必要としているのは機械よりも人間愛であり、利口さよりも思いやりと優しさである」
強欲に対しては少欲知足ですが、マハトマ・ガンジーは「地球は各人の生存のために必要とするものは満たし得るが、各人の貪欲は満たし得ない」と述べています。これはグローバリゼーションが逢着する諸問題の背景を説明するものです。 「少欲知足」は、欲望を減らすことにより幸福を極大化することを可能にするもので、現在見られる消費の極大化の追求と 対照的と言えます。
これは幸福=富÷欲望であるとする釈迦牟尼の教えと軌を一にするものです。この数式では欲望は分母であり、富は分子です。
権力に対しては哲学ですが世界が直面する危機を前にして、古代ギリシャのプラトンが「王様は哲学者になるべきである。さもなければ人類の不幸は無くならない」と述べています。今日、哲学の欠如により世界は理想を失い、民主主義の究極の目標たるべき「最大多数の最大幸福」は忘れられている。
capelaurig
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孝明天皇と将軍家茂による平和の改革を破り、戊辰戦争を起こしたのは、岩倉/桂/西郷/大久保の仕業である。倒幕派の政治的野心が岩倉を中心にまとまり、頑強な攘夷論者の孝明天皇と会津/弱体化する幕府との間で天皇の奪い合いが生じた。戊辰戦争の錦の御旗はそれを象徴している。
明治維新前の人々は国家観/天皇観より藩の殿様が全てであった。甲州人とか上州人が最近の官吏とか平民のようなもので、障壁がありました。天皇家は当時3万石の小大名にすぎず、暗殺やら偽の世継ぎは、充分考えられる状況にありました。
capelaurig
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病弱な幼少で13歳の年、禁門の変で御所は被弾し、卒倒失神される。1866年12月孝明天皇が崩御、翌年15歳で122代天皇の座に就く。中山忠能は長州に尽力した為、謹慎中で睦人親王は複雑な心境であったとされる。徳川安泰の時代ではなく、天皇の役割は国政を左右し、政治の主導権争いになる。宮中は無秩序になり猿(周防の猿回し)が出没して警護が充分ではなかった。1867年7月睦仁親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。
10年前公開された、長崎で撮影されたフルベッキと幕末の志士50名のセンタ-に大室が座っている。右向きであるのは右の頬に疱瘡痕があるという。明治天皇の肖像画(御真影)も右を向いている。左耳の大きさ特徴がドンピシャと鑑定されている。大室は奇兵隊(力士隊)所属で大男であった。睦仁親王が小柄で病弱タイプとは様変わりした。 1868年東京遷都には岩倉が大室に付き添っている。御所に居てはバレるからであり、睦仁親王のはずがない。
capelaurig
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