昭和20年(1945年)の敗戦は歴史の大きな節目であり、この前後の断層は日本史で最も深いと言えます。ところが「昭和」という元号がこの後も64年(1989年)まで存続したため、この断層が日本人に十分に認識されないという事態が生じました。
内田樹はこの「敗戦の否認」は日本だけの現象ではなく、ドイツやイタリアでも起きていると言います。普通はイタリアは敗戦国、フランスは戦勝国と思われていますが事実は逆であり、「敗戦の否認」による傷が最も深い国は日本とフランスだとも述べています。
日本で敗戦後の数年間にアメリカ軍が何をしたかは今でも十分には分かっていませんが、フランスでもドイツに降伏した後に出来たヴィシー政権はタブーになっているようです。「終戦」に言葉を置き換えて済ませず、事実に向き合う必要があると思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
内田樹はこの「敗戦の否認」は日本だけの現象ではなく、ドイツやイタリアでも起きていると言います。普通はイタリアは敗戦国、フランスは戦勝国と思われていますが事実は逆であり、「敗戦の否認」による傷が最も深い国は日本とフランスだとも述べています。
日本で敗戦後の数年間にアメリカ軍が何をしたかは今でも十分には分かっていませんが、フランスでもドイツに降伏した後に出来たヴィシー政権はタブーになっているようです。「終戦」に言葉を置き換えて済ませず、事実に向き合う必要があると思います。
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capelaurig
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「吾々の現界で見る日輪様は、人間の邪気がこって中空にさまようているから、其為に御光が薄らいで居るのだろう。天国へ来ると清浄無垢だから、日輪様も立派に拝めるのだろうよ。」
「それでも吾々の拝む日輪様とは何だか違ふじゃありませぬか。もし五三公さま、如何でせう。」
「天国に於ては大神様が日輪様となって現はれ給ひます。地上の現界に於て見る太陽は所謂自然界の太陽であって、天国の太陽に比ぶれば非常に暗いものですよ。自然界の太陽より来るものは凡て自愛と世間愛に充ち、天国の太陽より来る光は愛善の光ですから雲泥の相違がありますよ。霊国に於ては大神様は月様とお現はれになります。大神様に変りはなけれども、天人共の愛と信と証覚の如何によって、太陽と現はれ給ひ或は月と現はれ給ふのです。」
竜公「天国にても日輪様は東からお上りになるでせうな。」
「現界に於ては一切の方位を南から定めますけれども、高天原に於ては大神様が日輪様と現はれ給ふ処を東となし、之に対するを西となし、右の方を南、左の方を北とするのです。天界の天人は何れの処に其顔と体とを転向するとも、皆日月に向かって居るのです。其日月に向うた処を東と云ふのです。高天原の方位は皆東より定まります。一切のものの生命の源泉は日輪様たる大神様より来る故である。故に天界にては、厳の御魂、瑞の御魂をお東様と呼んで居ます。」(第47巻 天国巡覧 間接内流)
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伏見より老の坂を踏み越えて山陰道を西へと故郷に近づきながら、娘の足どりは重い。亀岡(現京都府亀岡市)の城下町も過ぎ、歩みを止めたのは丹波国曽我部村穴太(現亀岡市曽我部町穴太)の古びた小幡橋の上であった。犬飼川が両岸を薄氷にせばめられ、音もなく流れる。指が凍てつく欄干の上をなでる。国訛の人声が近づく。びくっとして、娘は橋を渡り、石段を三つ四つ、続いてまた四つ五つ降って石の鳥居をくぐり、小幡神社の境内に走りこむ。おおいかぶさる森を背に、小さな社殿があった。その正面には向かわず、右手の大桜の幹にかくれてうずくまる。
誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。
伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。
早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。叔父は心得たようにすぐ奥座敷へ招じ入れ、接待には世祢一人を申しつけ、他の女たちを寄せつけなかった。叔父も、同志たちも、敬慕と親しみをこめて、あの方を「若宮」とお呼びしていた。若宮が何さまであるかなど、まだ世祢は知らない。けれど二度三度おいでのうちに、あの方はなぜか世祢に目を止められ、名を問われた。(大地の母 冒頭より)
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