私を古代史に導いた本の一つに『邪馬台国99の謎』という本があります。1975年に松本清張が編した本で、当時の有名な学者たちが執筆していますが、冒頭の「魏志倭人伝はなぜ大切か」という直木孝次郎氏の文章は、記紀の史料としての限界を述べることから始まります。
(記紀が参照した)史料の多くは、六世紀中葉以降の成立と考えられる。したがって六世紀以後の歴史の動きはほぼ把握できるが、五世紀の歴史となると、正確にあとづけることはむつかしい。まして四世紀やそれ以前については、両書のなかでもっとも詳細に記されている天皇家に関する記事でも、ほとんど信用することはできない。
私は直木氏よりは記紀の史料性を高く評価する立場ですが、傾向としては彼の発言通りだと思われます。内外の史料と考古学は補い合って真実を探る必要があると思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
(記紀が参照した)史料の多くは、六世紀中葉以降の成立と考えられる。したがって六世紀以後の歴史の動きはほぼ把握できるが、五世紀の歴史となると、正確にあとづけることはむつかしい。まして四世紀やそれ以前については、両書のなかでもっとも詳細に記されている天皇家に関する記事でも、ほとんど信用することはできない。
私は直木氏よりは記紀の史料性を高く評価する立場ですが、傾向としては彼の発言通りだと思われます。内外の史料と考古学は補い合って真実を探る必要があると思います。
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幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。
東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。
虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。
待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。
「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」
あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。
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東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫さまと皇室との御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。
東京遷都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。
――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。
――ただそれだけで、うちは幸せなんや。
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ある日、事情に気付いた船宿の朋輩の一人が世祢の様子をうかがい、おどすように忠告した。
「有栖川の若宮さまの落胤は、男やったら攫われて殺されるそうどすえ。気いつけやっしゃ」
「ちがう。うち、身ごもってまへん」
世祢は強く否定した。にらんだ下から、唇が褪せた。故郷が狼狽する世祢を招いた。
伏見で船宿を営む叔父夫婦には子がなかった。姉の娘である器量よしの世祢を、前から養女に望んでいた。
けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。
思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った。
「しんどかったら、もう寝なはれ」
宇能は思わしげに娘賀るにいった。貧しい夕餉の半ばである。賀るはうなづき、重たげに椀を置くと、足音も立てず奥の長七畳の間に消える。宇能は夫吉松と眼を見合わせて吐息した。
次女ふさが亀岡町西竪の岩崎家に嫁いだのは二十三歳の春。つづいて十九歳の三女世祢が、養女に望まれて伏見の叔父の船宿へ手伝いがてら行った。それからもう丸二年に近い。家にいる長女賀るは今年三十二歳、とうに婚期を逸した。体が弱く、器量もよいとは言えぬ。
めっきり老いの深い背をまるめて、かさかさと飯をかきこむ吉松。土間の片隅で丹念に磨いた鎌と鍬の、はがねの色が冷たく光る。
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宇能は箸をとめて、腰を浮かした。人の気配が動いて、板戸が鳴った。吹きこむ雪にまじって、白い顔がのぞく。「お世祢……」
喜色と不安をつきまぜて宇能は末娘を迎え入れ、肩先につもる雪をはらった。そわそわと肥松を持ち出し、吉松は囲炉裏に明るい炎を上げる。叔父の家でととのえたのか、黒地に紅の細縞の着物。黒繻子にたまのり縮緬の腹あわせ帯がよくうつる。娘らしさがはんなり家中に匂った。
「お賀る姉さん、どこおってん」
「いま寝たとこや。ぐわい悪いんやろ、起こさんとき」
まだ独身の姉の姿の見えぬことにむしろほっとし、世祢は草鞋をぬぐ。母の出してくれた濯ぎの水が、赤くむけた足の親指の根本に激しくしみる。
こういう時、男親の吉松は出番がなくて落ち着かない。
「飯、まだやろ。早う食わせたれ」
「いらん」
思いつめた娘の眼つきに、吉松と宇能はどきっとした。世祢の頬も手も青白く冷えて、こわばっている。宇能は熱い番茶をつぎながら、さりげなく聞く。「年の暮れで忙しやろに、よう帰してくれはったなあ」
「暇もろうて来たんや」
「暇……? お世祢、暇いうもんは、いくら親戚の船宿かて、お前の勝手で願うてもらうもんやない。それともなんぞ落ち度があって……叱られて出されて来たんやないか」
咎めるような母の語気に答えず、世祢はうつむいた。手の中で番茶が揺れ、膝に散った。うっと口元を押え、部屋の隅にいざって背を向ける。
「歩き通しでくたびれとんのやろ。ごちゃごちゃ聞かんと、早う寝かしたりいな。話は明日でええやんけえ」
吉松がいたわるように口をはさみ、それが手くせの、賽ころを湯のみの中にほうりこんで、丁と伏せる。
娘の波立つ背をみつめ、宇能は鋭い不安に胸をえぐられた。
「もしか……赤ん坊こさえたん違うか」
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「おなかの子の父は……その男はついてこなんだんか」
「東京へ……もう京へは帰らはらへん。あちらで奥さまを……」
「子のでけたん知って、捨てて逃げくさったか」と、吉松は顔色をかえた。
「知ってはらへん。母さん、そんなお方やないのや」
「あほんだら」
頭から吉松が怒声をあびせかけた。
「そんなお方もへったくれもあるけえ。何さまか知らんが、腹の子の父親なら、江戸でも蝦夷でも行って、わしが連れもどしてきちゃるぞ。ええか、お世祢、びすびす泣かんとけ。俺があんじょうしたるわい」
激昂しながら、父も母も姉に聞かせまいと、つとめて声は低い。世祢は高ぶる感情を必死におさえて、涙をはらい、坐り直した。
「東京へお移りにならはる前の日に、伏見までお使いがこれを届けてくれはったん……」
風呂敷をとき、母の前に押しやった。白綸子の、目をみはるばかりあでやかな小袖に見慣れぬ横見菊車の紋が一つ。それに……宇能は声をのんだ。錦の袋にくるまるのは、一振りの白木の短剣ではないか。
「これは、うちの守り刀にと……それにこの金子も……」
美しい布地で作った巾着にも、小袖と同じ菊の定紋がある。世祢は小袖をすくい上げて胸に抱き、艶やかな絹の手ざわりに頬を染める。その小袖から、はらりとすべり落ちた物があった。吉松がひろって眺め、宇能に手渡す。字は苦手、というより、まったく文盲の父であった。粛として、宇能はそれを見つめる。
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