邪馬台国の問題については、今まであまり投稿しておりませんが、卑弥呼をモモソヒメと考え、箸墓古墳をその墓と考えれば良いのではないかと思います。
この時代に何故、中国(魏)との交流が異常に活発だったのか不思議がる意見もありますが、それも当然の話で、卑弥呼の外交の舞台は主に帯方郡です。韓国や北朝鮮の学者は認めませんが、この時代は中国が朝鮮半島に勢力を伸ばしていたと考えられています。
戦後の日本の歴史教育は中国文献や考古学から始めるようになりました。歴史の客観性という意味では良いことですが、貴重な伝承が多く含まれる古事記や日本書紀を捨てて省りみないのは惜しいことだと思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
この時代に何故、中国(魏)との交流が異常に活発だったのか不思議がる意見もありますが、それも当然の話で、卑弥呼の外交の舞台は主に帯方郡です。韓国や北朝鮮の学者は認めませんが、この時代は中国が朝鮮半島に勢力を伸ばしていたと考えられています。
戦後の日本の歴史教育は中国文献や考古学から始めるようになりました。歴史の客観性という意味では良いことですが、貴重な伝承が多く含まれる古事記や日本書紀を捨てて省りみないのは惜しいことだと思います。
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コメント一覧 (12)
capelaurig
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なぜ長女の賀るをおいて三女の世祢に婿をとるのか、そんな疑念など湧くひまがなかった。梅吉はあわてて首を横にふり、口ごもり、今度は縦に幾度もうなずいていた。
佐野梅吉二十六歳。この穴太の地から三里北の川辺村字船岡、紺屋の次男坊である。兄弟八人、それぞれに身を固めるが、梅吉に限って十三の年に八木の角屋という醤油屋に丁稚にやられた。幼い頃からの癇癪もちで、すぐ前後の見さかいもなく喧嘩をする。懲戒の意味があった。だが角屋の主人は、梅吉の正直さ、律儀さを買って目をかけてくれた。時にはこらえようもなく癇癪がつのって朋輩と喧嘩することもあったが、まず大過なく十年の年期を勤め上げた。
この斉藤家に奉公してからは二年、牛小屋の二階での一人暮らしであったが、そろそろ妻のほしい年であった。
農閑期のうちにという理由で、挙式はむやみにいそがれた。年が明けて間なしであった。斉藤庄兵衛と妻女須賀が媒酌人となって、ひっそりと盃を交した。何故か重苦しい。はなやかな牡丹のような中の娘ふさが婚家先から帰ってきて三人姉妹がにぎにぎしく揃ったというのに。当然婿を迎えて家を継ぐものと思われていた賀るが、とうに婚期を逸した姿でこの席につらなっているのが、いかにも痛々しかった。座に居ても立ってもつらい立場であろう。
花嫁は始終うつむいて、婿殿を見ようともせぬ。上の姉に気がねしとんのやろと梅吉は思った。
田舎の野放図もなく飲み明かす披露宴のなかばで、花嫁は宇能に手をとられて幾度か席をたった。足もともおぼつかぬほど緊張しきっているのか、世祢の頬は蒼ざめ苦しげにさえ見えた。(大地の母 冒頭部)
capelaurig
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苦痛の度が違ふのは、其精霊の悪と虚偽との度合の如何に依る。(第48巻 幽冥模索 六道の辻)
capelaurig
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義父は婿を得て気がゆるんだのか、枕につくことが多くなった。一家の責任はすべて梅吉の肩にのしかかった。上田家は俺が再興してみせると、梅吉は気おい立った。
穴太では、上田・松本・斎藤・小島・丸山の五つの姓を御苗(五苗)といい、顔のよい家柄とされた。御苗以外の家柄を〝平〟と蔑視した。上田姓はさらに北上田・南上田・平上田にわかれる。梅吉のついだ上田家は、北上田であった。
上田家は藤原治郎左衛門正一を中興の祖とし、村の伝承によると、文明年間(一四六九~八七)に大和から落ちて来たとされる。正好・正忠・正武・為正・正輔・正安以上七世は、みな藤原治郎左衛門と称した。正安の代まで、西山の麓高屋という地に高殿を建て、高屋長者といわれて百余年住み、その後は愛宕山(穴太にあり、京都の愛宕山とは別)の小丘に砦をかまえこの一帯を領していたが、明智光秀のために没収されたという。
梅吉より七代前の祖先政右衛門の代になって、上田と改姓した。改姓の理由は、「藤原姓であると、万一誤って藤蔓を切れば家が断絶する」との巫女の妖言を妄信したせいとか。当時五町歩(一万五千坪)の二毛作の上田を所持していたから上田姓になったともいわれる。
上田家の産土である小幡神社所蔵の文書によると、「一巴上田、二巴斎藤、三巴藤原」と家紋のとり決めがされていたが、北上田系の家紋は藤原にちなんで三巴である。 宇能が上田家に嫁入った頃は、家から隣村の天川まで他人の土地を踏まずに行けたという。
capelaurig
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capelaurig
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学者の家に生まれ、女性としては珍しい教養の持主である宇能を吉松が妻にし得たのも、上田家には、それに見あう家柄と財産があったからだ。それを吉松一代で見事に無にし、百五十三坪の宅地と破れ家、買い手のつかぬ三十二坪の悪田一枚残すのみとなった。
酒は飲まぬ。煙草はすわぬ。神経質なぐらい清潔好き、その上、正直で勤勉な吉松である。それでいて一家を貧困に追いやったのは、博奕好きという性癖に起因した。二六時中、賽をはなしたことがない。吉松は農事のひまを一刻も無駄にせず相手を探しては丁半、丁半。夜ふけてもやめぬ。相手がくたびれて眠りこけ、行燈と二人になっても丁半、丁半。強くない証拠に、昨日は一枚の田がとび、今日は一山が移転する。
世に賭事好きは多い。熱中して破産する者も珍しくない。が、変わっているのは吉松の女房宇能への言種である。
「心配すなや。お天道さまは空とぶ鳥さえ食わしとってや。魚や獣は明日のたくわえしとらんが、別に餓えて死にもせん。人間かて餓えて死ぬのは千人のうち何人、あとは食い過ぎて死ぬ。人間、四日や五日食わんでも死なんよう、あんじょうできとる。気楽なもんや」
「……」
「好きばかりでわしが博奕打っとんにゃないで。孫子のためにしょうがなしにや。上田家はこれまで、小作人らの働きで栄耀栄華に暮らしてきた。それだけに罪も深く、たくさんの人の怨みがこびりついとる。わしは先祖代々の深い罪障をとりに生まれてきた。大木はいったん幹から伐らんと良い芽が吹かん。上田家も一度は家屋敷まですっかりなくさんなん」
「それはあんたはんのお考えですか」
「いんや、産土の神さんのお告げや。博奕をなまけると、覿面に神さんが夢枕に立ってのう、ごつう怒ってんじゃ。そのかわり、わしの孫の代になってみい、きっと世界の幸福者になるわい」(大地の母 冒頭部 完)
capelaurig
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