重祚(ちょうそ)は一度退位した天皇が復位することで、飛鳥時代の斉明天皇(皇極天皇の重祚)と奈良時代の称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の2例が知られています。偶然ですがどちらも女帝(女性天皇)です。同一人物でも異なる諡号が贈られており、これは天皇その人よりも天皇の位を重んじる考え方に基づくと思われます。
ここで問題になるのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇は北条高時と足利尊氏によって2度の廃位と復位をしており、事実は2度の重祚をしています。しかし、南朝を正統と見る立場からは廃位も復位もなく、後醍醐は一貫して天皇だったということになります。一方、北朝を正統と見る立場でもこれを重祚と見るかどうかは見解が分かれているようです。
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ここで問題になるのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇は北条高時と足利尊氏によって2度の廃位と復位をしており、事実は2度の重祚をしています。しかし、南朝を正統と見る立場からは廃位も復位もなく、後醍醐は一貫して天皇だったということになります。一方、北朝を正統と見る立場でもこれを重祚と見るかどうかは見解が分かれているようです。
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言依別『オー玉彦、神素戔嗚の大神の御舎は、どの方面に当らうかなア。此処は河鹿峠の山麓、河鹿河の岸辺と見える。暴風に吹捲られ、吾等は脆くも此山麓に吹散らされ、何となく一種不可思議な心持になって来たが、汝等はどう考えるか。』
玉彦『仰の如く河鹿峠の烈風に煽られ、千尋の谷間へ転落せしと思ふ間もなく、風に木の葉の散る如き心地し、フワリフワリと魂は飛んで大空高く東を指して進み来りしよと見る間に、不思議や吾等一行の身は、名も知れぬ山の麓の風光明媚の河縁に進んで来たのです。吾々が熟ら考へまするに、此処は決して河鹿峠のの谷間ではありますまい、自転倒島の中心点の様に思はれます。』
厳彦『さうだ、玉彦の言う通り合点の行かぬ四辺の光景、現界とは様子が大変に違って居る様だ、大方此処は天国ではあるまいかいなア。』
楠彦『たしかに天国に間違ありませぬ。迦陵頻迦の数限りもなく、アレあの通に舞狂ふ有様、吹き来る風は美妙の音楽を奏し、空気は何となく香ばしく梅花の香りを交へ、見るもの聞く物一つとして快感を与へないものは御座いませぬ。御案じなさいますな、真心を大神は御見ぬき遊ばして、斯かる天国に導き下さったのでせう。』
天空を轟かして一道の光明と共に天の磐船に乗りて此場に下り来る神人あり。天の磐船は静に一行が前に舞下りぬ。金銀珠玉、瑠璃、瑪瑙、真珠、珊瑚等を以て飾られたる立派なる御船なりき。(第15巻 神行霊歩 第一天国)
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小幡神社の北が豪農斎藤源治の大邸宅、そのさらに北隣に喜三郎の生まれた上田家の、吹けばとぶよな藁ぶきの家がある。上田家の自慢は、家は小なりといえ、四方に水を有することであった。北には村道をへだてて小川が流れる。屋敷内の西南には清水の湧き出る久兵衛池が清冽な水をたたえ、それは西へ流れる。さらに東に味のよい深い井戸。家柄の古さをしのばせる年をへた椋、三本の榧の大木などが蒼々と天をおおって、みすぼらしい家をめぐっていた。明治四(一八七一)年十二月二十七日、祖父吉松は家族の者を枕頭に呼び寄せた。
「俺、もうぼつぼつ死ぬで」
「……」
「けど只一つ、この世に名残りがあるわい」
「なんなと言いなはれ。わたしにできることなら……」
宇能は夫の言葉を聞きとろうと、耳を寄せる。
「まだあれが残っとるやろ、ほれ、薮のねきの小町田とこの家屋敷のう、うんと精出したつもりやのに、手ばなし損のうた。このまま死んだら、産土さまに会わす顔あれへん」
皆が呆れて眼を見あわせる。吉松は次第に苦しい息の下から、言葉をつぐ。
「えげつない男や思うやろ。けどのう、上田家は因果者の寄り合いで、とうに断絶するはずのとこを産土さまのお慈悲で大難を小難にすまさしてもろてる。そんでも宇能や、お前が嫁に来てくれてから、一日半時も安心さして歓ばしたことなかったのう」
宇能はこみ上げる涙を押え、
「じき博奕の相手探してきますさけ、冥土の土産に一代限りの勝負して、家屋敷も御先祖はんの罪障もなしにしとくれやす」
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『貴下は瑞霊の分霊、常世の国に生れましし言依別命にましまさずや、吾は高天原より大神の命を奉じ、お迎へに来りし者、サ、サ、早くこの船に召させ給へ。』
と言葉を低うし、礼を厚くして述べ立つるにぞ、命は何気なく此美はしき船に心を奪はれ、ツカツカと側に近付き給ふよと見る間に、磐船のの傍に装置せる美はしき翼、命の身体を包みて御船の中に入れ奉りけり。忽ち美妙の音響轟き渡ると見る間に、磐船は地上を離れ、ゆるやかに円を描きつつ空中に上り行く。三人は突然の出来事に呆然として空を見上ぐるのみなりき。磐船は空中高く舞上り、船首を転じ、中空に帯の如き火線を印し乍ら、月の光を目当に悠々と進み、遂には其姿も全く目に止らずなりにけり。(第15巻 神行霊歩 第一天国)
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「わたしの孫に……」
宇能が聞き返すと、吉松ははっきりうなずいた。梅吉夫婦も賀るもうそ寒い顔になる。
「それからのう、上田家は、円山応挙はんの出た家柄や。七代目ごとに大物が出ると伝えられてきたが、喜三郎は応挙はんから数えてちょうど七代目、あれは大物になる。どえらい大物になる。けんど上田の家にしばりつけてはおけぬ因縁の子や。大きゅうなったら養子にやれ。喜三郎を頼むで」
世祢は喜三郎をおしやった。そのやわらかい小さな手をにぎって、吉松は気持ちよげに即興のうたを口ずさんだ。
〽打ちつ打たれつ一代勝負
かわい妻(賽)子にこの世で別れ
賽の河原で賽ひろう
ノンノコ賽々ノンノコ賽々
それが辞世となった。上田吉松享年五十七歳。養子梅吉は襲名し、二代目吉松を名のった。
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厳彦(いづひこ)『何事も神のまにまにお任せするより仕方がない、言依別命様は荘厳極まりなき天国に上られ、大神の右に座し、地上の経綸を言問はせ給ふお役と見える。吾々は最早言依別命様の事は断念して、足の続く限り進まうではないか。』(第15巻 神行霊歩 第一天国)
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物心ついた喜三郎は、長い期間、家族は全部で六人とばかり思いこんでいた。祖母・父・母・伯母・喜三郎・それに小さな爺さん……変わっているのはこの爺さん、いつも茶縞の着物をきて腰を曲げ、喜三郎の後へひょこひょこついてくる。家族の誰もが爺さんを相手にせず、また爺さんも語ろうともせぬ。好きでも嫌いでもなかったし、この影のような存在を不思議とも思わなかった。喜三郎には、そういうボーッとした一面があった。
明治七(一八七四)年の松の内、初めての弟が生まれた。その皺くちゃの顔がこの世にあらわれた時、家族の誰もがぎょっとした。四歳になった喜三郎も、「この赤ちゃん、物言わぬ爺さんと同じ顔や」と思った。次男の名は、祖父・父と伝承した吉松の名の松の字をとり、吉はヨシとも読めるので、由松と命名された。
五歳の年、喜三郎は驚風病(脳膜炎及びこれに類する症状をもつ病気)に見舞われ、重ねて脾肝の病いに侵された。腹ばかりふくれ、手足は針金のように細くなった。未申(西南)の方向に先祖が掘った久兵衛池の祟りだと易者は言った。家族は心配してあちこちの神社仏閣に祈祷を願ったが、病気は悪化するばかりで、なんの効験もなかった。(大地の母 青春の詩)
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ゴタゴタと ご託並べて 五輪開催 (金狼と月)
内閣の ゴタゴタ続き 五輪まで (柚っ子)
ゴタゴタが 開会式を 盛り上げる (原子力ガリレオ)
どうするの ため込みすぎた 汚染水 (小貧民)
ゴタゴタの 続くオリパラ いやけ呼ぶ (乾草)
特選
この国の ゴタゴタ何時迄 続くやら (落葉)
本物の秀句
脱原発 苦難乗り越え 本物へ (ふ64)
本物の 力出せない 炎天下 (金狼と月)
本物の バカのそろった 菅内閣 (乾草)
鰻様 本物拝謁 記憶消え (柚っ子)
本物の 政治家求む 日本国 (原子力ガリレオ)
特選
五輪禍で 後進日本が すけて見え (小貧民)
川柳
オリンピックこんなくだらぬものと知り
腐ってる政治腐った五輪する
まだ五輪ほざく奴らの面の皮
五輪強行亡びの道のやかましさ
呪われた五輪ますます呪われる
オリンピックすべてウソはすでにバレ
コロナ五輪お忘れなくとも熱中症
五輪中止もう世直しの他はなし
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