今日は「終戦の日」です。これは明らかに言葉の置き換えであり、正しくは「敗戦の日」「降伏の日」でしょう。
昭和20年のこの日は暑かったと言われていますが、今年は数日前から季節外れの大雨が続いています。梅雨でも秋雨でもないこの時期、コロナに加えて災害の危険も高まっています。
政府は自粛を要請していますが、私は老父が一人暮らしをしている同県内の実家に戻っています。母は施設に入っていて会うことは出来ませんが、母が以前に買った軍歌のCDがありました。
父が軍歌好きなのはよく知っていましたが、母が軍歌を聴いていたのは意外でした。聴いてみると父が覚えていた歌が多くあったらしく、涙ぐんでいました。私も題名だけは知っていて初めて聴く歌が多くありました。日本の歴史の最大の断層を垣間見た思いがしました。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
昭和20年のこの日は暑かったと言われていますが、今年は数日前から季節外れの大雨が続いています。梅雨でも秋雨でもないこの時期、コロナに加えて災害の危険も高まっています。
政府は自粛を要請していますが、私は老父が一人暮らしをしている同県内の実家に戻っています。母は施設に入っていて会うことは出来ませんが、母が以前に買った軍歌のCDがありました。
父が軍歌好きなのはよく知っていましたが、母が軍歌を聴いていたのは意外でした。聴いてみると父が覚えていた歌が多くあったらしく、涙ぐんでいました。私も題名だけは知っていて初めて聴く歌が多くありました。日本の歴史の最大の断層を垣間見た思いがしました。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
コメント
コメント一覧 (15)
道々、喜三郎は痒さのあまり掻きむしった。穴太に着いた頃には、体一面に漆がひろがっていた。父や由松と違って、喜三郎の肌はきめが細かく、梅の花びらのような色であったから、あまり丈夫でなかったに違いない。体全体がはれ上がり、瘡になって、ついに身動きできぬほどになった。息災を願う親心が仇になった。
吉松は沢がにや泥鰌をとってきた。宇能が沢がにをすりつぶして体に塗ったり、生きた泥鰌を体熱でぐったりなるまでなすりつけたりしたが、頑固なかぶれは治らない。翌明治十一年春、学齢に達しても小学校へ行くことはできなかった。この時の漆かぶれの痕跡は、生涯腹部から消えぬぐらいひどかった。
明治十二(一八七九)年三月、三男幸吉が生まれた。世祢は弟二人に手をとられ、喜三郎の世話はほとんど祖母宇能にゆだねられた。宇能はつききりで、学校へ行けぬ喜三郎のために仮名から単語篇・小倉百人一首と順次教えこんだ。すでに新聞も読める喜三郎であったが、基礎の書き順から学ぶことに意義があった。記憶力と理解力はすばらしい。一度聞けばきちんと頭に整理され、しまいこまれた。
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
松彦『素戔嗚大神、天の高天原を神退ひに退はれ給ひし日より計算しての年数でございます。』
言依別『アア然らば最早数十万年の年月を経たるか。』
松彦『神界に時間はありませぬ。これも現界より見ての年数です。尊御隠退時代は、彼の波の漂ふ辺りは残らず美はしき山でございました。少しく東に当って小さき、黒き影のように見えまするのは、古のシナイ山の頂でございます。斯く如く世態は一変し、陸地は大湖水となり、海の各所に新しき島嶼が続出しました。』
美はしき羽翼を列べて十四五の鳥、此の十重の塔に駆け来り、五人が前に羽根を休めける。見れば鳥と見しは見誤りにて、羽根の生へたる小さき人間なりき。松彦は一同に向ひ、
『彼は天地の間を往来し、神々の御言葉を伝ふる使神であります。地上の世界は炎熱甚しく相成りたれば、今は罪軽き神人は残らず、日の御国に移住をすることになっています。そのために空中郵便が開始され、彼の使は三十世紀の昔に於ける郵便配達夫の役を勤むるものでございますよ。日の御国に御用がございますれば、此処で手紙を御書きなさいませ。この十重の神殿は謂わば天と地との文書の往復を掌る一等郵便局のやうなものです。』
言依別『吾々は神代の文字は知っていますが、今日の時代は文字も大変異っていませうね。』
松彦『昔のやうに今日の時代は、毛筆や、鉛筆、万年筆などの必要はありませぬ。唯指先を以て空中に七十五声の文字を記せば、配達夫は直に配達して呉れますよ。』と右の指を以て空中に七十五声の片仮名を綴りて、一つの語を作り、
『サア、これで手紙が書けました。文字が言語を発する時代となって来ました。』と言って笑っている。 (第15巻 神行霊歩 帰顕)
capelaurig
が
しました
「応挙はんの七代目やろ」と、無邪気に喜三郎は祖母を見返す。宇能は半ばうなずき、半ば否定して、
「それだけやない。お前の体には高貴な方の血が……天子さまと同じ血が流れている」
「そら……誰かて天子さまの子供やさけ」
打てば響く喜三郎の言葉に、宇能は黙した。それ以上は言えぬ。いつもそこで切れる話題であった。
宇能は喜三郎に独特の教授法を試みていた。孝道から受け継いだ言霊学の知識を傾けて、この非凡な孫にそそぎ入れた。瘡でふくれた面容怪異の体を横たえ、わずかにのぞく糸のような眼を光らせる九歳の孫と六十六歳の白髪の祖母。二人の間にしか通じぬ言葉のやりとりを聞きながら、父吉松は「水のみ百姓の伜にそんなけったいな学問などいるけえ」と宇能の情熱を笑った。百姓は体が丈夫で働けたらよい、なまじ学問など邪魔っけやと吉松は信じこんでいる。やがて宇能の教える知識は底をついた。
近所の同年の友上田和一郎が来て、病床の喜三郎に告げた。
「喜三やん、学校てほんま恐いとこやぞ。ちょっとよそ見したらのう、先生がこんなごつい鉄棒でどつきよる」
「ほんまけえ。無茶しよるのう」
喜三郎は友の誇張した話に脅え、学校に行くのはかなわんと思った。
capelaurig
が
しました
『モシ言依別の命さま、妙なものですなア。随分世の中も開けました。二十世紀時代の人間は文明の極致に達したとか、神界の秘密を探ったとか、時代を征服したとか言うて居ましたが、今日になって見れば実に幼稚なものですな。』
此時以前の使は、電の如く此場に降り来り来たりぬ。
『天の高天原より返事を致します。唯今御申越しの言依別命外三人は、未だ現界へ御帰し下され度し。時代は三十五万年の古に復して、河鹿峠の谷底へ帰顕せしめられ度し。右御返事申します。地の高天原の消息の司松彦殿。』と空中文字の返書が声を発して、自然に物語りいる。
玉彦『アア未来の世は結構だナア。吾々も此儘神界にいたいものだが、三十五万年の未だ苦労を済まさねば、此処へ来ることは出来ぬのかなア。仕方がありませぬ。松彦さま、これからお暇を致します。』
松彦『皆様、暫らくお待ち下さいませ。空中交通機を上げませう。』
と又もや指先にて空中に、何事か記す其の刹那、金色燦然たる鳥の翼の如きもの四組、何処ともなく此場に降り来たりぬ。
『サア之を御着けなされ。』自然的に四人の肩の辺ろに、金色の翼はピタリとくいつきたり。
言依別『暫くの間、気が遠くなったと思へば、有り難い、高天原の状況やら、数十万年の世界の状況を見せて貰った。全く国治立尊、神素戔嗚尊の広き、厚き御恵みだ。』(第15巻 神行霊歩 帰顕)
capelaurig
が
しました
父に連れられて、初めて小学校へ向かった。行く道々は梅花がかおった。肌をなでる風すら春を告げる。喜三郎は踊り上がった。それでも足りず、雪をかぶった愛宕の峰に胸をはって、「アーオー」と喜びの言霊を発射していた。父はあわてて息子の口をふさぎ、いかめしく訓戒を与えねばならない。
「ええけ、学校行ったらのう、よそ見したらあかん。小便しとうても我慢せい。居眠り、絶対するやない。いまみたいに変てこな声あげてみい、いっぺんにこれや」
父は拳固を頭上にふり上げてみせる。和一郎の話と思い合わせ、喜三郎の喜びは萎えてしまった。
当時の曽我部には、明治六年七月より穴太に偕行小学校、寺村に養正小学校があった。穴太・南条・西条・重利の四部落が偕行校、他の五部落が養正校に通った。喜三郎の通った偕行校は穴太寺境内にあった。
その頃の穴太寺は、全国にまたがる西国めぐりの巡礼で賑わっていた。亀岡の殿はんが五万石であるのに、穴太寺は十万石待遇を誇っていた。街道の道筋には、巡礼や参拝めあての白木屋・紅葉屋・河内屋・万屋・伊勢屋など十三軒もの宿屋が並び立ち、穴太口の近く巡礼橋まで客引きが出て、客を奪いあった。
capelaurig
が
しました
神界には至善至美の神人を始め、各階級の諸多の神霊あり、且つ現界に於ける正しき人々の本霊此処に住して、現界人を守護す、之を本守護神といふ。故に吾人の霊魂、正神界に籍を置く時は、現世に於て行ふ処の事業悉く完成し美果を結び、概して神に仕へ公共に奉仕し、至誠一貫克く天地の経綸を全うするものである。
之に反して、吾人の霊魂、邪神界(幽界)に籍を置く時は、その精神不知不識に混濁し、邪曲を行ひ、天下に害毒を流布し、且つ何事を為すにも事半途にして破れ、必ず良果を来す事は不可能なものなり。
現界に於て、吾人が日夜活動するに当りても、その霊魂は神界又は幽界に往来しつつあるものである。故に吾人は造次にも顚沛にも神を信じ神を敬ひ、神界と連絡を保つ可く信仰を励まざるべからざるなり。この霊界物語も亦た神代の太古に於ける現界を主とし、神界と幽界との相互の関係を口述するを旨としある。(第6巻 霊主体従 松葉の塵)
capelaurig
が
しました
偕行校は、その穴太寺の華麗な多宝塔と向き合う松の木の間の念仏堂を教員室にあて、続いて大きな木製の衝立で仕切った四間の教室をつくり、各学年を収容していた。といっても、全学年を通じて三十人ぐらいの少人数であったらしい。
当時の小学校の制度は満六歳から満十四歳の八か年で、上下二等四年ずつに分け、各自八級から一級に至った。六か月間を一修学期間とし、春秋二季に試験があり、能力に応じて八級から順次一級に進ませる制度で、一級を卒業する時に大試験を行なった。喜三郎は、入学が途中であったためか、初めは下等八級の下の等外であった。同年の子より、三年おくれていた。
校長は亀山旧藩士出口直道、先生はやはり亀山旧藩士吉田有年。他に書記兼小使いの亀やんこと斎藤亀次郎がいた。校長と吉田がかけ持ちで、こちらの教室で読本の一節を読むと、直ちに隣の教室へ走って算術を教えるという調子であった。だから先生の姿が衝立のかげに消えるとすぐ騒ぎがおこり、喧嘩がはじまる。
capelaurig
が
しました