カテゴリ: エッセイ

甲骨文字は漢字の祖先と言われています。三千年以上前の古代中国の殷の遺跡から獣の肩甲骨や亀の甲羅を焼いて占った記録が残されています。
亀の甲羅を使う占いは現在の日本でも行われており、令和の大嘗祭で稲を献上する地域を定めるために行われたそうです。古代中国との深い繋がりが感じられます。
漢字は不思議な文字で、世界の古代文明で生まれた文字が忘れられてしまった中で滅びることなく使われています。東洋は文字を中心とした文明であり、発音記号のような文字しか持たない西洋の言語学では全く分かりません。
この漢字文明を滅ぼすことなく未来に伝えていきたいものです。
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広辞苑第四版の「淡海三船(おうみのみふね)」の項には次のように書かれています。新しい版では多少の変更もありますが基本は同じです。

奈良時代の官人・学者。弘文天皇の曾孫。(中略)神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を撰定。(後略)

これは学問的には誤りと言わざるを得ません。『釈日本紀』所引の『私記』で確認できるのは持統天皇までであり、あとは奈良時代の二人の女帝、元明天皇と元正天皇が加わるかどうかという程度です。国語辞典に百科事典的な正確さを求めるのは無理かもしれませんが、影響力がある辞書だけに考慮してほしいところです。
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中国の怪談を集めた書物に『捜神記』があります。その中にこんな話があります。
漢の武帝が甘泉の離宮で天のお祭りを行うために馬車で行列を組んで進み、黄河の支流の大河にかかる橋を渡っていると、川で女性が水浴をしているのが見えました。その女性は乳房の長さが七尺もありました。武帝が驚いて尋ねると女性は「七番目の馬車にいる人が知っています」と答えました。その馬車には張寛という人が乗っており、彼は武帝に説明しました。
「この女性は天の星です。お祭りに備えた陛下の御身の清めが十分でないため、姿を変えて注意しているのです」
武帝は感心して張寛を揚州の刺史に任命したので、世の人々は寛を「七車張」と呼んだそうです。
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『宋書』倭国伝は不可解です。なぜ小学生でも不思議に思うような誤った読み方がされているのでしょうか。
珍と済の間には王位継承が無いのです。「珍死して済立つ」という文章は無いのに、専門家と称する皆さんは超能力で透視するかのように、この文章が本文に書かれているものとして議論をされています。
私の知らない深い闇があるのかもしれません。近現代に限らず、いつの時代も闇はあったと考えられます。古代の闇は時間が経ってしまっているだけにいっそう厄介です。
私が邪馬台国問題に深入りしないのは闇が深過ぎるからです。倭の五王(実は四王だと私は思っていますが)の時代ならどうにか分かりそうなものですが、かなり難しいです。王仁三郎が「王仁」を名前に取り入れたのも謎の一つです。
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前回で倭の五王の珍=済説を書きましたが、要点を纏めておきます。
王朝交代説は、『宋書』倭国伝で珍と済の続柄の記載が無いことを根拠としますが、続柄だけではなく、珍の死と済の即位を表す言葉もありません。
続柄が無いことだけを取り上げ、死と即位が無いことを取り上げない王朝交代説は論理的におかしいのではないか。
死と即位が無いということは、王朝交代どころか王の交代もなく、珍が改名して済になったということ。
珍が百済の軍事権を宋から認められなかったため、百済の一字を名前にして宋にアピールしたのではないか。
以上です。また続きを書くかもしれません。
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